2014年1月28日火曜日

浅草 浅草寺 スカイツリー

スカイツリーツアーに先だつこと2時間。
せっかくなので浅草に行って写真を撮ってきた。
まだ1月とあってものすごい人出だった。

そうか、都知事選か。ネットで人気の田母様か。現実社会じゃ無理だろ。

新装なった提灯

伝法院通りの早田カメラ。この通りはみんな改装されたみたい。
ライカ修理の名人の様子が通りから見えなくなった。



とにかく外人が多い。欧米人はもちろん、中国、韓国も多いが、タイの人が非常に増えた。
このかわいい子は中国系かな?









本所吾妻橋のあづちゃん。おしなりくんもみたかったが。

























2014年1月27日月曜日

ワレ未ダ登頂セズ

スカイツリーに行った。
建設中に1回行って以来である。

今回は、高校1年の時のクラスメートで集まった。
女子5名、男子3名。これだけの規模で集まったのは一昨年のもんじゃイベント以来である。
その時は、完全にへべれけになり、帰ってきたルートを覚えておらず、あとでスイカの履歴を調べたりした。今回はもうちょっと自重した。かな?

久しぶりに昼間から活動したお陰で女子も集まり。楽しいイベントになった。
なんというか、まさか50歳を過ぎて、1年5組の仲間たちと交流する日が来るとは4年前まで考えもしなかった。

まことに楽しい。

あの日、K学部長の退官記念パーティーに行ったあと、たいして気が進まなかったが、同窓会の2次会に顔を出した。そのお陰である。
企画をして、そして去って行ってしまった増淵 ありがとう。

8階からみんなで見上げる。何が見えるんじゃ?


こんな風景が。露出補正をしなかったので、空が18%グレーだ。修正がめんどくさいんじゃ。


ハイジさんの解説。何を説明しとる?

町を見下ろすとこんな感じ。今日は3千円払って登る価値なしと判断。
向かいのビルの31階で我慢しよう。

夜は浅草に繰り出し、居酒屋で話に花が咲いた。

男子を厳しくご指導するまでに成長した女子もいれば、相変わらずボケをかましまくる女子もいる。
みんなおもしろい。みんながんばっとる。
こういう時間は、ホントにいい。
また会える日を楽しみにしていよう。

ほろ酔いで外に出てみると、おしゃれにライトアップされたスカイツリーが
次は登るぞ!





2014年1月21日火曜日

高田漣ライブに行ってきた

先週の土曜日、カミさんと高田漣のライブに行ってきた。
六本木に新しくできた「EX シアター」というところだ。
ざっと数えたところ600席ぐらいのホールで、今風なのか、階段状の席は移動できるような感じであった。おそらく平面にも使えるのだろう。

高田漣は、ビールのコマーシャルにも出ていたので、見たことのある人は多いはずだ。
しかし、高田漣のソロ活動を見たことも聞いたこともなかった。
唯一、父親の高田渡と行ったライブのCD 27/03/03 を聞いただけである。
これは非常にいいアルバムである。



カミさんがライブの情報を見つけたとき、「行こう」と言ったのは、高田漣がいろいろな人のサポートをしている売れっ子ミュージシャンであることを知っていたのと、スペシャルゲストのせいである。

ゲストは、鈴木茂、細野晴臣、そして、ムッシュかまやつという豪華な面々だ。

鈴木茂は髪が白くなってシワが多くなったが、昔と全然変わらない。
めずらしくテレキャスターを弾いていた。
名作Band Wagonから、2曲やった。「ウッド・ペッカー」と「砂の女」だ。感激!

生の細野さんを見たのはたぶん初めてだった。
ロカビリーっぽい曲を2曲ほどやった。
かっこよかった。

父君の高田渡を最初に聞いたのは、たぶん岡林信康のライブ盤だった。
URCレコードの2枚組、神田共立講堂のコンサートだ。
高田渡は岩井宏(bj)と加川良とのトリオでやっていた。
確か、「生活の柄」と「おなじみの短い手紙」を歌っていたと思う。

そのコンサートの岡林のバックバンドがはっぴいえんどで、その後、高田渡のアルバムで「しらみの旅」などの録音に参加している。

実は、今から30年以上前、高田漣を何度か目撃したことがある。
学生時代、よく吉祥寺で飲んだ。
学校は松戸だったのに、吉祥寺まで飲みに行き、三鷹にある友人の家に泊まり、翌日は井の頭公園を散歩する。そんなことをよくやっていた。

そんな時、何度か自転車を引っぱった高田渡を目撃した。
そしてその自転車には子供を乗せていた。
「ああ、あれが漣君か」そう思った。
なぜ名前を知っているか・・・「漣」という曲があったからだ。

その高田渡も今はなく、大瀧詠一も亡くなってしまった。



このスピーチバルーンでは、添田唖蝉坊の話などが興味深い。
前出の「しらみの旅」は添田唖蝉坊の詩に「ワバッシュ・キャノンボール」の曲を付けて歌ったと言っていた。そうか、そうだったんだ。ロックンロールのリズムと鈴木茂のギンギンのギターでよくわからなかったけど、旋律は確かにワバッシュ・キャノンボールだ。






ロイ・エイカフ 正調ワバッシュ・キャノンボール


肝心の高田漣の演奏は・・・よかった。
ドラムとベースのトリオであるが、力強いリズム、パーカッシヴなベースで、どうしてたった3人であんな音楽になるのだろうと感心した。やっぱりプロはすごい。

いろいろな人を見られて、いろいろ思い出させてくれたライブでした。
行ってよかった。





2014年1月18日土曜日

大瀧詠一を偲ぶ会

先日、大瀧詠一を勝手に偲ぶ会をやった。

午前11時に新宿三丁目のカラオケ店に、おいらが参加しているロックバンドAMUSEのメンバーが集合し、フリータイムが午後8時まで、飲みまくり、歌いまくったのである。

大瀧詠一を良く聞いていた70年代後半、カラオケはまだ8トラで、ほとんど演歌しかなかった。今は相当いろんな曲がある。ナイアガラ・ムーンに入っていた曲もあるし、GOGO Niagaraに入ってた曲もあった。

だが、ナイアガラ音頭はあっても、Let's Ondo Againはなかった。アンアン小唄もなかった。
いくら通信カラオケでも需要っつーものが無いんであろう。

 

山形かゑる子が歌っているオリジナルバージョンをyoutubeで発見した。


男子2人は昔からの大瀧ファンで、さんざん歌ったのだが、女子2人はほとんど曲を知らなかったようだ。彼女たちにとっての大瀧詠一は「ロンバケ」以降が全てのようであった。

ここのところ、ナイアガラ・ムーンやカレンダーなどを聞いている。
古さを感じない、素晴らしい音楽である。
大瀧詠一やその周りにいた、はっぴいえんどのメンバー、山下達郎など40年近く前のレコードを聴いても古さを感じないのはすごいことである。同時期にヒットした歌謡曲を聴いてみればその違いがわかる。ものすごく古く感じるはずだ。

「ロンバケ」もいいけど、あれは大瀧詠一の引き出しの一つに過ぎない。
偉大な人を失った。
残念、無念!

2014年1月4日土曜日

はっぴいえんどからBluegrassへ

今年は、ワシがBluegrassを始めてから35年になる。

大学に入る前は、はっぴいえんどや各メンバーのソロ作品、大瀧詠一のナイアガラ・ムーンや細野晴臣のトロピカルダンディーなどを良く聞いていた。

大瀧詠一の作品でもとくに音頭ものは好きで、良く歌っていた。
「ナイアガラ音頭」は大学に入った頃の愛唱歌だった。
「Let's Ondo Again」は、破滅的な、まさに「極致」の曲だった。
大学1年生の頃、コンパで酒が入ると良く歌ったもんだ。

と思って、大瀧作品をごそごそ調べていたらトライアングルのvol.1が見つからない。
確かレコードで持ってたはず・・・と調べてみたが、無い。
よく考えてみるといつもテープを聴いていたような・・・。あんなに死ぬほど聞いていたのに良く覚えていない。誰にレコードを借りたのか?あまりにも時間が経ってしまったためか全然覚えていない。

ということで、先ほど、母の病院へ行った帰りに30th AnniversaryのCDを買ってきた。


ボーナストラックにはシングルバージョンが入っていて、ちょっとトクした気分である。


クレージー・キャッツが好きになったのも大瀧詠一の影響である。
20代の半ば、すぐ上の姉の結婚相手(今の義兄です)がクレージー・キャッツ好きで、シングル盤をいっぱい貸してもらい、代表曲はほぼ聴いた。
今でも、カラオケに行くとクレージー・キャッツは好んで歌う。

一番すごい曲は、「ホンダラ行進曲」のような気がする。
大瀧詠一もこの曲は好きなようで、トライアングルのvol.1のラストは「ホンダラ行進曲」という構想があったようである。

3年ほど前、震災の直前、そしてN君が亡くなった直後、高校1年の時の同級生とカラオケに行った。そのときワシはやっぱりクレージー・キャッツを歌ったのだが、それを聞いた「みち」が、「何でクレージー・キャッツなの、ブルーグラスやってる人なのに・・・」と言ったのであった。

学生の頃から、「何ではっぴいえんどファンなのにブルーグラスなわけ?」とか、たびたび聞かれることがあった。どうも、人様から見るとはっぴいえんどとブルーグラスは1本につながらないようだ。
ワシもうまく説明できなかった。


はっぴいえんどの「ゆでめんアルバム」の裏ジャケットに、松本隆のクセのある字で「下記の方々の多大なるご援助に深く感謝したい」とたくさんの名前が挙げられている。

その中には、彼らが目標にしたバッファロー・スプリングフィールドのスティーブン・スティルス、ニール・ヤングやザ・バンドのリヴォン・ヘルム、リチャード・マニュエルの名が、それからジェリー・ガルシアの名前もあった

実は、このリストはバッファローのアルバム「アゲイン」のパクリである。
「アゲイン」のリストを読むと、フィル・スペクター、ロバート・ジョンソン、ストーンズ、ロバート・ツィマーマン(ボブ・ディランの本名だ)、ピート・シーガーなどの名とともに、ドク・ワトソン、フラット&スクラッグスの名が・・・。

バッファローの代表曲ブルーバード



ドク・ワトソン ブラック・マウンテン・ラグ なかなか弾けなかったなぁ、これ。



フラット・アンド・スクラッグス。存命なのはカーリー・セクラーだけになったかな。御年94歳だそうな。


ここに、はっぴいえんどとブルーグラスは1本につながったのである。

まあ、しかし、今でも人に説明するのは大変なのであるが。


2014年1月3日金曜日

永遠の0

カミさんと娘と3人で「永遠の0」を見てきた。
なかなかよい出来であった。
泣いた。

原作は読んでいて、原作を読んだときの方が泣いた。
しかし、映画もなかなかよかった。

田中泯はいつも迫力がある。
あのやくざの親分役はぴったりだった。
岡田准一はいい役者になった。 

空母から発進する際に、あまりにもすぅっと飛び立つ点や、着艦の際にワイヤーがしならないなど、細かい点が気になったものの、物語全体に影響するものではなく、全体としてはとってもよかった。
 


軍隊の中で、とくに戦闘の現場にいる人で宮部久蔵のように冷静でいられる人はいるのだろうか?
真珠湾が失敗だったと言った人はいたのだろうか?

軍も政府もマスコミもファクトをもとに冷静な分析ができなかった。
それがあの戦争の一番の反省点ではないか。
日本人は熱狂に弱い。ダーッとなだれるように熱狂する。
冷静な評価ができていれば、特攻なんて考えられるはずがないではないか。

現実をキチンと分析し、評価することができる社会。これがきわめて重要である。 
日本の大マスコミは、あの戦争のことになると、「ものが言えない時代になってしまった」というような「被害者ヅラ」をする。
しかし、戦争に突入する勢いを付けた国民の熱狂は、マスコミ自身が作ったのではないか。
これは最近読んだ保阪正康、半藤一利の「そして、メディアは日本を戦争に導いた」の受け売りであるが・・・。


 太平洋戦争のことをあまり知らない若者にも見てもらいたい映画である。
 映画を見たあとに、原作を読んだり、関連する書物、映画などに触れる機会を増やしてもらえば大変結構と思う。

 少なくとも、印象としては「風立ちぬ」よりはずっとよかった。

2014年1月2日木曜日

Each Ohtaki死す!

大瀧詠一が死んだ。
早すぎるではないか!

ワシの最初のアイドルは岡林信康だった。
中学1年生で腎臓病を患い、運動ができなくなったため、中学2年生からギターを弾き始めた。
弾き初めて数ヶ月、同級生のウラワ君のうちで聞かせてもらった「くそくらえ節/ガイコツの唄」で、一発で好きになった。歌詞がおもしろかったからである。

その後、岡林からボブ・ディランを知り、岡林のバックバンドをしていた「はっぴいえんど」、ボブ・ディランのバックバンドをしていた「ザ・バンド」を知り・・・というように音楽の幅は徐々に広がっていった。

高校2年生の頃、1975年、ちょうどはっぴいえんどの解散直後であるが、この頃から「はっぴいえんど」とそのメンバーのソロ活動に私の興味は移っていったのである。

中でも大瀧詠一は一番のお気に入りであった。
おもしろいのである。
「ナイアガラ・ムーン」のシャレのセンスはものすごく好きだった。






「楽しい夜更かし」「しゃっくりママさん」「論寒牛男(ロンサムカウボーイ)」・・・みんなよかった。
麻雀しながら「イーチャン、リャンチャン、や~め~られない止まらな~い」などと歌ったもんだ。

ナイアガラ・ムーンのあとに続く、「Niagara Triangle Vol.1」もすごくよかった。
この頃の山下達郎はまだ売れて無かった頃だが、このアルバムでは「幸せにさよなら」(間違い。これは銀次でした)「パレード」がよかったかな。伊藤銀次は「空日照り~、メラメラ阿修羅~」と訳のわからない歌詞の「日射病」がよかった。
大瀧詠一はプロデューサーとしての能力を遺憾なく発揮している感じであった。
もちろん、このアルバムでのワシのベストは布谷文夫が歌う「ナイアガラ音頭」である。



1977年の暮れに発表された「カレンダー」は大瀧詠一渾身の1枚であったらしい。
ワシは浪人中だったが、発売日に購入した。
その年の暮れは「クリスマス音頭」、キングトーンズがコーラスを固めるアカペラの「お正月」のあたりを唄って過ごしたことを明瞭に記憶している。





しかし、その渾身の1枚は全く商業的成功を収めなかった。
そして、やけくそで出したアルバムが「Let's Ondo Again」であった。
これはもう、本当にすごいアルバムである。絶対に売れる要素がない感じがした。
wikipediaの曲目リストを見てもらいたい。何じゃこれ、という感じを持たれるのではないか。
これはワタクシ的には受けた。大好きなレコードであった。破滅的であるが。
一番好きだったのは「河原の石川五右衛門」である。
しかし、レコード発売当初は、曲は収録されておらず、歌詞カードに「詩のみ」と書いてあった。
まったく、「何じゃそりゃ」って感じである。
しかしこれは、文句なくおもしろい。





その後、大瀧詠一は、「ロンバケ」でミリオンセールスを記録するヒットを飛ばし、やっと一般の人に知られる存在となった。その少し前に、「Ride on Time」で一般の人に知られることになった山下達郎と併せ、自分の趣味がみんなに認められる喜びと、みんなにとられてしまう寂しさを同時に味わった気がする。

「ロンバケ」以降は、松田聖子や小林旭、森進一などに楽曲を提供したり、プロデュースしたり表舞台での活躍があったことはみなさんの知るとおりである。

松田聖子の「風立ちぬ」は、大瀧詠一と鈴木茂がプロデュースを担当し、作詞は全て松本隆。
素晴らしいアルバムだった。私が初めて「自ら進んで聞いたアイドル歌手のレコード」だった。

同時期に細野晴臣の曲もヒットしていて、ベスト10の中に「はっぴいえんど」メンバーの関わった曲が何曲も入っていたことがあった。
あの頃は、とっても嬉しかった。


大瀧詠一はワシにとって、決して忘れられない存在である。
明日から、昔のLPを引っ張り出して聞いてみようかな。

ご冥福を祈ります。