2014年2月23日日曜日

大雪でクタクタ

大雪から2週間が経った。
何で今さら、と思うが、写真ぐらいは残しておいてもいいかもしれない。

しかしひどい雪だった。
55年近く生きてきた中で、この辺では間違いなく最も多い積雪であった。
45年前にも大雪が降ったといっていたが、何となく記憶にはある。
江戸川のそばの空き地で遊んだ覚えがあるから。その時は小学生だったが、膝ぐらいまでの深さだったような気がする。

しかし、今回の1度目の雪(2014年2月8日~9日)はたまげた。
朝、8時半に起き、外を見ると一面の雪。
玄関が開かない。前の晩も吹雪いており、開けるのが大変だった。

長靴を履き、玄関を開けて、1歩踏み出す。
げっ!膝まで埋まるではないか。恐ろしい雪だ。

雪かきをしようにも、庭の物置まで行かないとスコップはない。
玄関を出て庭に向かおうとするも、足がもぐって容易には進めない。
庭はもっとひどかった。どこに縁側があるのか全くわからない。全部埋まっている。
結局物置にたどり着くのに10分近くかかった。

その日はほぼ1日中雪かきだった。
7時間・・・は大げさかも知れないが、5時間は確実にやったと思う。
日差しがあり、暖かくなったお陰で何とか車が出せるぐらいには雪かきができた。

だが、その日に予定していたスモーキー16代目の練習は没になった。
とてもじゃないが、雪をそのままにして出かけるわけにはいかなかった。
だいたい行けたかどうかも疑問だが。



降り出しの頃2月8日14時30分頃

翌朝10時30分頃。
これはうちの車。車の横を見ると恐ろしい高さまで雪が。
前から見るとこんな感じ。


翌日は、車での出勤は危険なので電車で行った。
職場に着くと、正門前に数台車が止まっていた。
何をしているのかと思ったら、門が開かないのだった。
職場でも一番最初の仕事は雪かきであった。

もう、腰も、太ももも、腕も、肘も、背中もパンパンだ。


2月14日からの雪もなかなか降った。
もう勘弁してくれって感じだ。
14日の帰りは走っていて結構スリルがあった。
周りの車がスタッドレスを履いているのかどうか、非常に気になった。

その日の雪は夜中に雨に変わったお陰で、朝起きた時点ではぐしゃぐしゃになっていた。
道路はぐしゃぐしゃで雪かきができなかったが、家の裏のみちは雪だらけ。
ここは何とかしないと、近所の人に迷惑をかけてしまう。
一生懸命やったら2時間弱で何とかなった。
お陰でアミューズの練習は1時間だけ参加できた。

昨年の雪の時は、母の透析でやきもきした。
あのときのせいもあったのか、昨年、入院騒ぎになるまで母は調子が悪そうであった。
今年は、病院の中なのであのような心配をする必要はない。
しかし・・・である。

雪続きで雪かきなどをしたせいか、今頃疲れが来た。
先週は風邪気味で、若干発熱などもし、今日も非常にだるかった。
全く、もうこりごりである。



2014年2月19日水曜日

Bob Dylan と弁当箱

ボブ・ディランが来るのだという。

東京公演は3月31日から4月8日までだそうだ。今年は異動が確定なので行けるわけはない。
異動先はまだ不明。とっても不安な今日この頃なのである。

ディランの初来日は1978年の2月だった。
ワシは2月23日の木曜日にひとりで武道館へ行った・・・ようだ。
日付なんぞ覚えとるわけはない。先ほどチケットを掘り出したからわかったのだ。

下のチケットが初来日公演のもの。ニッポン放送のプレイガイドで買ったようだ。
昔のチケットには味わいがあったなあ。

だけど、その日がM大学の入学試験であったことは忘れない。

その頃のワシは、ほぼ毎日大瀧詠一または山下達郎またははっぴいえんどまたはボブ・ディランまたは・・・を聞いていた。まあ、とにかくディランの大ファンであったのだ。

だから来日公演を逃すわけには行かなかった。しかし、入学試験真っ最中である。浪人の私は落ちるわけにはいかない。結構追い込まれた精神状況にあった。

何日間かあった公演のうち、その日を選んだのはM大学の入学試験があり、武道館に近いという、そんな理由であったと思う。

その日の試験のことは、とくによく覚えてはいない。
ただ、できなかったという感覚は全くなかった。あえて言えば、その大学にだけあった古文が苦手であったということぐらいであろうか。
英語などは簡単であったため、余裕をかまして、30分ぐらい残して出てきてしまったぐらいである。

従って、結果は意外なものであった。
それまでの模擬試験などの結果から、落ちるはずはないと思っていた。

ボブ・ディランのことが頭から離れなかったのは間違いない。
だから英語の試験で余裕をかますようなこともしたのだと思う。
それがいけなかったのか???

武道館の入り口で荷物チェックを受けた。録音器材、カメラのチェックである。
「これは何ですか?」と四角い箱について尋ねられた。
「あ、弁当箱です」と答えた。
何となく、恥ずかしかった。

コンサートでは、ディランが歌うと、ワシも自然に歌が口をついて出てきてしまうような感じで、歌いっぱなしだった。
隣に座っていたおねえさんが、チラチラと白い目でこちらを見ていたが、かまうもんか。

しかし、同時に何かしらけるような気持ちも湧いてきた。
あのディランが白いフリフリのブラウスを着て、女性コーラスをバックに歌っている。
何か違う。「ぼくのディラン」はあんなんじゃない。


その頃からだんだんディランを聞かなくなっていった。
そのあと発表された、Slow Train ComingやSavedなど何枚かアルバムも聴いたが、入れ込むことはできなかった。

あの公演がターニングポイントになってしまったのは間違いがない。

その後、1986年の公演にも聞きに行った。結婚直前のカミさんと、中学時代の友人と一緒に。
バックバンドとして連れてきたトム・ペティ・アンド・ハートブレイカーズはとてもよかった。


今でもディランはたまに聞いている。
しかし、1970年代中頃までのものだけだ。それ以後のものはやっぱりあまり聞く気にはならない。
たまにスコセッシの撮ったNo Direction Homeも見る。あんなにおもしろい映画はない。
上の動画はNo Direction Homeにも入っている64年のニューポート・フォークフェスティバルのものだ。司会は先日亡くなったピート・シーガー。
ピート・シーガーが自分の後継者と目したディランは、この頃から「トピカル・ソング」を歌わなくなり、だんだんと離れていく。
ミスター・タンブリンマンという不思議な歌を横で聴いているピート・シーガーは、何とも言えない様子である。

この頃のディランはとってもおもしろかった。
大人になりきってしまったディランはおもしろくない、ということなのだろうか。


2014年2月7日金曜日

アンセル・アダムスとゾーン・システム -アッコからのハガキ-

中学の同級生アッコから寒中見舞いのハガキをもらった。

15年くらいは年賀状の往復をしていたのであるが、うちの喪中をキッカケに中断してしまった。今年はワシが年賀状を出したので、その返信であった。

アッコは当ブログで一度触れたことがある。
うちの中学では1,2を争う秀才であり、しかも美人であった。十数年会っていないがきっと今もウツクシイ女性であるだろう。

彼女は、北の国へ引っ越してから、雪景色の写真をハガキにして年賀状を送ってきた。
少なくとも高校生までは、カメラをぶら下げた姿は拝見していないので、だいぶん大人になってからの趣味なのであろう。なかなかいい写真が多かった。

今回のハガキもちらっと見たときは雪原だと思った。しかし、そこに写っていた植物は、雪の中にはなさそうなものであった。

よく見ると、何となく見たことがあるような・・・。
これは絵はがきであった。アンセル・アダムスの手による、ニュー・メキシコの砂漠の写真だ。

アンセル・アダムスの絵はがき


アンセル・アダムスには思い出がある。
30になって子供ができ、子供の写真を撮っているうちに、再び写真に目覚めた話は以前書いたことがある。
その当時、インター・ネットなどというものは、少なくとも一般に知られているものではなく、ワシはパソコン通信をシコシコやっていた。

PC-VANは有料化された直後から入っており、「写真SIG」はたまに覗いていた。
写真SIGの運営者を含め、主要なメンバーはライカ好きの大人の方々が多く、ライカの話題を見ているうちに、ライカが欲しくて仕方が無くなった。ロバート・キャパの本を読んだり、ライカの本を買ったりしているうちに我慢ができなくなり、ライツ・ミノルタCLを購入した。その当時は、薄給のワタシに手の届く新品のレンジファインダー・カメラなんかなく、かなり使用感のある中古のCLが現実的にもっとも廉価に入手できる「ライカ型カメラ」だった。

「写真SIG」はそんな感じで、ライカ礼賛、エレクトロニクスを駆使したニューテクノロジーはバカにされる雰囲気があった。当時の最新鋭機Nikon f4を使う中高生と思しきお兄ちゃんが論争をふっかけると、無視されるか、あるいは集中砲火を浴び、バカにされたりすることもあった。

そんな中、「くまさん」というプロの写真家の方が、「そんな不毛な論争をするのでなく、表現法に努力したらどうか」という意見を出し、アンセル・アダムスのゾーンシステムの現代的実践方法の講座を始めたのだった。

詳しいことは「アンセル・アダムス ゾーンシステム」でググれば、情報は山のように出てくる。

それまでアンセル・アダムスという名前は知らなかったように思う。
今のように検索すれば写真が出てくるような時代ではなかったから、本屋で立ち読みしたか何か、何枚かの写真を見た。

もっとも私の心を捉えたのは「エルナンデスの月の出」だった。
夕方、暮れかかる暗い空に出た月、山、手前の町並み、見事なトーンであった。
リンクからは写真が見られるが、PC上ではラチチュードが狭いのか、印刷物のような見事なトーンは見られない。

ゾーンシステムはトーンをコントロールする現像法である。
真っ黒なゾーン0から真っ白なゾーンX(テン)まで11段階に分け、どのようにトーンを出すかを現像でコントロールするのだ。

ちなみにゾーンの1段階は露出で1段、すなわち光量で倍違う。そして、真ん中のゾーンVは露出計の基準となっている反射率18%グレイである。

写真家は、対象のどの部分をどのゾーンで表現し、どれぐらいの幅で表現するのかを考えて撮影し、現像せねばならない。

それまで教わってきた適正露出は、どの部分を18%グレイにするようにするか、あるいはそれを応用して全体を白く写すとか、黒く写すということだけを考えるものだった。

ゾーンシステムはアンセル・アダムスが使っていた8×10のようなシートフィルムのためのシステムであったが、「くまさん」はこれを35mmのような36カット一律の現像をしなければならないロール・フィルムに適用するために、イルフォード・マルチグレード印画紙でコントロールすることを提唱した。

その前まで、ライカ教のみなさんに心酔したワタシは、今度はゾーンシステム教に入信し、マルチグレード印画紙と、それをコントロールするためのフィルターを、結構高い金額を払って購入した。

入れ込んだ割にはあまり成果はなかった。
ここに出せるようなものもないような気がする。

というか、マルチグレードで引き伸ばした印画紙がどれで、どこにあるのか今となってはわからない。マルチグレード用のフィルターセットは天袋のどこかに今も眠っている。
すでに引伸機は処分してしまったのに。バカな話だ。

今度、暇ができたらネガを眺めてみよう。何を撮ったんだっけ?

アンセル・アダムスの写真は、古い写真である。
しかし、あのようなトーンの写真はそう滅多にお目にかかれるものではない。
一度、オリジナルプリントを眺めてみたいものである。