2011年7月27日水曜日

中国は変わり始めた?

まあ、ひどい事故であった。
新幹線が200Km/h近いスピードで停止した列車に突っ込むなんて信じられない。
事故原因がわからないうちに先頭車両をこわして土に埋めるし、被害者の捜索は2日で打ち切るし、全く恐ろしい国である。

これだけの事故を起こした直後に、技術の優秀性を信じるとか何とか強弁するし・・・。これで、あの鉄道技術を買おうという国はなくなった、かな?そもそも、供与してもらった外国の技術を自分の技術として特許を取ろうなど・・・まあ、何というか・・・はぁ。

しかし、ネット上の批判、遺族からの批判を受けて、埋めた車輌を掘り起こしたり、鉄道省を批判する報道を管制しなかったりと、変わり始めているのも確かなようだ。

いずれ、われわれの国と同じような社会になるのかはわからんけど、少なくとも共産党から国民に少しずつ権力が移動しているのであろう。そして、これは不可逆的なものであるのだろう。たぶん。

できればお付き合いしやすい隣人になってもらいたいものだが、性格は変わらんかな?

2011年7月19日火曜日

懺悔

申し訳ない。
稲わらを3月まで水田に放置するなんて、「あり得ない」と何度も書いた。
しかしあるらしいス。

読売新聞によれば、今回汚染が問題になった肉牛の7割は宮城県産の稲わらを食べていたとし、「秋から冬にかけて雨や雪が少ない同県は、稲わらの乾燥に適し有数の供給地となってきた。」と書いている。

ニッポンは広いス。
私の常識だけで判断してはいけない。
農水省も私並みに判断したのだろうか?
これから気をつける所存です。

2011年7月16日土曜日

いったいどういう・・・

高濃度の放射性セシウムが検出された稲わらを食わせていた肉牛の出荷が続々と明るみに出てきた。牛についてはBSE問題の時にトレーサビリティ・システムを構築したのだが、今回はそれが生きた。このシステムがなければこれだけ短時間に流通網を把握できなかったはずで、不幸中の幸いであった。

農水省は「想定外」であったとしているが、全く想定外の事態だといっていい。まさか、昨秋に収穫した稲わらから、高濃度の放射性物質が出るとは誰も考えないだろう。

いったい、どのような形で稲わらを保管していたのだろうか?稲が収穫されたのは昨秋である。稲わらがそのまま水田に放置されていたとは考えられない。ロールベーラーで丸めておいても、何回も雨に当たったのではエサと言える状態ではなくなってしまうからだ。ニュースでは「3月11日以降に収穫した稲わら」などといっているが、私の常識からいえば「そんなことあるわけない」と思う。しかし、実際はあるのだろうか?そして、そんなワラを粗飼料として与えている肉牛農家がいっぱいいるのだろうか?

いずれにしろ、このように続々と出てくるのではどうにもならない。県がワラの保管状態を解明する必要があるだろう。家畜保健所の職員は今頃大わらわだ、たぶん。

当分、福島産の牛肉は敬遠されるであろう。このような事態になってしまったのでは、消費者としては当然の行動である。すでに肉からセシウムが検出されているので「風評被害」ではない。

セシウムは、比較的早く体外に排出されるから大きな心配はない、という報道があったと思う。無論、人間の話であるが、牛でもそう変わらないであろう。であれば、当面は、肥育期間を延長し、放射性セシウムの水準が下がるのを待つぐらいしか手がないのではないか。一文にもならずにつぶすよりはましなはずだ。イヤ、しかし、体外へ排出されるまでの間被爆するわけだからまずいのか・・・もうひとつよくわからない。

牛は売れずにエサ代は毎日かかる。東電は、一刻も早く積算し、賠償を行わなければならない。また、国は一刻も早く無利子の資金貸付を行うべきである。これは、時間との勝負である。早くやってもらいたい。

2011年7月12日火曜日

セシウム入り牛肉

南相馬市から出荷された牛肉から高レベルの放射性セシウムが検出されたという。
テレビのニュースでも、新聞でも、「配合飼料が不足していたため、稲ワラを食べさせた」と報道している。しかし、私の常識からすればそんなことはあり得ない。これは「誤報」か、だまされているかどっちかだ。誤報とすればメディアがあまりにも情けない。まあ、原発事故の最初の頃はまともな記事がほとんどなかったから、宜なるかな、である。日本のマスメディアには理科系センスのある人がきわめて少ない。だまされているとすれば、生産者のたちが悪いが、それぐらい見破れなければマスメディアとしては失格だ。


牛の配合飼料は、トウモロコシ、大麦圧扁、小麦ふすま、大豆粕など穀物かその副産物でできている。しかし、牛は穀物だけを食べていたら死んでしまう。必ず繊維質が必要だ。牛は反芻動物である。第1胃(ルーメン)にはプロトゾアと呼ばれる微生物がいて、その働きで発酵し揮発性脂肪酸(VFA)を産生する。そして、繊維質の飼料が胃壁を刺激することにより反芻が起こり、唾液によって中和され、さらに発酵が続く。反芻獣の消化管は、いわば「連続発酵タンク」なのである。もし、穀物だけを与えたらルーメンは急激に酸性になり、プロトゾアは死滅し、やがて牛も死ぬ。

だから、稲ワラなどの粗飼料は絶対に必要なのである。肉牛の場合、粗飼料の代表は稲ワラである。酪農では高泌乳量でかつ乳脂率を低下させないために、稲ワラよりも品質のいい粗飼料、例えば、チモシー乾草、アルファルファ乾草、ヘイキューブ、全粒綿実などを与えるが、肉牛ではそのような購入粗飼料を多く使う事例は少ない。ニュースの映像から見ると、購入したスーダングラスのようなものは食べさせている。まあ、あってもそんなところであろう。

もちろん、東電に一番の責任があるとは思う。しかし、汚染されたことがわかっているワラを毎日食べさせ、その牛を出荷したことは、生産者に重大な責任があると思う。同情はするが。

このように汚染された牛肉の流通を阻止するために、全頭検査という話が出ている。しかし、この検査はガイガー・カウンターで表面の線量を測るようなものではできず、ゲルマニウム半導体検出器が必要だ。今回出たのは、芝浦市場だと思うが、毎日数千頭の枝肉がぶら下がるこの市場で、全部からサンプルを採取し、分析をするのは不可能だ。検出器は都に数台しかないだろうし、分析に要する時間も1検体1時間程度かかると聞く。

現実的なのは、東電からの補償が受けられるまでの間、無利子で運転資金を供給するような仕組みをつくり、十分な資金で購入粗飼料が確保できるような体制が必要なのである。私は、事故から間もなく、緊急にこのようなことをやるべきだと書いた。しかし、そのような現実に対応しようとせず、原発の稼働を人質にとって、担当大臣をだましてまでも総理の椅子に座り続けるための政治ゲームをやっているようでは、菅直人はまさに万死に値する。

いい加減にしてもらいたい。

ジプシー・スイング

昔から、ブルーグラスを聞きすぎたり、やり過ぎたりして疲れると、古いアメリカン・ロックや日本のロックを聴いたりするが、ジプシー・スイングも大きな選択肢であった。最近はマヌーシュ・スイングなどともいうらしいが、大学4年生ぐらいでジャンゴを聞いて以来聞き続けている。

80年代の前半、ビレリ・ラグレーンが15歳の時に録音した"Swing 81"を聞いてブッたまげたもんだが、世の中には時々、本当にブッたまげるようなギター弾きがいるもんだ。
そのひとりが、Tommy Emmanuel であり、Joscho Stephan である。

Tommy Emmanuel は押しも押されぬフィンガー・ピッキングの第一人者であり、Joscho Stephanはジプシー・スイング界随一の早弾き王である。ワシは両方とも、ここ数年以内にYouTube上で知った。どちらも相当「ブッたまげた」。
この二人が演奏する"ハニーサックル・ローズ"はすごいよ。真ん中のお兄さんがJoscho Stephan、右がTommy Emmanuel。ジャンゴが生きていたらブッたまげるかな?


2011年7月8日金曜日

Rocky Top 再び

銀座ロッキー・トップでライブをやった。
我が大学で代々続いたバンド Smokey Mountaineers の復活ライブである。
photograph by みち


メンバーは2代目から16代目までの8人で、3ステージそれぞれにメインボーカルが替わる趣向だ。
ちなみに、ワシは16代目、この中ではもっとも若いメンバーである。

ワシは基本的にハーモニー・ボーカル係(低音部)。ギターも弾いた。

左の写真はワシがリード・ボーカルをとっているところである。





ロッキー・トップは、今年で開店してから30年になるという。
30年前、ワシは現役の16代目ベーシストであった。このお店は、ワシらが初めて出演したライブ・ハウスで、当時、神保町にあったBluegrass Innというお店と交互に、月に2回程度、コンスタントに出させてもらっていた。

初めて出演した日のことは忘れもしない・・・
みんなでこなしたステージの対価、初めてのギャラを金髪美女に取られてしまったのであった。あれからキンパツのおねーちゃんは苦手になった。この話は、以前、OB会のニュースレターに載せたことがあるので、見つけたら再録したい。

photograph by M.Yanagisawa

左の写真は30年前、1981年のワシらである。ワシが髭を生やしていないので、おそらく就職活動をしていた時期であると思う。

3年前に心筋梗塞で突然亡くられた、6代目Smokeyのボーカリスト、イヤ、日本を代表するブルーグラス・ボーカリスト、柳沢さんに撮っていただいたものだ。

われわれのステージはだいたい見に来てくれて、カバンから愛用のライツミノルタCLを取り出してはよく写真を撮ってくれたものである。

その頃、ワシもライツミノルタCLに憧れていたが貧乏学生には手が出ず、実際に購入したのは30歳になってからだった。

ステージの後ろが今よりすっきりしている。何にもなかったんだなあ。手前のサラリーマンの頭を見ると、ぴっちり七三に分けている。今はこういう人はあまり見ない。時代を感じる。