早すぎるではないか!
ワシの最初のアイドルは岡林信康だった。
中学1年生で腎臓病を患い、運動ができなくなったため、中学2年生からギターを弾き始めた。
弾き初めて数ヶ月、同級生のウラワ君のうちで聞かせてもらった「くそくらえ節/ガイコツの唄」で、一発で好きになった。歌詞がおもしろかったからである。
その後、岡林からボブ・ディランを知り、岡林のバックバンドをしていた「はっぴいえんど」、ボブ・ディランのバックバンドをしていた「ザ・バンド」を知り・・・というように音楽の幅は徐々に広がっていった。
高校2年生の頃、1975年、ちょうどはっぴいえんどの解散直後であるが、この頃から「はっぴいえんど」とそのメンバーのソロ活動に私の興味は移っていったのである。
中でも大瀧詠一は一番のお気に入りであった。
おもしろいのである。
「ナイアガラ・ムーン」のシャレのセンスはものすごく好きだった。
「楽しい夜更かし」「しゃっくりママさん」「論寒牛男(ロンサムカウボーイ)」・・・みんなよかった。
麻雀しながら「イーチャン、リャンチャン、や~め~られない止まらな~い」などと歌ったもんだ。
ナイアガラ・ムーンのあとに続く、「Niagara Triangle Vol.1」もすごくよかった。
この頃の山下達郎はまだ売れて無かった頃だが、このアルバムでは
大瀧詠一はプロデューサーとしての能力を遺憾なく発揮している感じであった。
もちろん、このアルバムでのワシのベストは布谷文夫が歌う「ナイアガラ音頭」である。
1977年の暮れに発表された「カレンダー」は大瀧詠一渾身の1枚であったらしい。
ワシは浪人中だったが、発売日に購入した。
その年の暮れは「クリスマス音頭」、キングトーンズがコーラスを固めるアカペラの「お正月」のあたりを唄って過ごしたことを明瞭に記憶している。
しかし、その渾身の1枚は全く商業的成功を収めなかった。
そして、やけくそで出したアルバムが「Let's Ondo Again」であった。
これはもう、本当にすごいアルバムである。絶対に売れる要素がない感じがした。
wikipediaの曲目リストを見てもらいたい。何じゃこれ、という感じを持たれるのではないか。
これはワタクシ的には受けた。大好きなレコードであった。破滅的であるが。
一番好きだったのは「河原の石川五右衛門」である。
しかし、レコード発売当初は、曲は収録されておらず、歌詞カードに「詩のみ」と書いてあった。
まったく、「何じゃそりゃ」って感じである。
しかしこれは、文句なくおもしろい。
その後、大瀧詠一は、「ロンバケ」でミリオンセールスを記録するヒットを飛ばし、やっと一般の人に知られる存在となった。その少し前に、「Ride on Time」で一般の人に知られることになった山下達郎と併せ、自分の趣味がみんなに認められる喜びと、みんなにとられてしまう寂しさを同時に味わった気がする。
「ロンバケ」以降は、松田聖子や小林旭、森進一などに楽曲を提供したり、プロデュースしたり表舞台での活躍があったことはみなさんの知るとおりである。
松田聖子の「風立ちぬ」は、大瀧詠一と鈴木茂がプロデュースを担当し、作詞は全て松本隆。
素晴らしいアルバムだった。私が初めて「自ら進んで聞いたアイドル歌手のレコード」だった。
同時期に細野晴臣の曲もヒットしていて、ベスト10の中に「はっぴいえんど」メンバーの関わった曲が何曲も入っていたことがあった。
あの頃は、とっても嬉しかった。
大瀧詠一はワシにとって、決して忘れられない存在である。
明日から、昔のLPを引っ張り出して聞いてみようかな。
ご冥福を祈ります。
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