2011年8月28日日曜日

ゲットぉぉー!

久しぶりに秋葉原に行った。
といっても、そんなに長いこといっていないとは思っていなかったんだが、あちらこちらの風景が一変していて驚いた。秋月電子の前は何にもなくなって駐車場になっているし、昔LAOXのパソコン館だったところはオタクビルみたいなものになっていた。

駅のそばも、ダイビルとUDXができ、その西側の、昔は路地裏といった風情の小汚い建物が並んだ風景が、いきなりお日様がさんさんと注ぐ表側にさらされてしまった感じで、街も私も戸惑いを感じてしまった。

いつからアキバにいってなかったかはよく覚えていないけれど、オタクの街の度合いがますます強くなっている。ネコの耳をつけてメイド服を着たオネーチャンがそこいら中にいるし、白衣姿のもいた。う~ん、ついて行けん、ワシには。
















目的は中古サブノートのゲットなのである。ドク論で活躍してくれたeeepcは今年の春、娘とともに名古屋に行ってしまった。

普段は「仕事は絶対にデスクトップ」という主義の私だが、どうしても外で仕事をしなきゃいけないときがある。仕事でなければスマートフォンで済ませる。

目標はLet's noteだ。職場でも使っているが、あれはいい。しかし新品はものすごく高い。

いくつか店を回ったが、ドスパラの中古PCセンターでものすごくキレイなT5を発見。なんと25.8K円であった。新品の時には21万円を超えていたらしいから、これは安い。

家に帰ってから、早速クラブのシールを貼った。







電気街を離れて神田川にかかる線路脇の橋を渡ると、あの喧噪が信じられないくらい静かになる。
この橋を渡り、柳森神社の前を通り、カメラのにっしんを覗いて帰るのがいつものコースだ。イケベ楽器のベースセンターに寄ることも多い。今回はパソコンが重くなってきたのでにっしんでレンズを眺めただけで帰った。

いい買い物ができた。



2011年8月27日土曜日

何がセンキョだ!!

なんだあれは(#`Д´)凸
民主党の代表選挙のことだ。

今日のダイアモンド・オンラインでは「小学校の学級委員選挙以下」と書かれてしまう始末。一国の総理大臣になる人を選ぶのに、告示から投票まで2日とはどういう事か。何の議論もできないではないか。

各候補からも、「挙党一致」という声が聞こえてくるだけで、政策の中身は全く聞こえてこない。いったい何を持って判断しろというのか。(といってもワシは党員ではないのだが)

だいたい候補者には、立候補する資格があるんだろうか。少なくとも今閣内にいる人に、その資格はないと考える。原発事故処理を思い出せばよかろう。ウソをついて、情報を小出しにしているうちに被害が拡大した。こんな内閣にいた人間が「被災地に寄り添い、復興の先頭に立ちたい」などということをぬけぬけという。いい加減にしてもらいたい。

前原が有力だという。日経の読者調査でも半数の人が前原に総理になって欲しいと思っているとあった。日経ビジネスオンラインでもトップだ。
はっきり言って信じられない。彼の今までを思い出してもらいたい。八ッ場ダムはどうしたんだ?尖閣ビデオの対応は?しかも、外国人から献金を受けていた。
間違いなく、もっとも総理になって欲しくない人である。

2011年8月20日土曜日

なんだら、かんだら、MANDARA

MANDARAというソフトがある。埼玉大学の谷謙二さんという方が作られた、フリーのGISソフトである。いつか紹介した「今昔MAP」と同じ作者である。

もう5年以上前から仕事で使わせていただいている。結構ヘビーに・・・。

今までは、統計情報からいろいろな指標を計算して、「この地域はこうなってますよ」という色分けをしているだけだった。しかし、ここのところ野菜産地の問題点を検討している中で、鉄道やら都市化やらとの関わりがどうなっているのかを見てみたいと思い、試行錯誤をしていた。

MANDARAがgoogle earthのkmlファイルを出力できることは知っていたが、今までやったことはなかった。しかし、やってみたらやけにあっさり実現した。

うーん、素晴らしい。
道路や鉄道と産地の動きが関係あるのかないのかなどを検討するためにはバッチリだ。
地名と数字だけのデータを眺めているのと、地図の上に様々な情報を重ねていくのとは雲泥の違いだ。
しかし、その「雲泥の違い」を定量化する方法はあるのか?
今のところ私はよくわからない。それができると素晴らしいんだけど・・・
さらに調べ、考えるしかないでしょうな、ワシが。

できたときは「素晴らしい」と感動したんだが、ここに貼り付けると目玉のようなピンだらけで、何が何だかわからない状態に・・・( ̄□ ̄;)!!。「大きな地図で見る」をクリックして、「オブジェクト名」のチェックを外してピンを消すとキレイに主題図が見られる。↓



2011年8月15日月曜日

Naganumahara -cho Revisited

タイトルはボブ・ディランの「Highway 61 Revisited:追憶のハイウェイ61」のパクリである。

仕事を休んで歴博に行ってきた。
近くに住んでいるのに一度も行ったことがなく、いつか行ってみようとは思っていた。
季候がよければ京成電車に乗っていくところだが、ここのところやけに暑い。今日も猛暑日になるかならないかという気温である。こういう日は車に乗ってしまう、どうしても。

我が家から歴博までの通り道に長沼原町はある。
長沼原町は戦前は陸軍の下志津原演習場で、戦後開拓された。
開拓間もない頃、開拓農家の子供たちは遊びながら薬きょうや銃弾を集めたという。
数年前、この地域にあるY印研究農場の一角から毒ガス弾が見つかったというから、まだ戦後は終わってないということなのかな。

こんな話を知っているのは、昔この地域の酪農家にずいぶんと通ったからだ。
ワシは新任の頃から数年間、この地域の酪農家に通い、技術のありよう、経営のありようなどを彼らから教わった。
長沼原町に入植した人は、ほとんどが旧軍の将校クラスの人だったらしく、親父さん達も後継者も優秀そうでキチンとした人が多かった。他の地域の農家の方々とは印象はかなり異なっていた。

Sさんに初めて会ったのは、就職してすぐ、先輩の巡回に同行したときである。
緑色のジョンディア・トラクターにまたがってレイバンのサングラスをかけたジーンズ姿のSさんはメチャクチャ格好良かった。
また、Sさんの隣に住むNさんは牛舎においたステレオでボブ・ジェームスを聞いており、すぐそばに住むYさんはクラシックのトランペッターだった。こんな感じで、他の地域の酪農家にはあんまりないタイプの人がそろい、それぞれが非常に高い技術を持ち、当時にすれば相当高レベルの経営をしていた。

なかでもSさんは、物腰は柔らかだが非常に意思の強い人で、高水準な技術・知識を持った獣医師であった。その当時、大学を出た酪農家はポツリポツリといたが、獣医というのはきわめてまれだった。

ワシは、SさんやNさんが集めている、アメリカの最新酪農技術情報を見せてもらい、当時、国内ではあまり知られていなかったフリーストールやミルキング・パーラーの知識を得ていた。とくに、Sさんが持っていたみかん箱1杯のフリーストール関連文書を借りて、辞書片手に読んだことが懐かしい。
その中で、くり返し読んだ"Midwest Plan"とかいう本があった。ワシは、この本で初めてフリーストールの配置やストールのサイズ、傾き、牛舎の壁、屋根などの基本的な設計プランを知った。ネットで調べてみると、今はこの本が無料でダウンロードできるらしい。エライ時代になった。まあ、1985年の本だから実用的価値はあまりないものと思うが。

Sさんが文書を収集していたのは、フリーストール牛舎を建設し規模拡大を図るためだった。
そして、1980年代の後半、Sさんは県内初のフリーストール牛舎を補助事業なしで建て、成牛100頭規模の酪農経営になった。

補助金に頼って建設した牛舎はいくつも見てきたが、人のカネに頼るためか、どうしても余計な装備をつけたり、無駄に強度をつけたりするものだ。しかし、補助金を使わないSさんは徹底的に無駄を排した。ストールの仕切りは自分で溶接していたし、水飲み場にはトイレのボールタップを応用するなど工夫を重ねて低コストな牛舎を建てた。しかし、ミルキング・パーラーには牛の首にくくりつけたリスポンダーで個体識別し、乳量を自動記録する最先端の施設を導入するなど金をかけるところにはかけていた。

ワシは、担当普及員として何組もの視察案内をしたが、このような素晴らしい酪農家が管内にいるということが誇らしかったものである。(ワシはどこもえらくなかったが)

話が長くなった。
長沼原町一帯は都市化が進み、東関東自動車道のインターチェンジも近いことから、運送会社の基地の需要が高いということはずいぶん前から知っていた。今、訪れると、運送会社だらけで往時の面影は全くない。私が通っていた頃、イタリアン・ライグラスやデントコーンの畑であった場所がみんな運送センターになっていて、そこら中に牛がいたことが信じられないような風景である。

10年くらい前、Sさんは酪農を廃業し老人ホームを設立したという話は聞いていた。
社会福祉法人の理事長におさまって、それなりに運営をしていれば、今でもあの場所で余裕のある暮らしておられるのだろう。そう思っていた。

しかし、以前牛舎のあった場所は空き地で、堆肥舎だったところは朽ちかけた小屋だけが残り、住宅は木がぼうぼうで、人が住んでいる様子がない。
表札はそのままだが木で見えない。非常に荒れ果てた状態だった。
いったい何があったのだろうか・・・老人ホームは運営はしているようであったが・・・

県内初のフリーストール牛舎があった場所。左奥が居宅。1個だけ残ったカーフハッチが悲しさを増幅する。




堆肥舎だった小屋。往時は堆肥製造会社を設立し、この辺を切返し作業などのための機械が走り回っていた。


ワシは、非常に悲しい気持ちでその場を後にした。

2011年8月3日水曜日

交響楽の午後

カミさんが昔から入っているオケのコンサートに行ってきた。
ものすごく久しぶりである。

文化会館を見つめる少女のブロンズ像

いつもの演奏会は市川市文化会館の大ホールで行われ、客席は余裕なんだが、今回は編成が小さなためか小ホールで行われた。開演時間の5分前に行くと客席はほぼ満員。係員が空席を探して案内している。こんなことは初めてである。

私はクラシックファンではないので、曲自体はよくわからない。しかし、ゾマー作曲の「アルプスの夏」というのはおもしろかった。アルプホルンというもの自体を初めて見たし、音も初めて聞いた。昔やっていたチョコレートのCMで「パッパパー」というのしか聞いたことがなかったから。しかし、あの巨大な楽器を唇だけで操るのはすごい。

サン・サーンスのチェロ協奏曲はなんだかすごい超絶技巧だった。チェロを弾いてた西方氏は芸大大学院生でうちの息子と同い年なんだそうだ。テクニックもすごいが音もよかった。そのチェロは大学の先生からの借り物で決して高いものでないという。チェロをやっている人はアマチュアでも300万円とかの楽器を平気で使っているようだが、髙けりゃいいってもんじゃない、そう思わせる演奏だった。

だいたい、バイオリン族の楽器は先生の紹介とかいっていろんなマージンを乗せられて不当に高い、そんな気がする。私が持っているギターなんぞ可愛いものである。


ロビーに出るとこれからの催し物のポスターが。
古今亭菊之丞、この人は私の高校の後輩なんだそうな。
我が高校は、99%フツーの人の学校。
ワシの在学中にも、「こいつは変わってるナァ」という人はきわめて少なかった。
そのせいか同窓生に有名人が極端に少ない。
ま、ホンワカとした、いい学校でした。

2011年8月2日火曜日

禁煙7周年

気がついたら禁煙して丸7年が経っていた。

15歳で煙草を覚え30年、バカみたいに吸っていた。
何度か禁煙を試みたものの、いつも最初の1日が終わる頃に挫折していた。
あまりにも若い頃に覚えたために、止められないのだと思っていた。

7年前の5月の連休、若い頃お世話になったO先輩が亡くなった。まだ49歳の若さだった。
当時、Oさんと交流がなくなっていたワシは、訃報に接することができず、1週間経ってから直接お宅へ伺い、お線香を上げさせていただいた。その日、家に帰ってから丸1日にわたって胸が痛かった。

若い頃から、おそらく煙草を吸っていたために、胸が痛くなることはよくあった。
しかし、それはほんの数秒から数分で消えるものであり、何時間も続くということはなかった。
「これは、あの世のO先輩から呼ばれているのではないか」と感じ、是非とも煙草をやめなければイカン、そう思った。

それまでに、何度も挫折をしたので、今回は失敗をしたくないと思った。
ネットを中心に情報を集め、どのように実行するかを考えた。

今回はニコレットに頼ることにし、ニコチン依存のメカニズムとニコレットによる禁煙のロジックをあらかじめ学んだ。

日程的には、忙しいときに禁煙を始めるのは難しい。いらいらするとついついタバコに手が伸びるから。当時、某学会の常任編集委員をしており、その仕事もあってかなり忙しかった。7月の大会で任期が終わるので、そのあとに実行することにした。

実行日は、同僚のヘビースモーカーと少なくとも3日間顔を合わせないように設定した。
禁煙初日に、近くでパカパカ吸われたら決意も怪しくなるからだ。

そんなこんなで、決行日は7月28日に設定。
3日クリアでホッ!
1月クリアで ヤッター!
しかし、その後も人が煙草を吸う姿、臭いが気になって仕方がなかった。
本当に成功したと思ったのは丸一年が経過してからかな・・・


7年と5日で2561箱吸わなかった計算になるそうで、その分吸っていれば70万円も使っていたことになるようだ。70万円かあ・・・いいギターが1本買えるなァ。

まあ、しかし、とにかく、禁煙してよかった。