2014年6月28日土曜日

道雄叔父と写真機

道雄叔父さんが亡くなった。
子供の頃は「みちおじちゃん」と呼んでいた。

正月、青山の母の実家に集まると、必ず座の中心にいた。
ダジャレを連発しては座をなごませていた。
いつも笑いがあふれていた。

酒を愛し、ダジャレを愛し、そして、写真を愛する人だった。

写真については直接指導を賜ったことはない。
だいたい蘊蓄を聞かされて終わりであった。

ただ、ワシが写真を撮り始めたきっかけは、案外叔父さんのお陰なのかも知れない。
「撮り鉄」が写真のスタートだったワシは、中学2年の秋、小海線の野辺山に行きC56の写真を撮った。そこから写真をやるようになったのだった。

実は、以前から我が家には、叔父さんが撮った野辺山鉄橋を渡るC56のパネルが飾られていた。当時、野辺山を走るSLは、「高原列車はランランランランラン、行くよ~」という歌とともに有名であり、そのSLはワシの頭の中では叔父さんの写真のイメージとして定着していた。一度、高原の景色の中でSLを見てみたいと思っていた。

そうして始めた「撮り鉄」については以前触れたことがある。中学2年から高校1年までの3年ほどで、稚内から鹿児島まで旅をした。金もなく宿もなくという旅であったが、非常におもしろい時間であった。

その頃、撮り鉄のヒーローと言えば広田尚敬だ。その広田氏が実は叔父さんの後輩だという話もその頃聞いた。

さて、SL専門の撮り鉄だったワシは、SLが引退してしまった高校2年生以降、撮るものが無くなってしまい、写真熱は冷めてしまった。その後、再び写真に取り組み始めたのは子供が生まれてからだって話も以前書いたことがある

30歳の頃、再び写真を撮り始めたワシは、義父に借りたキヤノンⅣsbで写真を撮りまくった。現像も再びやるようになった。


下の写真は、 そのⅣsbをぶら下げて、息子を祖母のところに連れて行ったときのものである。
叔父さんは、「あーた、まー、ずいぶんめずらしいカメラ使ってるじゃないの。ほう、Ⅳsb(フォーエスビー)か、あたしも使ってたけどいいカメラだったなぁ。」

叔父さんが使っていた頃は新品だったであろう。このカメラは、大卒初任給が1万円ちょっとの頃、8万円もしたカメラなのだ。今で言ったら車並みの価格が付いていたことになる。よくそんなカメラ買ったなあ・・・と感心する。

祖母と息子 1989年 canon IVsb アベノン 28mm f3.5  ネオパン400プレスト
祖母はこのあと10年生き、満100歳で亡くなった
息子の写真を撮る道雄叔父 データ同上
昔の青山の家は風情があって大好きだった
カメラは何だろう? 右手でレンズを回しているところを見るとまだキヤノン New F-1か


中学に入ったばかりの頃、叔父さんの会社の山荘に連れて行ってもらったことがあった。
2人の従兄弟と叔父さん夫婦。それから同級生のナナサワさん?の御家族。
叔父さんの葬儀のあと、従兄弟2人とは、ビールを飲みながらこの旅行の話になった。
彼らと会うと必ずこの話になる。大変楽しい時間を過ごさせていただいた。
下の写真は、叔父さんが撮ってくれたものである。

山荘の朝(たぶん)


ハイキングのスナップ。ナナサワさんの長男が「疲れた、疲れた」とうるさかったのに、次男は辛抱強く、黙々と歩いていたのを思い出した。

ナナサワさんがぶら下げているカメラはライカだ。
セルフタイマーがないところを見るとⅢcあたりか。

帰りは電気機関車の引く客車だった。これは走行中である。


あれから40年以上が経ち、ワシも従兄弟の2人もすっかり大人になってしまった。イヤ、それどころかもう少し経つと老人と言われる年齢になってしまう。

叔父さん、懐かしい思い出を作ってくれてありがとう。
そっちでまた写真でも撮って楽しんで下さいね。



2014年6月17日火曜日

Casey Kasem と Bob Kingsley

今日仕事から帰ってきたら、姉からメールがあり叔父さんが亡くなったとのこと。
先々週も叔母が亡くなっており、ここのところ次々に親戚がこの世を去っている。

叔父、叔母ということは父や母よりも年下である。
ウチの父母は弟や弟の連れ合いを見送ることになり、複雑な心境であろう。
父は「なんだか、人生短いなあ」と言っていた。
しかし、あんた、90歳過ぎてるよ。世間からすれば十分長生きだよ、と突っ込みを入れたくなった。

実は、昨日、NHKニュースを見ていたら「有名ディスク・ジョッキーのケイシー・ケイサムさんが亡くなられました」と言っていた。
もう何十年も思い出していなかったけれど、名前とともに記憶がよみがえってきた。

私の世代ではケイシー・ケイサムで洋楽を覚えた人は結構いたのかも知れない。

就職をした頃、土曜日はまだ半ドンだった。
正確に言えば、4週5休で、4週間に1日だけ土曜日は休み、あとの3回は半ドンだった。

その頃、ワシは農業改良普及員をしており、土曜日の午前中に巡回をするのが、結構好きだった。

土曜日は公用車も空いていて、好きな車を押さえられたし、何となく気楽な巡回ができるような気がするのだった。

ひとりで出張するときは、カーラジオはいつもFENにしていて、土曜の午前中はボブ・キングスリーの「アメリカン・カントリー・カウントダウン」を聞きながら酪農家を廻ったものだった。



アメリカン・カントリー・カウントダウンでブルーグラスがかかることは滅多になかったけれど、運転しながらカントリーを流しているのは気持ちがよかった。

そして、昼食後、事務所でしばらくのんびりした後、自分の車に乗り込み「アメリカン・トップ40」を聞きながら帰宅する、そんな光景を昨日は久しぶりに、唐突に思い出した。



ワシはこの番組で「Wham!」とか「Phil Collins」などを覚えたものである。

なんだか懐かしく、とっても時間が経ってしまったのが寂しい。

とにかくご冥福を祈ります。

叔父さんについては、いずれ、また書きたい。

2014年6月7日土曜日

「風立ちぬ」といずみちゃん

先日、NHKの「songs」で松田聖子がヒット曲を一気に30分歌うというのをやっていた。
本人も「こんなに長いメドレーは初めてです」といっていたのだが、途中で衣装は替わるし、髪型は変わるし・・・なんだ、収録つなげただけじゃん・・・と突っ込みも入れたくなった。

ま、それはともかく、懐かしい曲が多かった。さすが松田聖子、うまい。
しかし、若い頃の、ストレートで圧倒的な声量の歌声ではない。
昔よりテクニックはあるのかも知れない。でも、タイミングを崩しすぎて「演歌臭く」なっているではないか。昔の歌声が聞きたくなった。

その晩、ビールを飲みながらamazonを見ていたら、「風立ちぬ」をバスケットに入れていた。



久しぶりに聞いた「風立ちぬ」は素晴らしかった。
フルアルバムで聞くのは、まさに数十年ぶりのことである。
大瀧詠一プロデュースのA面は、シンセの音が古くさいだけで、あとは全然古びていない。
B面は財津和夫作曲の「白いパラソル」以外は全部、鈴木茂が編曲。
作詞は全曲、松本隆であり、細野晴臣以外の「はっぴいえんど」が勢揃いである。豪華!
昔聞いていた頃は何とも思っていなかったが、B面のベースはどれも素晴らしい。ベーシストは美久月千晴という人らしい。ワシと同い年。当時は22、3のアンチャンだ。

とにかく素晴らしいアルバムである。

このアルバムは、ワシが初めて能動的に聞いたアイドル歌手のレコードであることは以前に触れたことがある。

70年代、少年だったワシは、商業主義的な「歌謡曲」は聞かなかった。
あの頃、歌謡曲とフォークやロックにはかなりの距離があった。

若い人には解らないだろう。解説が必要だ。

1960年代までは、歌手はレコード会社の専属契約であった。
歌手はレコード会社の決めた先生の歌を、レコード会社の決めたとおりに歌わなければならなかった。

この関係をぶちこわしたのは「フォーク」であった。
フォークシンガーは、自分で歌詞を書き、曲を付け、歌を歌った。

大手レコード会社が配給しない(できない)歌を発売したのはURCレコードだった。
URCは「アングラ・レコード・クラブ」の略であり、元々は岡林信康の「くそくらえ節」を世に出すために生まれた会社なのであった。

「くそくらえ節」には、単に社会批判が含まれるだけではなく、明らかに天皇を小馬鹿にした1節があった。そこが「レコ倫」に引っかかり発売できなかった。




そんな感じであるから、70年代までは、フォークやロックの歌手はテレビにもあまり露出しないし、われわれファンは歌謡曲をバカにしていた。

だから歌謡曲、アイドル歌手に熱狂することはなかった。

そのワシの態度を変えたのがこの「風立ちぬ」であったのだ。


いずみちゃんは教え子である。
というと偉そうだが、何のスキルもない私を家庭教師に雇ってくれた家の子供だった。

いずみちゃんのお母さんは、地元の駅のそばで皮膚科の開業医をしており、お父さんは音楽評論家であった。たまに「暮らしの手帖」の音楽評論で名前を目にすることがあった。

そのお父さんのお陰で、発売前にアルバムを入手することができたようだ。

そんなわけで、ワシも「風立ちぬ」を早めに貸してもらい、録音したのだった。

勉強中のいずみちゃん

まだ浦安にディズニーランドができる前、彼女は、
本場アメリカのディズニーランドへ行ってきたのだった。
写真は何の許可も取っていないが、30年以上前の肖像だ。許してつかあさい。

いずみちゃんとはいろんな話をした。
今風に言うと「恋バナ」もした。

勉強の面倒は見たけれど、ワシにものを教えるスキルはまるでなかった。
今であれば、恥ずかしくて「家庭教師できます」とは言えない。
あれで俸給を得ていたのは罪悪と考える。今では。
とっても申し訳ないような気がする。

あれから30年以上が経った。
大学を卒業した年の夏、彼女を科学技術館で行われる三峰のバーゲンに連れて行ったことがあった。そこで日本製靴(REGAL)の靴を売っていたマスブチに会ったのが、マスブチにあった最後の時でもあった。

オイラは彼女に何かあげられたことがあったのだろうか?
感想を聞いてみたいものである。
今、どうしているのであろうか。普通にお母さんになったのだろうか。
できれば一度お会いしてお話ししてみたいものだ。