2014年2月23日日曜日

大雪でクタクタ

大雪から2週間が経った。
何で今さら、と思うが、写真ぐらいは残しておいてもいいかもしれない。

しかしひどい雪だった。
55年近く生きてきた中で、この辺では間違いなく最も多い積雪であった。
45年前にも大雪が降ったといっていたが、何となく記憶にはある。
江戸川のそばの空き地で遊んだ覚えがあるから。その時は小学生だったが、膝ぐらいまでの深さだったような気がする。

しかし、今回の1度目の雪(2014年2月8日~9日)はたまげた。
朝、8時半に起き、外を見ると一面の雪。
玄関が開かない。前の晩も吹雪いており、開けるのが大変だった。

長靴を履き、玄関を開けて、1歩踏み出す。
げっ!膝まで埋まるではないか。恐ろしい雪だ。

雪かきをしようにも、庭の物置まで行かないとスコップはない。
玄関を出て庭に向かおうとするも、足がもぐって容易には進めない。
庭はもっとひどかった。どこに縁側があるのか全くわからない。全部埋まっている。
結局物置にたどり着くのに10分近くかかった。

その日はほぼ1日中雪かきだった。
7時間・・・は大げさかも知れないが、5時間は確実にやったと思う。
日差しがあり、暖かくなったお陰で何とか車が出せるぐらいには雪かきができた。

だが、その日に予定していたスモーキー16代目の練習は没になった。
とてもじゃないが、雪をそのままにして出かけるわけにはいかなかった。
だいたい行けたかどうかも疑問だが。



降り出しの頃2月8日14時30分頃

翌朝10時30分頃。
これはうちの車。車の横を見ると恐ろしい高さまで雪が。
前から見るとこんな感じ。


翌日は、車での出勤は危険なので電車で行った。
職場に着くと、正門前に数台車が止まっていた。
何をしているのかと思ったら、門が開かないのだった。
職場でも一番最初の仕事は雪かきであった。

もう、腰も、太ももも、腕も、肘も、背中もパンパンだ。


2月14日からの雪もなかなか降った。
もう勘弁してくれって感じだ。
14日の帰りは走っていて結構スリルがあった。
周りの車がスタッドレスを履いているのかどうか、非常に気になった。

その日の雪は夜中に雨に変わったお陰で、朝起きた時点ではぐしゃぐしゃになっていた。
道路はぐしゃぐしゃで雪かきができなかったが、家の裏のみちは雪だらけ。
ここは何とかしないと、近所の人に迷惑をかけてしまう。
一生懸命やったら2時間弱で何とかなった。
お陰でアミューズの練習は1時間だけ参加できた。

昨年の雪の時は、母の透析でやきもきした。
あのときのせいもあったのか、昨年、入院騒ぎになるまで母は調子が悪そうであった。
今年は、病院の中なのであのような心配をする必要はない。
しかし・・・である。

雪続きで雪かきなどをしたせいか、今頃疲れが来た。
先週は風邪気味で、若干発熱などもし、今日も非常にだるかった。
全く、もうこりごりである。



2014年2月19日水曜日

Bob Dylan と弁当箱

ボブ・ディランが来るのだという。

東京公演は3月31日から4月8日までだそうだ。今年は異動が確定なので行けるわけはない。
異動先はまだ不明。とっても不安な今日この頃なのである。

ディランの初来日は1978年の2月だった。
ワシは2月23日の木曜日にひとりで武道館へ行った・・・ようだ。
日付なんぞ覚えとるわけはない。先ほどチケットを掘り出したからわかったのだ。

下のチケットが初来日公演のもの。ニッポン放送のプレイガイドで買ったようだ。
昔のチケットには味わいがあったなあ。

だけど、その日がM大学の入学試験であったことは忘れない。

その頃のワシは、ほぼ毎日大瀧詠一または山下達郎またははっぴいえんどまたはボブ・ディランまたは・・・を聞いていた。まあ、とにかくディランの大ファンであったのだ。

だから来日公演を逃すわけには行かなかった。しかし、入学試験真っ最中である。浪人の私は落ちるわけにはいかない。結構追い込まれた精神状況にあった。

何日間かあった公演のうち、その日を選んだのはM大学の入学試験があり、武道館に近いという、そんな理由であったと思う。

その日の試験のことは、とくによく覚えてはいない。
ただ、できなかったという感覚は全くなかった。あえて言えば、その大学にだけあった古文が苦手であったということぐらいであろうか。
英語などは簡単であったため、余裕をかまして、30分ぐらい残して出てきてしまったぐらいである。

従って、結果は意外なものであった。
それまでの模擬試験などの結果から、落ちるはずはないと思っていた。

ボブ・ディランのことが頭から離れなかったのは間違いない。
だから英語の試験で余裕をかますようなこともしたのだと思う。
それがいけなかったのか???

武道館の入り口で荷物チェックを受けた。録音器材、カメラのチェックである。
「これは何ですか?」と四角い箱について尋ねられた。
「あ、弁当箱です」と答えた。
何となく、恥ずかしかった。

コンサートでは、ディランが歌うと、ワシも自然に歌が口をついて出てきてしまうような感じで、歌いっぱなしだった。
隣に座っていたおねえさんが、チラチラと白い目でこちらを見ていたが、かまうもんか。

しかし、同時に何かしらけるような気持ちも湧いてきた。
あのディランが白いフリフリのブラウスを着て、女性コーラスをバックに歌っている。
何か違う。「ぼくのディラン」はあんなんじゃない。


その頃からだんだんディランを聞かなくなっていった。
そのあと発表された、Slow Train ComingやSavedなど何枚かアルバムも聴いたが、入れ込むことはできなかった。

あの公演がターニングポイントになってしまったのは間違いがない。

その後、1986年の公演にも聞きに行った。結婚直前のカミさんと、中学時代の友人と一緒に。
バックバンドとして連れてきたトム・ペティ・アンド・ハートブレイカーズはとてもよかった。


今でもディランはたまに聞いている。
しかし、1970年代中頃までのものだけだ。それ以後のものはやっぱりあまり聞く気にはならない。
たまにスコセッシの撮ったNo Direction Homeも見る。あんなにおもしろい映画はない。
上の動画はNo Direction Homeにも入っている64年のニューポート・フォークフェスティバルのものだ。司会は先日亡くなったピート・シーガー。
ピート・シーガーが自分の後継者と目したディランは、この頃から「トピカル・ソング」を歌わなくなり、だんだんと離れていく。
ミスター・タンブリンマンという不思議な歌を横で聴いているピート・シーガーは、何とも言えない様子である。

この頃のディランはとってもおもしろかった。
大人になりきってしまったディランはおもしろくない、ということなのだろうか。


2014年2月7日金曜日

アンセル・アダムスとゾーン・システム -アッコからのハガキ-

中学の同級生アッコから寒中見舞いのハガキをもらった。

15年くらいは年賀状の往復をしていたのであるが、うちの喪中をキッカケに中断してしまった。今年はワシが年賀状を出したので、その返信であった。

アッコは当ブログで一度触れたことがある。
うちの中学では1,2を争う秀才であり、しかも美人であった。十数年会っていないがきっと今もウツクシイ女性であるだろう。

彼女は、北の国へ引っ越してから、雪景色の写真をハガキにして年賀状を送ってきた。
少なくとも高校生までは、カメラをぶら下げた姿は拝見していないので、だいぶん大人になってからの趣味なのであろう。なかなかいい写真が多かった。

今回のハガキもちらっと見たときは雪原だと思った。しかし、そこに写っていた植物は、雪の中にはなさそうなものであった。

よく見ると、何となく見たことがあるような・・・。
これは絵はがきであった。アンセル・アダムスの手による、ニュー・メキシコの砂漠の写真だ。

アンセル・アダムスの絵はがき


アンセル・アダムスには思い出がある。
30になって子供ができ、子供の写真を撮っているうちに、再び写真に目覚めた話は以前書いたことがある。
その当時、インター・ネットなどというものは、少なくとも一般に知られているものではなく、ワシはパソコン通信をシコシコやっていた。

PC-VANは有料化された直後から入っており、「写真SIG」はたまに覗いていた。
写真SIGの運営者を含め、主要なメンバーはライカ好きの大人の方々が多く、ライカの話題を見ているうちに、ライカが欲しくて仕方が無くなった。ロバート・キャパの本を読んだり、ライカの本を買ったりしているうちに我慢ができなくなり、ライツ・ミノルタCLを購入した。その当時は、薄給のワタシに手の届く新品のレンジファインダー・カメラなんかなく、かなり使用感のある中古のCLが現実的にもっとも廉価に入手できる「ライカ型カメラ」だった。

「写真SIG」はそんな感じで、ライカ礼賛、エレクトロニクスを駆使したニューテクノロジーはバカにされる雰囲気があった。当時の最新鋭機Nikon f4を使う中高生と思しきお兄ちゃんが論争をふっかけると、無視されるか、あるいは集中砲火を浴び、バカにされたりすることもあった。

そんな中、「くまさん」というプロの写真家の方が、「そんな不毛な論争をするのでなく、表現法に努力したらどうか」という意見を出し、アンセル・アダムスのゾーンシステムの現代的実践方法の講座を始めたのだった。

詳しいことは「アンセル・アダムス ゾーンシステム」でググれば、情報は山のように出てくる。

それまでアンセル・アダムスという名前は知らなかったように思う。
今のように検索すれば写真が出てくるような時代ではなかったから、本屋で立ち読みしたか何か、何枚かの写真を見た。

もっとも私の心を捉えたのは「エルナンデスの月の出」だった。
夕方、暮れかかる暗い空に出た月、山、手前の町並み、見事なトーンであった。
リンクからは写真が見られるが、PC上ではラチチュードが狭いのか、印刷物のような見事なトーンは見られない。

ゾーンシステムはトーンをコントロールする現像法である。
真っ黒なゾーン0から真っ白なゾーンX(テン)まで11段階に分け、どのようにトーンを出すかを現像でコントロールするのだ。

ちなみにゾーンの1段階は露出で1段、すなわち光量で倍違う。そして、真ん中のゾーンVは露出計の基準となっている反射率18%グレイである。

写真家は、対象のどの部分をどのゾーンで表現し、どれぐらいの幅で表現するのかを考えて撮影し、現像せねばならない。

それまで教わってきた適正露出は、どの部分を18%グレイにするようにするか、あるいはそれを応用して全体を白く写すとか、黒く写すということだけを考えるものだった。

ゾーンシステムはアンセル・アダムスが使っていた8×10のようなシートフィルムのためのシステムであったが、「くまさん」はこれを35mmのような36カット一律の現像をしなければならないロール・フィルムに適用するために、イルフォード・マルチグレード印画紙でコントロールすることを提唱した。

その前まで、ライカ教のみなさんに心酔したワタシは、今度はゾーンシステム教に入信し、マルチグレード印画紙と、それをコントロールするためのフィルターを、結構高い金額を払って購入した。

入れ込んだ割にはあまり成果はなかった。
ここに出せるようなものもないような気がする。

というか、マルチグレードで引き伸ばした印画紙がどれで、どこにあるのか今となってはわからない。マルチグレード用のフィルターセットは天袋のどこかに今も眠っている。
すでに引伸機は処分してしまったのに。バカな話だ。

今度、暇ができたらネガを眺めてみよう。何を撮ったんだっけ?

アンセル・アダムスの写真は、古い写真である。
しかし、あのようなトーンの写真はそう滅多にお目にかかれるものではない。
一度、オリジナルプリントを眺めてみたいものである。


2014年1月28日火曜日

浅草 浅草寺 スカイツリー

スカイツリーツアーに先だつこと2時間。
せっかくなので浅草に行って写真を撮ってきた。
まだ1月とあってものすごい人出だった。

そうか、都知事選か。ネットで人気の田母様か。現実社会じゃ無理だろ。

新装なった提灯

伝法院通りの早田カメラ。この通りはみんな改装されたみたい。
ライカ修理の名人の様子が通りから見えなくなった。



とにかく外人が多い。欧米人はもちろん、中国、韓国も多いが、タイの人が非常に増えた。
このかわいい子は中国系かな?









本所吾妻橋のあづちゃん。おしなりくんもみたかったが。

























2014年1月27日月曜日

ワレ未ダ登頂セズ

スカイツリーに行った。
建設中に1回行って以来である。

今回は、高校1年の時のクラスメートで集まった。
女子5名、男子3名。これだけの規模で集まったのは一昨年のもんじゃイベント以来である。
その時は、完全にへべれけになり、帰ってきたルートを覚えておらず、あとでスイカの履歴を調べたりした。今回はもうちょっと自重した。かな?

久しぶりに昼間から活動したお陰で女子も集まり。楽しいイベントになった。
なんというか、まさか50歳を過ぎて、1年5組の仲間たちと交流する日が来るとは4年前まで考えもしなかった。

まことに楽しい。

あの日、K学部長の退官記念パーティーに行ったあと、たいして気が進まなかったが、同窓会の2次会に顔を出した。そのお陰である。
企画をして、そして去って行ってしまった増淵 ありがとう。

8階からみんなで見上げる。何が見えるんじゃ?


こんな風景が。露出補正をしなかったので、空が18%グレーだ。修正がめんどくさいんじゃ。


ハイジさんの解説。何を説明しとる?

町を見下ろすとこんな感じ。今日は3千円払って登る価値なしと判断。
向かいのビルの31階で我慢しよう。

夜は浅草に繰り出し、居酒屋で話に花が咲いた。

男子を厳しくご指導するまでに成長した女子もいれば、相変わらずボケをかましまくる女子もいる。
みんなおもしろい。みんながんばっとる。
こういう時間は、ホントにいい。
また会える日を楽しみにしていよう。

ほろ酔いで外に出てみると、おしゃれにライトアップされたスカイツリーが
次は登るぞ!





2014年1月21日火曜日

高田漣ライブに行ってきた

先週の土曜日、カミさんと高田漣のライブに行ってきた。
六本木に新しくできた「EX シアター」というところだ。
ざっと数えたところ600席ぐらいのホールで、今風なのか、階段状の席は移動できるような感じであった。おそらく平面にも使えるのだろう。

高田漣は、ビールのコマーシャルにも出ていたので、見たことのある人は多いはずだ。
しかし、高田漣のソロ活動を見たことも聞いたこともなかった。
唯一、父親の高田渡と行ったライブのCD 27/03/03 を聞いただけである。
これは非常にいいアルバムである。



カミさんがライブの情報を見つけたとき、「行こう」と言ったのは、高田漣がいろいろな人のサポートをしている売れっ子ミュージシャンであることを知っていたのと、スペシャルゲストのせいである。

ゲストは、鈴木茂、細野晴臣、そして、ムッシュかまやつという豪華な面々だ。

鈴木茂は髪が白くなってシワが多くなったが、昔と全然変わらない。
めずらしくテレキャスターを弾いていた。
名作Band Wagonから、2曲やった。「ウッド・ペッカー」と「砂の女」だ。感激!

生の細野さんを見たのはたぶん初めてだった。
ロカビリーっぽい曲を2曲ほどやった。
かっこよかった。

父君の高田渡を最初に聞いたのは、たぶん岡林信康のライブ盤だった。
URCレコードの2枚組、神田共立講堂のコンサートだ。
高田渡は岩井宏(bj)と加川良とのトリオでやっていた。
確か、「生活の柄」と「おなじみの短い手紙」を歌っていたと思う。

そのコンサートの岡林のバックバンドがはっぴいえんどで、その後、高田渡のアルバムで「しらみの旅」などの録音に参加している。

実は、今から30年以上前、高田漣を何度か目撃したことがある。
学生時代、よく吉祥寺で飲んだ。
学校は松戸だったのに、吉祥寺まで飲みに行き、三鷹にある友人の家に泊まり、翌日は井の頭公園を散歩する。そんなことをよくやっていた。

そんな時、何度か自転車を引っぱった高田渡を目撃した。
そしてその自転車には子供を乗せていた。
「ああ、あれが漣君か」そう思った。
なぜ名前を知っているか・・・「漣」という曲があったからだ。

その高田渡も今はなく、大瀧詠一も亡くなってしまった。



このスピーチバルーンでは、添田唖蝉坊の話などが興味深い。
前出の「しらみの旅」は添田唖蝉坊の詩に「ワバッシュ・キャノンボール」の曲を付けて歌ったと言っていた。そうか、そうだったんだ。ロックンロールのリズムと鈴木茂のギンギンのギターでよくわからなかったけど、旋律は確かにワバッシュ・キャノンボールだ。






ロイ・エイカフ 正調ワバッシュ・キャノンボール


肝心の高田漣の演奏は・・・よかった。
ドラムとベースのトリオであるが、力強いリズム、パーカッシヴなベースで、どうしてたった3人であんな音楽になるのだろうと感心した。やっぱりプロはすごい。

いろいろな人を見られて、いろいろ思い出させてくれたライブでした。
行ってよかった。





2014年1月18日土曜日

大瀧詠一を偲ぶ会

先日、大瀧詠一を勝手に偲ぶ会をやった。

午前11時に新宿三丁目のカラオケ店に、おいらが参加しているロックバンドAMUSEのメンバーが集合し、フリータイムが午後8時まで、飲みまくり、歌いまくったのである。

大瀧詠一を良く聞いていた70年代後半、カラオケはまだ8トラで、ほとんど演歌しかなかった。今は相当いろんな曲がある。ナイアガラ・ムーンに入っていた曲もあるし、GOGO Niagaraに入ってた曲もあった。

だが、ナイアガラ音頭はあっても、Let's Ondo Againはなかった。アンアン小唄もなかった。
いくら通信カラオケでも需要っつーものが無いんであろう。

 

山形かゑる子が歌っているオリジナルバージョンをyoutubeで発見した。


男子2人は昔からの大瀧ファンで、さんざん歌ったのだが、女子2人はほとんど曲を知らなかったようだ。彼女たちにとっての大瀧詠一は「ロンバケ」以降が全てのようであった。

ここのところ、ナイアガラ・ムーンやカレンダーなどを聞いている。
古さを感じない、素晴らしい音楽である。
大瀧詠一やその周りにいた、はっぴいえんどのメンバー、山下達郎など40年近く前のレコードを聴いても古さを感じないのはすごいことである。同時期にヒットした歌謡曲を聴いてみればその違いがわかる。ものすごく古く感じるはずだ。

「ロンバケ」もいいけど、あれは大瀧詠一の引き出しの一つに過ぎない。
偉大な人を失った。
残念、無念!

2014年1月4日土曜日

はっぴいえんどからBluegrassへ

今年は、ワシがBluegrassを始めてから35年になる。

大学に入る前は、はっぴいえんどや各メンバーのソロ作品、大瀧詠一のナイアガラ・ムーンや細野晴臣のトロピカルダンディーなどを良く聞いていた。

大瀧詠一の作品でもとくに音頭ものは好きで、良く歌っていた。
「ナイアガラ音頭」は大学に入った頃の愛唱歌だった。
「Let's Ondo Again」は、破滅的な、まさに「極致」の曲だった。
大学1年生の頃、コンパで酒が入ると良く歌ったもんだ。

と思って、大瀧作品をごそごそ調べていたらトライアングルのvol.1が見つからない。
確かレコードで持ってたはず・・・と調べてみたが、無い。
よく考えてみるといつもテープを聴いていたような・・・。あんなに死ぬほど聞いていたのに良く覚えていない。誰にレコードを借りたのか?あまりにも時間が経ってしまったためか全然覚えていない。

ということで、先ほど、母の病院へ行った帰りに30th AnniversaryのCDを買ってきた。


ボーナストラックにはシングルバージョンが入っていて、ちょっとトクした気分である。


クレージー・キャッツが好きになったのも大瀧詠一の影響である。
20代の半ば、すぐ上の姉の結婚相手(今の義兄です)がクレージー・キャッツ好きで、シングル盤をいっぱい貸してもらい、代表曲はほぼ聴いた。
今でも、カラオケに行くとクレージー・キャッツは好んで歌う。

一番すごい曲は、「ホンダラ行進曲」のような気がする。
大瀧詠一もこの曲は好きなようで、トライアングルのvol.1のラストは「ホンダラ行進曲」という構想があったようである。

3年ほど前、震災の直前、そしてN君が亡くなった直後、高校1年の時の同級生とカラオケに行った。そのときワシはやっぱりクレージー・キャッツを歌ったのだが、それを聞いた「みち」が、「何でクレージー・キャッツなの、ブルーグラスやってる人なのに・・・」と言ったのであった。

学生の頃から、「何ではっぴいえんどファンなのにブルーグラスなわけ?」とか、たびたび聞かれることがあった。どうも、人様から見るとはっぴいえんどとブルーグラスは1本につながらないようだ。
ワシもうまく説明できなかった。


はっぴいえんどの「ゆでめんアルバム」の裏ジャケットに、松本隆のクセのある字で「下記の方々の多大なるご援助に深く感謝したい」とたくさんの名前が挙げられている。

その中には、彼らが目標にしたバッファロー・スプリングフィールドのスティーブン・スティルス、ニール・ヤングやザ・バンドのリヴォン・ヘルム、リチャード・マニュエルの名が、それからジェリー・ガルシアの名前もあった

実は、このリストはバッファローのアルバム「アゲイン」のパクリである。
「アゲイン」のリストを読むと、フィル・スペクター、ロバート・ジョンソン、ストーンズ、ロバート・ツィマーマン(ボブ・ディランの本名だ)、ピート・シーガーなどの名とともに、ドク・ワトソン、フラット&スクラッグスの名が・・・。

バッファローの代表曲ブルーバード



ドク・ワトソン ブラック・マウンテン・ラグ なかなか弾けなかったなぁ、これ。



フラット・アンド・スクラッグス。存命なのはカーリー・セクラーだけになったかな。御年94歳だそうな。


ここに、はっぴいえんどとブルーグラスは1本につながったのである。

まあ、しかし、今でも人に説明するのは大変なのであるが。


2014年1月3日金曜日

永遠の0

カミさんと娘と3人で「永遠の0」を見てきた。
なかなかよい出来であった。
泣いた。

原作は読んでいて、原作を読んだときの方が泣いた。
しかし、映画もなかなかよかった。

田中泯はいつも迫力がある。
あのやくざの親分役はぴったりだった。
岡田准一はいい役者になった。 

空母から発進する際に、あまりにもすぅっと飛び立つ点や、着艦の際にワイヤーがしならないなど、細かい点が気になったものの、物語全体に影響するものではなく、全体としてはとってもよかった。
 


軍隊の中で、とくに戦闘の現場にいる人で宮部久蔵のように冷静でいられる人はいるのだろうか?
真珠湾が失敗だったと言った人はいたのだろうか?

軍も政府もマスコミもファクトをもとに冷静な分析ができなかった。
それがあの戦争の一番の反省点ではないか。
日本人は熱狂に弱い。ダーッとなだれるように熱狂する。
冷静な評価ができていれば、特攻なんて考えられるはずがないではないか。

現実をキチンと分析し、評価することができる社会。これがきわめて重要である。 
日本の大マスコミは、あの戦争のことになると、「ものが言えない時代になってしまった」というような「被害者ヅラ」をする。
しかし、戦争に突入する勢いを付けた国民の熱狂は、マスコミ自身が作ったのではないか。
これは最近読んだ保阪正康、半藤一利の「そして、メディアは日本を戦争に導いた」の受け売りであるが・・・。


 太平洋戦争のことをあまり知らない若者にも見てもらいたい映画である。
 映画を見たあとに、原作を読んだり、関連する書物、映画などに触れる機会を増やしてもらえば大変結構と思う。

 少なくとも、印象としては「風立ちぬ」よりはずっとよかった。

2014年1月2日木曜日

Each Ohtaki死す!

大瀧詠一が死んだ。
早すぎるではないか!

ワシの最初のアイドルは岡林信康だった。
中学1年生で腎臓病を患い、運動ができなくなったため、中学2年生からギターを弾き始めた。
弾き初めて数ヶ月、同級生のウラワ君のうちで聞かせてもらった「くそくらえ節/ガイコツの唄」で、一発で好きになった。歌詞がおもしろかったからである。

その後、岡林からボブ・ディランを知り、岡林のバックバンドをしていた「はっぴいえんど」、ボブ・ディランのバックバンドをしていた「ザ・バンド」を知り・・・というように音楽の幅は徐々に広がっていった。

高校2年生の頃、1975年、ちょうどはっぴいえんどの解散直後であるが、この頃から「はっぴいえんど」とそのメンバーのソロ活動に私の興味は移っていったのである。

中でも大瀧詠一は一番のお気に入りであった。
おもしろいのである。
「ナイアガラ・ムーン」のシャレのセンスはものすごく好きだった。






「楽しい夜更かし」「しゃっくりママさん」「論寒牛男(ロンサムカウボーイ)」・・・みんなよかった。
麻雀しながら「イーチャン、リャンチャン、や~め~られない止まらな~い」などと歌ったもんだ。

ナイアガラ・ムーンのあとに続く、「Niagara Triangle Vol.1」もすごくよかった。
この頃の山下達郎はまだ売れて無かった頃だが、このアルバムでは「幸せにさよなら」(間違い。これは銀次でした)「パレード」がよかったかな。伊藤銀次は「空日照り~、メラメラ阿修羅~」と訳のわからない歌詞の「日射病」がよかった。
大瀧詠一はプロデューサーとしての能力を遺憾なく発揮している感じであった。
もちろん、このアルバムでのワシのベストは布谷文夫が歌う「ナイアガラ音頭」である。



1977年の暮れに発表された「カレンダー」は大瀧詠一渾身の1枚であったらしい。
ワシは浪人中だったが、発売日に購入した。
その年の暮れは「クリスマス音頭」、キングトーンズがコーラスを固めるアカペラの「お正月」のあたりを唄って過ごしたことを明瞭に記憶している。





しかし、その渾身の1枚は全く商業的成功を収めなかった。
そして、やけくそで出したアルバムが「Let's Ondo Again」であった。
これはもう、本当にすごいアルバムである。絶対に売れる要素がない感じがした。
wikipediaの曲目リストを見てもらいたい。何じゃこれ、という感じを持たれるのではないか。
これはワタクシ的には受けた。大好きなレコードであった。破滅的であるが。
一番好きだったのは「河原の石川五右衛門」である。
しかし、レコード発売当初は、曲は収録されておらず、歌詞カードに「詩のみ」と書いてあった。
まったく、「何じゃそりゃ」って感じである。
しかしこれは、文句なくおもしろい。





その後、大瀧詠一は、「ロンバケ」でミリオンセールスを記録するヒットを飛ばし、やっと一般の人に知られる存在となった。その少し前に、「Ride on Time」で一般の人に知られることになった山下達郎と併せ、自分の趣味がみんなに認められる喜びと、みんなにとられてしまう寂しさを同時に味わった気がする。

「ロンバケ」以降は、松田聖子や小林旭、森進一などに楽曲を提供したり、プロデュースしたり表舞台での活躍があったことはみなさんの知るとおりである。

松田聖子の「風立ちぬ」は、大瀧詠一と鈴木茂がプロデュースを担当し、作詞は全て松本隆。
素晴らしいアルバムだった。私が初めて「自ら進んで聞いたアイドル歌手のレコード」だった。

同時期に細野晴臣の曲もヒットしていて、ベスト10の中に「はっぴいえんど」メンバーの関わった曲が何曲も入っていたことがあった。
あの頃は、とっても嬉しかった。


大瀧詠一はワシにとって、決して忘れられない存在である。
明日から、昔のLPを引っ張り出して聞いてみようかな。

ご冥福を祈ります。



2013年12月30日月曜日

2年ぶりのガン検診

2年ぶりにガン検診に行ってきた。
昨年は、脳ドックに行った。
これから、1年おきにガン検診と脳ドックに行こうと思うのだが、ガン検診は辛い。

検診は「一般+前立腺」というメニューで、これの募集人数が一番多い。
大腸ファイバー、胃カメラ、肺のヘリカルCT、前立腺(腫瘍マーカー)という内容である。
辛いのは、大腸ファイバーだ。一昨年も書いている

前回と違うのは、二日連続と言うことであった。
1日目は大腸ガン検診。その前の日は日曜日である。
朝は素うどん。これは冷凍ものをヒガシマルうどんスープで食べた。
昼と夜は「クリアスルー」という検査食。結構うまいのだが、昼、夜の2食で300キロカロリーぐらいしかない。腹が減る。

検査食以外に食べてはいけない。水分はいいのだが、乳製品、フルーツ、野菜はダメだ。コーヒーはミルク抜きだ。

日曜日は、ここのところ、実家に行って父の様子を見て、病院に行き母の様子を見るのが日課、いや、週課となっている。実家に行くとついつい饅頭だのせんべいだのを食べてしまう。お茶以外の一切を口にしないのには注意が必要であった。

検診日、朝、病院に着いたのが8時半、下剤を飲み始めたのが10時20分。
検査が始まったのが3時。
おしりにファイバーを突っ込まれ、グリグリやられると、何とも気持ちが悪い。
やっぱり最悪だ。来年も再来年もやりたくない。
結果は、良好であった。
一応私も目視したが、赤いところも、腫瘍らしいところもなかった。
まあ、冷静には見られなかったが。

一昨年の反省から、帰る前に病院のトイレに入り、できる限りガス抜きをした。
その結果、一昨年よりは少しましな状態で帰ることができた。
そのため、私の初任地の様子を観察する程度の余裕ができた。
写真は私の最初の職場で、10年間を過ごしたところである。
今はしゃぶしゃぶやさんの駐車場になってしまった。

かつて私が勤務していた普及所があった場所。
現在は「しゃぶしゃぶどん亭」になっている。

ここでの10年間はいろいろなことがあった。
私の青春である。

翌日は、胃カメラと肺のCTだった。
胃カメラは、前回同様鼻から入れるヤツだ。
前回、右の鼻の穴からは入らず、左から入れた。
今回は、あらかじめその説明をしたのだが、なぜか最初に右から入れられた。
でもダメだった。だから言ったのに。

胃も、さしたる異常はなかった。
とりあえず、ありがたいこっちゃ。

来年は、かなり厳しい年になりそうな予測がある。
父や母のケアをしながら乗り切れるのか、相当不安だ。

ま、頑張るしかないのか?




2013年12月28日土曜日

2013年暮

全くいつから更新してないんだか・・・
全然わからないくらい久しぶりである。

この夏から冬まで、まあ、いろいろあった。
母は、期限の3ヶ月が来る頃退院させられることになり、9月はじめに葛飾区内の診療所に転院した。



そこは、今までの快適(そうな)病院とは大違いの、やや暗く、古~い診療所であった。
看護師さん達は、活気があり、その意味ではよかった。
しかし、風呂もなく、ごくまれにシャワーを浴びるのがせいぜい。普段は体を清拭してもらうだけであり、ほとんどの時間をベッドの上で寝るような生活になってしまった。

週3回の透析に向かう際、車いすに乗るだけで、それ以外はベッドに寝ている生活。そのせいか、妙なことを言うことが多くなった。

「あら、あんた、捕まえた?小鳥?」
「は?」

「さっき、えっちゃんが、釣り竿もって釣りに行ったのよ。あの人にあんな趣味があったなんて知らなかったねぇ」
てな具合である。

食事をしているとき、左手を全く使わないので
「そっちの手も使いなよ」というと
「だって、ネコがいるんだもん」
「え?どこに?」
「ここ」といって左手のところを指す。

市川の病院を退院する際、基本的にはその病院の療養型病床を希望していた。
しかし、工事中で、療養型病床から透析室までが安全に移動できないために、葛飾区の診療所に転院したのであった。そこで、10月の終わりに病院のソーシャルワーカーに療養型病床への転院について問い合わせてみた。

11月末、もとの病院の療養型病床に転院することになった。
日程でもめた。
一度決めた日程が、2転3転した。
仕事中の調整は結構ストレスがあった。
とにもかくにも、もとの病院に戻ることができた。
本人は家に帰りたかったようである。
しかし、歩行不能な透析患者を家に戻すのは簡単ではない。
兄弟の誰かが仕事を辞めなければ不可能である。

現在、母は変なことを言う回数も減ってきた。
それだけ、ストレスが減ったのかも知れない。
辻褄の合わない話も出るが、「小鳥」の話や「釣り」の話は出ない。
さすが、費用がかさむだけあって、効果はあるようだ。
キレイな風呂には感激していたようだし。


年末は、外泊許可をもらい、家に連れて帰ってくる予定である。
さて、どうなるか・・・





2013年8月11日日曜日

盆休み直前の国府台

本日も母の見舞いだ。

今日から帰省あるいは行楽という人が多いのか、それとも盆休み前に仕事を片付けるのか、ともかく、メチャクチャ道が混んでいた。
おまけに気温は37℃まで上がり、表に出るとクラクラする。40℃を超えた地点もいくつかあったと報道されている。実家ではエアコンをぶんぶん回しても34℃から下がらない。
今年の夏は暑さでも、雨の激しさでも記録に残るのではないか。

市川と松戸をつなぐ県道1号線。とにかくいつも混んでいる。
学生時代、大学への通学では決して使わなかった。


栗山浄水場。今日はよく見える位置で、信号待ちをしたので、iphoneでパチリ。

もうすぐ母は退院になる。
しかし、歩くことはできない。せいぜい人に支えられて1m。
このまま家に帰るわけにはいかないであろう。

なかなかどうして困った問題である。



2013年8月8日木曜日

「風立ちぬ」 そして 「夕凪の街 桜の国」

先日、「風立ちぬ」を見てきた。
賛否両論あるようだが、私の感想は「うーむ・・・」という感じだった。
宮崎監督は直截な表現がイヤなのかも知れないが、ラストを迎えたとき「え、これでおしまい?」と思ったのも事実。私が単純なだけなのか、ものを知らないだけなのか・・・。

別に零戦の絵がもっと欲しいとか、戦闘シーンが欲しいとかではないけれど、あれではワシより戦争を知らない人々にどう受け取られるのかと考えてしまった。
もう一回見た方がいいかな?
数年後、どのように評価が定まっているかが楽しみではある。

戦争をテーマとした映画では、数年前に見た「夕凪の街 桜の国」は良かった。
こちらも戦闘シーンは一切なし。だが、原爆の悲惨さを見事に描いていた。
原爆症で切なく死んでゆく麻生久美子が良かった。
その弟(堺正章)の娘を演じる田中麗奈、その同級生の中越典子も良かった。
是非見ておくんなさい。
数ヶ月前、バーゲンでDVDを買ってしまった。




実は、ワシも原爆には無関係ではない。

1999年に100歳で亡くなったワシの母方の祖母がいた。
なかなか厳しい人であった。東京は谷中の出身で医者の一家であった。
その兄角尾晋は、当時長崎医科大学の学長であった。
その晋おじさん(註:もちろん母のいい方)が、原爆のほとんど直撃を受けて亡くなっているのだ。

子供の頃、母に何遍も聞かされたことだが、東京出張中だった「晋おじさん」は、帰路、広島で(原爆被害により)鉄道が不通のため、広島を徒歩で横断し、長崎へ帰った。

8月9日の午前は、爆心からわずか数百メートルの病院で回診中、真後ろからまともに熱線を浴びてしまったという。

「あのとき広島で引き返してればねぇ」と、母の話はいつもそこで終わったものであった。


われわれの世代は、両親から生々しい戦争の話を聞くことができた。
しかし、終戦時23歳の若者だった父は91歳。19歳の乙女だった?母は87歳である。
戦争体験者の話を聞けるのもそう長くはない。
体験者の生々しい話が聞けなくなると、感覚的に伝わることは減っていくのは必然である。
どう伝えていくべきなのか、それをわれわれが考えなければならない。


2013年7月15日月曜日

母の入院

87歳の母が入院している。

人工透析をするようになってからもう10年以上になる。
透析の大変さは前にも書いたことがあった。あの雪の日は本当にハラハラした。
週に3日の透析は、だいたい4時間くらいかかる。うちの母は他にも膝痛で通院していたので、ほとんど毎日が病院通いで終わってしまう。

5月の後半から頭が痛いと言っており、脳神経外科に行くとかいっていたのだが、ある日、透析をしていると先生が首をみて「これ帯状疱疹じゃないか」と言ったという。
そして、系列の大学病院の皮膚科を紹介され、外来を訪れると、やはり帯状疱疹であり、透析もあるので「入院しましょう」ということになった。そして、頭痛の原因はどうも帯状疱疹らしかった。
6月のはじめに入院し、1週間ほどで軽快、退院した。

退院して3日ほど経って、透析に向かおうとすると膝が痛くて動けない。
どうにか病院まで行ったが、帰りには全く歩くことができず、透析クリニックの運転手が背負って家まで運び入れてくれたという。

しかし、父も母も子供にはヘルプコールをしないのだ。自分からは。
土曜日の昼、たまたま実家に電話した姉が状況を知り、我が家に電話してきた。

とりあえず実家に行き母がキチンと寝られる場所をどうにか整備した。
しかし、全く歩くことができず、トイレにも行けない。
1回、背負ってトイレまで運んだが、重い重い。
母は、介護保険では「要支援2」である。これはもっとも軽い階級だ。
まあ、今までは頑張れば自力で、あるいは父の力を借りて何でもしてきた。
そのため、認定はされているものの、介護サービスは全く受けてこなかった。

しかし、今はそんなことはいっていられない。
認定の時に世話になった事業所に電話し、とりあえずポータブルトイレだけでも何とかならないか聞いてみる。すると、すぐに福祉用具を販売する事業所に連絡をとってくれ、その日のうちにトイレは入手することができた。
本当にありがたかった。

日曜日、兄弟全員が集まり、鳩首協議。
「明日は透析だ。このままでは絶対に行くことはできない。どうしよう」
「1階に寝てれば、透析の運転手が何とかしてくれるよ」と父が楽観的なことを言う。というか、息子や娘たちに迷惑をかけまいと、楽観的に装っているようにしか見えなかった。
しかし、歩けない母を連れて行くのは運転手の仕事ではない。

もし、明日何とかなっても、その次はどうする?
結局何の案も浮かばず、救急を要請した。

救急隊には、透析の手術をしたのも前述の大学付属病院であったことから、その病院を希望した。しかし、整形外科の担当医がいないらしく受け入れは叶わなかった。

運ばれた先は「化研病院」という、今まで聞いたことのない病院であった。
あの式場病院(山下清とか欧陽菲菲とかで有名な)の隣である。こんなところにもうひとつ病院があるとは知らなかった。しかも歴史は明治からと古く、明治天皇から下賜された「恩賜館」なる建物もある由緒正しい病院であった。

病院の玄関からみた浄水場の特徴的な屋根。
わが大学の教室からよく見たものだ

処置に当たった先生は、膝をみて、「ずいぶん腫れているな」といい、シリンジを使い中の「水」を抜いた。やや黄色がかった、白濁した「水」が数十cc取れた。

「これ、培養ね」と言った。

これまで、事態をどう打開するかばかり考えていて、どうして母の膝が使えなくなったのかは全く考えていなかった。先生が言うには「関節炎」だという。そして、培養で炎症の原因になった菌を特定するのだという。

10日以上経って、培養の結果を聞いた。
結核菌などのヤバイ菌は出なかったようだ。
入院したとき、軽い肺炎を起こしていたようだが、その菌が体に回り、膝と踵で繁殖してしまったようだという。(踵も痛かったのだ)そして、肺の水、膝の水、踵の傷の3カ所から採取したサンプルを培養した結果、全て同じ菌が出たという。

足の屈伸をする装具。角度を入力すると自動的に曲げ伸ばしをしてくれる。
1ヶ月も足を十分動かしていないと固着してしまう。それを防ぐのだ。
なんだかんだで、明日で丸1ヶ月の入院になる。
母は、リハビリの結果、立つところまではいった。しかし、歩くまでには相当の時間を要するであろう。本人のやる気が出なければ、もう歩くことができないかも知れない。
透析患者であることを考えると、もう、家に帰るのは現実的でないのかも知れない。
非常に悩み多き現在である。

しかし、化研病院は説明もしっかりしているし、原因もきっちり究明しようとするし、なかなかいい病院という印象を持っている。こういう病院にたまたま入院できたのは不幸中の幸いであった。



2013年7月1日月曜日

オオガハス

我が社にはオオガハスがある。

オオガハスは、その昔東大の検見川農場で2000年前の地層から発見された種子で咲いた古代の蓮である。

大賀博士が蓮を咲かせた翌年、我が社に種子が分譲されたらしい。
今では、我が社の顔とでも言える場所に6月頃になったら咲く。
なかなかにキレイである。

さて、我が社はどこでしょう?

考えてみたらiphoneにしてから初めてブログに写真を載っけた。
iphoneのカメラはリッパである。htc Ariaとは雲泥の差である。






2013年4月29日月曜日

Crooked Still

Crooked Still というバンドがある。
ジャンルはalternative Bluegrass というジャンルになるそうである。
若手のバンドだが、楽器構成が少し変わっていて、バンジョー、ベース、フィドル、そしてチェロが入る。ギターは必ず入っているわけではない。ギターのいないブルーグラスバンドなんて普通はない。

実はつい最近まで知らなかった。ある方がfacebookで取り上げているのを見てCDを買ってみたのだ。
このCDを買ってみた。

このCDを買ってみたのは、ジャケットがいいデザインだったのと、曲の中に"oxford town"が入っていたからだ。

"oxford town"は初期のBob Dylanの曲で、高校1年生の頃よく聞いていた。「風に吹かれて」と同じ”Free Wheelin' "というアルバムに入っていた、プロテスト色の強い歌である。「風に吹かれて」はあまたのシンガーに歌われてきたし、ディランの曲はそのほかにも他のミュージシャンにカバーされている曲は多い。例えば、ミスター・タンブリンマンとか、Knockin' on Heaven's Doorとか、いろいろあるだろう。でも、オックスフォードタウンをやっている人は見たことがない。

Crooked Stillのオックスフォードタウンは疾走している。
ブルーグラスには疾走感(ドライブ感)はつきものである。
しかし、この曲のドライブ感はチェロとバンジョーによってもたらされている。
ヒジョーにおもしろい。

このほかにも、ビル・モンローのCan't you hear me callin'のようなブルーグラス・スタンダードもあれば、ロバート・ジョンソンのブルースもある。

とってもいい買い物をした。
別のCDも買ってみたい。


2013年4月27日土曜日

花盛り

いやー、いったいいつから更新してないのだろうか?
前に書いたのは3月?

今年も異動になり、もとの研究室に戻り親分になった。
一研究員の時と違い、調整業務など、まあ、いろいろと忙しい。

3月末の桜の時期にも写真だけは撮ったのだが、それ以上のことをするパワーは生まれなかった。何となくブログを放置する今日この頃である。

5月も近くなりウチの周りにナガミヒナゲシが咲き出した。
名前はさっき調べた。前にも一度調べたが覚えられない。
「オレンジ色のポピーのような花」と言っている。
ケシの仲間だけれど、麻薬にはならないそうだ。当たり前だが。

ナガミヒナゲシ。いつの間にかウチにも種が飛んできて定着した。



つぼみはこんな感じ。メイプルソープの写真を思い出す。メイプルソープはもっとエロティックだけど。

捨てた土の中からチューリップも咲いた。

数年間放置した寄せ植え。寒さに強いミニシクラメンも、この冬は寒すぎたようで、一度死にかけたが復活したようだ。

2013年2月18日月曜日

KALA Ubassの弦交換

ちょっと前の話だが、KALA U-bassの弦を交換した。
ワース・クリエイションのライト弦である。

弦そのものは、何のことはない駆動用のベルトである。
機械について少し知ってる人なら見たことがあるかも知れない。バンドー化学のバンコードというものらしい。

我が実家は、かつて機械工場であった。
そのためプーリーというものは日常的に見ていたし、このベルトのようなものも見た記憶がある。
このオレンジ色は絶対に、かつて見たことがあると思うのだ。

だったら長いベルトを買って自分で切ればいいじゃん、と思う。
しかし、終端の処理が難しいようだ。

前のKALAの弦は、表面にでこぼこがあったりしたが、これはまん丸のツルツル。
さすがMade in Japan という感じである。
弦の手触りはKALA弦の方がいい感じもするが。

オレンジ色の弦は目立つ。ハワイアンらしくていいと、ある先輩に言われた。

1弦、2弦は巻いても巻いても、どんどん伸びる。お陰でこんな具合に。
ある程度伸びきるまで、カットするのは危険なので、しばらくはこんな状態である。

2013年2月12日火曜日

解決! DVD問題

DVDの問題が解決した。
やはり、DVDが動かなかったのはビデオカードがショボかったためであった。

うちから一番近くのPCパーツが買える場所はPCDEPOTだ。
車で10分ちょいのPCDEPOTに行き、ビデオカード売り場を見る。
売っているのは「玄人志向」ばっかり。
「玄人志向」は、別名「苦労と試行」と言われるように、あまり印象が良くない。

しかし、他にないんだから仕方がない。
マザーが5年も前のものだし、ゲームもやらないので最低ランクのものを見る。
nvidiaかATIかでチト迷ったが、ファンレスだったこともありATIのGPUが乗ったRH5450-LE512HD/D3/HS/G2を手に取る。
店内のPCでkakaku.comの評価を見た。おおむね良好。
ふと、最安価格を見ると2460円。手に取った商品は3280円。ずいぶん違うぞ。
最安価格の店を見ると、なんとPCDEPOTではないか。
そこで、お店の人に言ってみる。
「あのう、お宅の店の通販で2460円で売ってるんですけど・・・」
すると、
「会員登録をして、店舗で受け取りとして注文してもらうとその価格で売れるんですが」
だって。

そこで、店内のPCで注文し、最安価格でゲット。

家に帰り、早速取り付けてみる。
windows8のエクスペリエンスインデックスで評価したら、今まで2だったグラフィックスが3.5に。
しかし、最低点であることに変わりはない。こりゃダメだったか・・・

DVDを入れてWindows Media Centerを起動する。
映った。
メディアプレーヤークラッシックでもOK。
やはり、ビデオカードのせいだった。


DVDはボブ・ディランの「ノー・ディレクション・ホーム」。
メチャクチャおもしろい映画である。

一件落着。