2011年8月15日月曜日

Naganumahara -cho Revisited

タイトルはボブ・ディランの「Highway 61 Revisited:追憶のハイウェイ61」のパクリである。

仕事を休んで歴博に行ってきた。
近くに住んでいるのに一度も行ったことがなく、いつか行ってみようとは思っていた。
季候がよければ京成電車に乗っていくところだが、ここのところやけに暑い。今日も猛暑日になるかならないかという気温である。こういう日は車に乗ってしまう、どうしても。

我が家から歴博までの通り道に長沼原町はある。
長沼原町は戦前は陸軍の下志津原演習場で、戦後開拓された。
開拓間もない頃、開拓農家の子供たちは遊びながら薬きょうや銃弾を集めたという。
数年前、この地域にあるY印研究農場の一角から毒ガス弾が見つかったというから、まだ戦後は終わってないということなのかな。

こんな話を知っているのは、昔この地域の酪農家にずいぶんと通ったからだ。
ワシは新任の頃から数年間、この地域の酪農家に通い、技術のありよう、経営のありようなどを彼らから教わった。
長沼原町に入植した人は、ほとんどが旧軍の将校クラスの人だったらしく、親父さん達も後継者も優秀そうでキチンとした人が多かった。他の地域の農家の方々とは印象はかなり異なっていた。

Sさんに初めて会ったのは、就職してすぐ、先輩の巡回に同行したときである。
緑色のジョンディア・トラクターにまたがってレイバンのサングラスをかけたジーンズ姿のSさんはメチャクチャ格好良かった。
また、Sさんの隣に住むNさんは牛舎においたステレオでボブ・ジェームスを聞いており、すぐそばに住むYさんはクラシックのトランペッターだった。こんな感じで、他の地域の酪農家にはあんまりないタイプの人がそろい、それぞれが非常に高い技術を持ち、当時にすれば相当高レベルの経営をしていた。

なかでもSさんは、物腰は柔らかだが非常に意思の強い人で、高水準な技術・知識を持った獣医師であった。その当時、大学を出た酪農家はポツリポツリといたが、獣医というのはきわめてまれだった。

ワシは、SさんやNさんが集めている、アメリカの最新酪農技術情報を見せてもらい、当時、国内ではあまり知られていなかったフリーストールやミルキング・パーラーの知識を得ていた。とくに、Sさんが持っていたみかん箱1杯のフリーストール関連文書を借りて、辞書片手に読んだことが懐かしい。
その中で、くり返し読んだ"Midwest Plan"とかいう本があった。ワシは、この本で初めてフリーストールの配置やストールのサイズ、傾き、牛舎の壁、屋根などの基本的な設計プランを知った。ネットで調べてみると、今はこの本が無料でダウンロードできるらしい。エライ時代になった。まあ、1985年の本だから実用的価値はあまりないものと思うが。

Sさんが文書を収集していたのは、フリーストール牛舎を建設し規模拡大を図るためだった。
そして、1980年代の後半、Sさんは県内初のフリーストール牛舎を補助事業なしで建て、成牛100頭規模の酪農経営になった。

補助金に頼って建設した牛舎はいくつも見てきたが、人のカネに頼るためか、どうしても余計な装備をつけたり、無駄に強度をつけたりするものだ。しかし、補助金を使わないSさんは徹底的に無駄を排した。ストールの仕切りは自分で溶接していたし、水飲み場にはトイレのボールタップを応用するなど工夫を重ねて低コストな牛舎を建てた。しかし、ミルキング・パーラーには牛の首にくくりつけたリスポンダーで個体識別し、乳量を自動記録する最先端の施設を導入するなど金をかけるところにはかけていた。

ワシは、担当普及員として何組もの視察案内をしたが、このような素晴らしい酪農家が管内にいるということが誇らしかったものである。(ワシはどこもえらくなかったが)

話が長くなった。
長沼原町一帯は都市化が進み、東関東自動車道のインターチェンジも近いことから、運送会社の基地の需要が高いということはずいぶん前から知っていた。今、訪れると、運送会社だらけで往時の面影は全くない。私が通っていた頃、イタリアン・ライグラスやデントコーンの畑であった場所がみんな運送センターになっていて、そこら中に牛がいたことが信じられないような風景である。

10年くらい前、Sさんは酪農を廃業し老人ホームを設立したという話は聞いていた。
社会福祉法人の理事長におさまって、それなりに運営をしていれば、今でもあの場所で余裕のある暮らしておられるのだろう。そう思っていた。

しかし、以前牛舎のあった場所は空き地で、堆肥舎だったところは朽ちかけた小屋だけが残り、住宅は木がぼうぼうで、人が住んでいる様子がない。
表札はそのままだが木で見えない。非常に荒れ果てた状態だった。
いったい何があったのだろうか・・・老人ホームは運営はしているようであったが・・・

県内初のフリーストール牛舎があった場所。左奥が居宅。1個だけ残ったカーフハッチが悲しさを増幅する。




堆肥舎だった小屋。往時は堆肥製造会社を設立し、この辺を切返し作業などのための機械が走り回っていた。


ワシは、非常に悲しい気持ちでその場を後にした。

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