2015年8月26日水曜日

Nagasaki ! #2

さて、長崎2日目。
1日目に見る予定だったオランダ坂を朝食前に散歩しに行った。


朝の散歩。大浦天主堂下電停のあたりから。微妙にブレとる。




にゃんことわんこの飼い主。スナックママ。


旧英国領事館

活水女子大学


見よ、この側溝。石造り。オランダ式側溝と言うらしい。


オランダ坂から孔子廟の屋根を見る。


オランダ坂を下り終わった。朝の散歩おしまい。

ホテルを出て、原爆関連の見学に行く。
大伯父には昨日対面してきたので、原爆資料館、爆心地、浦上天主堂に行く。


長崎原爆資料館。みんな、必ず行った方がいい。世界中の人に見せたい。

平和公園


いわゆる「グラウンド・ゼロ」。この真上で原爆が炸裂した。

爆心地公園にある浦上天主堂遺構。




浦上天主堂では、「被爆マリア」を見たかったのだが、残念ながら巡回中であった。
しかしこの教会の真上で原爆を炸裂させ、多くの人間、動物、植物を焼き殺すなんて、クリスチャンの国がやることか!
原爆投下の命令を出した大統領が「本当の人間」という名前だったのは、極めつきの皮肉である。

そして、その指揮を執ったカーチス・ルメイに、わが国は勲章を贈っているのである。

訪れたとき、たまたまコンサートが開かれていた。
長崎大学医学部の若い先生夫婦がデュエットの演奏をされていた。
心が洗われるようだった。

現在の浦上天主堂

遺構が保存されている



あまりにも有名な山王神社の片鳥居

吹き飛ばされた部分




さて、旅のもうひとつの目的。ルーツ探しである。
父が小学校3年まで暮らしていたのは、長崎市西山町1丁目80番地だと言っていた。
google地図で調べてみるとそんな場所はどうもないようであった。
そんなわけで、父に描いてもらった地図から現場を探すことに。



父が書いた地図
父が書いた地図は、80年以上前の記憶を絵におこしたものだ。
ここから現実の場所が特定できればたいしたものである。

「西山」という地名と、諏訪神社、西山神社の方角から場所を探してみた。

パソコン上で、諏訪神社と西山神社が同時に見えるようにし、父の書いた地図を回しながら、似たような道路の配置がないかをさがした。
おそらくここであろうというところを見つけた。

父が書いた地図を逆さまにすると、だいたいこのあたりであろうと見当が付く。現在は西山本町というらしい。



父の地図で「お地蔵」と描いてあったところ。札所だそうである。記憶は正確だ。

ここが父の生家があった場所だ。わがルーツの家と言うことになる。

父の生家の1軒おいてとなり。祖父が仲人をした家だそうだ。

昔、五島の殿様の家があった隣の道は、西山神社の参道であった。

祖父が店をやっていたという場所に建つ家。

帰りに眼鏡橋を見にいった。


2015年8月23日日曜日

Nagasaki ! #1

ワシのルーツである長崎を旅してきた。

わしの父は現在93歳。
長崎に生まれ、小学校3年生まで過ごし、その後、朝鮮(当時)は釜山に渡る。

今まで長崎に行ったことがなかった。職場の旅行で平戸に行ったことはあったが、長崎には寄らなかった。我が家のルーツでもあり、一度行ってみたいと思っていた。


グラバー園


グラバー園からは長崎港がよく見える。手前はイタリアの豪華客船「コスタ・セレーナ」。
上海からのクルーズだそうな。道理で長崎も中国人観光客がおおいワケだ。

プッチーニ像

グラバー亭

グラバーさん。

半旗が掲げられていた。この日は終戦記念日。


大浦天主堂。垂直感覚が悪いなあ。右に傾いておる。

聖母マリア。なんと美しや。


今回の旅の目的は、父の生家の場所を確認すること=ワシのルーツの確認がひとつ。
もうひとつは、母方の祖母の兄。つまり、大伯父の慰霊であった。

大伯父は角尾晋という。
医者だった。
1945年当時は長崎医科大学の学長であった。

広島に原爆が落ちたとき、東京に出張中であった大伯父は、長崎に帰るにあたり、焦土と化した広島を歩いて横断したそうだ。そして、長崎に帰り、8月9日は回診していたところ背後から原爆の直撃を受け、22日に亡くなったそうだ。

長崎医大の門柱。原爆で傾いている。

ワシの大伯父。角尾晋博士。1945年8月9日、回診中に原爆の直撃を受ける。

ほおのあたりが妹であるワシの祖母によく似ておる。

右がワシの祖母。



忘れていたが8月15日は旧暦のお盆であり、長崎では精霊流しが行われる。
さだまさしの歌のイメージに反して、ヤケにうるさい。
そこら中で耳をつんざく爆竹の破裂音がする。
「精霊流し」のカラオケで写る静かに灯籠を流すイメージとは大違い。
だいたいこの船は川に流さない。
昔は流したらしいが、明治時代から川に流すことは禁じられているようだ。

精霊流しのため市内各所で交通規制が敷かれていた。
そのため楽しみにしていた稲佐山からの夜景は見ることができなかった。


なんと今日は「精霊流し」の日だった。


新地中華街の若い衆。お姉さん色っぽい。近所の中華料理店の店員のみなさんのようだ。

地面に落ちているのはみんな爆竹。

市内はあちらこちらで規制が敷かれていた。

この船はメチャクチャの長さ。こう言うのは町内会などで出すそうだ。