2012年8月26日日曜日

旅行じゃない旅

ああ、ずいぶん久しく書いていなかった・・・1ヶ月ぶりだ。

旅行じゃない旅、ただ観光地を訪れるのを旅行とすれば、自分を発見し成長させるのが「旅」と言っていいんだろうか、そんな「旅」を思い出したい。

自分にとって「旅」と言えるのは中学2年から高校1年にかけてのSL撮影の旅だけだろう。
前に一度、中学2年の最初の旅に関しては書いたことがあった。

お金は全くなく、最低限の宿泊と、毎日食べるのがやっと。
切符は周遊券。旅行期間は周遊券の有効期間。ヒマだけは売るほどあった。
高校に入ってからは、新聞配達をし、ほとんど旅に注ぎ込んだ。
だから周囲の友人達のようにおしゃれに回す予算はなく、バイト代のほとんどはフィルム、運賃、宿泊料、食費に消えていった。
旅館に泊まるのは半分程度。それも最近はとんと見かけなくなったユースホステル。

移動方法、宿泊場所の選定、旅先でのトラブルの対処・・・。
学ぶことはいくらでもあった。
安く上げるために北海道へでも九州へでも、周遊券だけで乗れる「急行」にしか乗らなかった。
また、宿代を切り詰めるため、ただ寝るためだけに夜行の急行列車に乗ることもしばしば。
駅を開放しているところではずいぶん寝かせてもらった。

2年ちょっとの間に、まさに稚内から鹿児島まで行った。
自分たちの行動力にも今さらながら驚くが、そんな行動を許してくれた親たちにも感謝である。

とにかく、少年を少し大人にしてくれた旅であった。

1974年夏 山陰
写真は、高校1年の夏、九州・山陰へ行ったときのものだ。
九州までは急行「桜島」で行った。朝10時に東京駅を発ち、大阪駅を通過するのが午後6時頃、広島駅通過は0時頃、関門トンネルを抜けると朝、それぐらいの時間がかかった。

この写真は、たぶん帰路の山陰で撮ったものだと思う。毎日メチャクチャ暑く、旅館にあまり泊まらないものだから駅の水場で体を拭き、洗濯をした。持って行ったTシャツは全部真っ黄色になり、使えなくなった。





















これらの写真はみんな筑豊の石炭を輸送する9600型である。
大正期に製造された、動輪が4軸の輸送用機関車である。北海道から九州まで、炭鉱のあるところではとくに活躍した。

見事なボタ山が写っている。これが筑豊の風景だった。
おそらく現在は、ボタ山なぞ全く見ることはできないであろう。
これは認識違いであった。人為的に作った(できてしまった)山とはいえ、あんなに大きなものが消えてしまうわけはない。現在、ボタ山には木が生い茂り、見事に緑化されて、フツーの山のようになってしまったようだ。時の流れを感じざるを得ない。

場所は田川市の後藤寺駅近くだと思う。
現在は田川後藤寺駅といい、さらに、WikipediaによればMr.Maxがネーミングライツを取得して、MrMax田川後藤寺駅」 となっているという。ナンだかなあ・・・。ミスマではたまに買い物をするが。


宮崎駅? スポーク動輪が美しいC55。この当時、C55はほとんど現役を退いていた。
この機関車はおそらく 「C5557」(はっきり見えない)。翌年には全国からSLが消え、当然この機関車も廃車となった。

日南線のC11。しかし、どの写真もフレーミングがよくない。
日南線内海駅。左がワシ、右がハラ。ハラはいつも旅の相棒だった。

日南は当時、新婚旅行のメッカだった。「鬼の洗濯岩」にも行った。それ以来日南海岸に行ったことはない。ものすごくキレイな海だったが、裸足で歩いて足が傷だらけになったことをよく覚えている。

「カクイわた」というのがヤケに受けた。顔は真っ黒け。汚い。

「カクイわた」には後年出会った。2006年、学会で鹿児島を訪れた際、
大久保利通の生家のほど近くで見つけた。懐かしかった。


山陰本線。  いいアングルなんだけどなあ。ブレてる。
現代の手ブレ防止機能が付いたカメラならば止まっただろうに。


この旅をしたときからすでに38年も経っている。恐ろしいことに。

当時、ワタシが好意を寄せていたクラスメートの女子には孫がいるという。それも複数の。

それだけ歳をとったということである。

しかし記憶は結構ビビッドである。部分的にではあるが。。。。


家に着いたとき、家族がみんな「クサーい」と言った。

顔は日焼けで真っ黒、シャツは真っ黄色。臭いも相当のものだったらしい。


その直後に、中学の同級生アッコが訪ねてきた。

臭いが気になって、美人のアッコに接近することがためらわれた。

接近すれば何かあったのか・・・それは今となってはわからない。

結果的には何もなかった。残念ながら。