2014年6月7日土曜日

「風立ちぬ」といずみちゃん

先日、NHKの「songs」で松田聖子がヒット曲を一気に30分歌うというのをやっていた。
本人も「こんなに長いメドレーは初めてです」といっていたのだが、途中で衣装は替わるし、髪型は変わるし・・・なんだ、収録つなげただけじゃん・・・と突っ込みも入れたくなった。

ま、それはともかく、懐かしい曲が多かった。さすが松田聖子、うまい。
しかし、若い頃の、ストレートで圧倒的な声量の歌声ではない。
昔よりテクニックはあるのかも知れない。でも、タイミングを崩しすぎて「演歌臭く」なっているではないか。昔の歌声が聞きたくなった。

その晩、ビールを飲みながらamazonを見ていたら、「風立ちぬ」をバスケットに入れていた。



久しぶりに聞いた「風立ちぬ」は素晴らしかった。
フルアルバムで聞くのは、まさに数十年ぶりのことである。
大瀧詠一プロデュースのA面は、シンセの音が古くさいだけで、あとは全然古びていない。
B面は財津和夫作曲の「白いパラソル」以外は全部、鈴木茂が編曲。
作詞は全曲、松本隆であり、細野晴臣以外の「はっぴいえんど」が勢揃いである。豪華!
昔聞いていた頃は何とも思っていなかったが、B面のベースはどれも素晴らしい。ベーシストは美久月千晴という人らしい。ワシと同い年。当時は22、3のアンチャンだ。

とにかく素晴らしいアルバムである。

このアルバムは、ワシが初めて能動的に聞いたアイドル歌手のレコードであることは以前に触れたことがある。

70年代、少年だったワシは、商業主義的な「歌謡曲」は聞かなかった。
あの頃、歌謡曲とフォークやロックにはかなりの距離があった。

若い人には解らないだろう。解説が必要だ。

1960年代までは、歌手はレコード会社の専属契約であった。
歌手はレコード会社の決めた先生の歌を、レコード会社の決めたとおりに歌わなければならなかった。

この関係をぶちこわしたのは「フォーク」であった。
フォークシンガーは、自分で歌詞を書き、曲を付け、歌を歌った。

大手レコード会社が配給しない(できない)歌を発売したのはURCレコードだった。
URCは「アングラ・レコード・クラブ」の略であり、元々は岡林信康の「くそくらえ節」を世に出すために生まれた会社なのであった。

「くそくらえ節」には、単に社会批判が含まれるだけではなく、明らかに天皇を小馬鹿にした1節があった。そこが「レコ倫」に引っかかり発売できなかった。




そんな感じであるから、70年代までは、フォークやロックの歌手はテレビにもあまり露出しないし、われわれファンは歌謡曲をバカにしていた。

だから歌謡曲、アイドル歌手に熱狂することはなかった。

そのワシの態度を変えたのがこの「風立ちぬ」であったのだ。


いずみちゃんは教え子である。
というと偉そうだが、何のスキルもない私を家庭教師に雇ってくれた家の子供だった。

いずみちゃんのお母さんは、地元の駅のそばで皮膚科の開業医をしており、お父さんは音楽評論家であった。たまに「暮らしの手帖」の音楽評論で名前を目にすることがあった。

そのお父さんのお陰で、発売前にアルバムを入手することができたようだ。

そんなわけで、ワシも「風立ちぬ」を早めに貸してもらい、録音したのだった。

勉強中のいずみちゃん

まだ浦安にディズニーランドができる前、彼女は、
本場アメリカのディズニーランドへ行ってきたのだった。
写真は何の許可も取っていないが、30年以上前の肖像だ。許してつかあさい。

いずみちゃんとはいろんな話をした。
今風に言うと「恋バナ」もした。

勉強の面倒は見たけれど、ワシにものを教えるスキルはまるでなかった。
今であれば、恥ずかしくて「家庭教師できます」とは言えない。
あれで俸給を得ていたのは罪悪と考える。今では。
とっても申し訳ないような気がする。

あれから30年以上が経った。
大学を卒業した年の夏、彼女を科学技術館で行われる三峰のバーゲンに連れて行ったことがあった。そこで日本製靴(REGAL)の靴を売っていたマスブチに会ったのが、マスブチにあった最後の時でもあった。

オイラは彼女に何かあげられたことがあったのだろうか?
感想を聞いてみたいものである。
今、どうしているのであろうか。普通にお母さんになったのだろうか。
できれば一度お会いしてお話ししてみたいものだ。

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