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2025年3月6日木曜日

名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN を観てきた

2025年2月28日、公開日にこの映画を観てきた。

   

初めてボブ・ディランのレコードを聴いたのは1973年、中学3年生のことである。通っていた総武線本八幡駅近くの進学塾の外に泥だらけで落ちていたシングル盤を拾った。片面が”From a Buick 6”であったことはよく覚えているが、もう片面は”Like a Rolling Stone”ではなかったような気がする。盤面をきれいにして針を落としてみると、ギンギンのロックの音がしてひどく驚いた。何しろ「風に吹かれて」を歌う、「反戦フォーク」の人だと思っていたから。

その後しばらくして、ボブ・ディランのレコードを買った。
好きだった岡林信康が激しく影響された人だったのでぜひ聞きたかった。

信じがたいかもしれないが、その頃、どこのレコード店にもボブ・ディランのアルバムは置いていなかった。中学生なので川を渡って都内のレコード店まで見に行くことはなかったが、おそらく当時は通常のアルバムをプレスしていなかったのだと思う。そのため、最初に買ったのはCBSソニーGOLD DISKシリーズの17cmLPだった。17cmLPというのは、シングル盤サイズの17cmなのに1/33rpmで演奏し、だいたい4曲収められているものである。形状は「ドーナツ盤」と呼ばれるシングル盤が中心に大きなが空いているのとは異なり、30cmLPと同様の小さな穴しか空いておらず、そこで識別可能だ。おそらく今は製造していないだろう。

その レコードには「風に吹かれて」と「くよくよするなよ」、そしてこの映画のタイトルの元となった「Like a Rolling Stone」、あと1曲は何だったか忘れてしまった。何というかすごいベスト盤である。なぜか今、手もとにはない。いつの間にかシングル盤の類いはどこかに行って見つからなくなってしまった。GOLD DISKにはもちろん普通の30cmLPもあったが、小遣いの少ない中学生は買うことができなかった。 

その年の暮れ、突如としてボブ・ディランのアルバムが全部レコード店に並ぶようになった。そのきっかけはサム・ペキンパー監督の映画「ビリー・ザ・キッド」である。この映画の音楽をボブ・ディランが担当したのだ。年が明けて、私は親戚からいただいたお年玉で、ボブ・ディランのLP3枚組のボックスセットを買った。

 高校時代も毎日のように聞いた。岡林とボブ・ディランは高校卒業までほとんど毎日欠かさなかったと思う。 ディランはワシの青春であった。それは間違いない。そんなファンのワシにとって、「名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN」の話の筋はあまりにもよく知ったことだった。ファンであれば誰でも知っている話である。マーティン・スコセッシの ”No Direction Home”の筋とも丸かぶりである。この映画のDVDはもっていて、繰り返し観たので、「名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN」に入り込めるのか、多少の懸念があった。

しかし、それは杞憂だった。

とっても面白い映画だった

”No Direction Home”は既存のフィルムとインタヴューで構成された、ノンフィクションであったのに対し、”A Complete Unknown”のほうは俳優が演じる伝記映画である。

ティモシー・シャラメは身なりもしゃべり方もディランにそっくりだった。歌声はディランよりも少々太く、ざらつきは少なかったが、映画が進むにつれ気にならなくなった。何より、ギターとハーモニカがレコードそっくり。相当な練習を積み重ねたのだろう。日本ではあまり知られていないだろう「ウディ・ガスリーに捧げる歌」のギターはお見事である。カントリーやブルーグラスをやっていればあまり苦労しないかもしれないが、このベースランは簡単ではない。この映画のために5年間もギターや歌を練習してきたというのだから大変な努力をしたのだろう。


モニカ・バルバロの演じたジョーン・バエズも素晴らしかった。あの伸びのある美しい声は本人のものといわれてもわからないのではないだろうか。モニカ・バルバロはギターも弾けなかったし歌も歌えなかったと言っているから、これも努力のたまものだろう。

本作ではシルヴィという名前になっているが、実際に恋人だったスーズ・ロトロを、エル・ファニングが演じている。本人とは顔立ちが違う気がするが、大変重要な役どころを素晴らしい演技でこなしていたと思う。なぜスーズ・ロトロではなくシルヴィだったのか?業界人でなかったからなのか?そこはよくわからなかった。
ボブと歩くスーズ・ロトロ


ピート・シーガーもこの話のキーになる人である。ピートを演じたエドワード・ノートンは長身痩躯でピートにそっくり。バンジョーをちゃんと弾いているのかはよくわからなかったけど、歌は素晴らしかった。

とにかく登場人物に対するこだわりは半端ではなく、みんなそっくりだった。
ニューポート・フォーク・フェスティバルで司会をするピーター・ヤーローも、Like a Rolling Stoneの録音に参加するギターのマイク・ブルームフィールドも、本業のギターを弾かせてもらえずオルガンにとりついたアル・クーパーもそっくり。ニューポートでちらっと出てくるマリア・マルダーの身なりもよくコピーされていた。マネージャーのアルバート・グロスマンはちょっと太りすぎのような気がしたけど。

モノに対するこだわりもすごい


ディランが一番はじめに弾いていたギブソン(J-50らしい)、ニューポートで弾いていたギブソン(ニック・ルーカス・スペシャルというらしい)も”No Direction Home”で観たのと同じだった。
ディランだけでなく他のみんなが使っているカポも見ていたが、よくはわからなかった。でも、多分ハミルトンカポであろう。最近はほぼ見ることはないが、昔はみんなアレを使っており、私も中学生の頃はパチもんを使っていた。一人だけ今も使い続けている先輩を知っている。

乗っていた赤いトライアンフのバイクも探したんだろう。同じものだった(と思う)。ディランは66年、これで事故を起こし、その後長い間ライブ活動から遠ざかる。

ジョーン・バエズのギターはマーチンO-45だった。
1960年頃どれくらい高価だったのかはよくわからないが、マーチンのスタイル45というのは最高級である。やはり裕福だったのだろうか?お父さんは高名な物理学者だったようだし。それに、ボブと出会ったときはすでに有名歌手だったし。
一度だけ、上野の居酒屋の旦那がもっている古いO-45を弾かせてもらったことがあるが、すごい音がした。サイド・バックは「マホガニーじゃないの?」と思うほど柾目のハカランダ。滅多にお目にかかれないものだった。

ピート・シーガーはヴェガ製のロングネック・バンジョーを持って出ていた。普通のバンジョーより3フレット分長く、5弦は8フレットのところから出ている。ワシはバンジョー弾きの人と音楽をやるようになって40年以上経つが、実際にロングネック・バンジョーを見たことはない。

楽器やバイクだけではなく、その当時の服装や町並み、家具、調度品など細部にわたって非常に強いこだわりを持って作られていると思った。

この映画は青春映画


”No Direction Home”ともっとも異なるのは、登場人物の感情の機微を細やかに描いていることであろう。”No Direction Home”ではインタヴューや映像を通して感情の動きを想像するしかなかったが、本作品ではボブやジョーン・バエズ、スーズ・ロトロ、そしてピート・シーガーの表情からより直接的に感情が伝わってくる。

過去に読んだり見たりしたものでは、ディランの登場時点ではスーズ・ロトロが恋人だったのに、そのあとはどう見てもジョーン・バエズが恋人に見える。「スーズ・ロトロとはどの時点で別れてしまったのだろう」という疑問がずっとあった。
この映画ではジョーン・バエズとスーズ・ロトロとの三角関係がよく描かれており、なるほど、こういうことだったのか、と、よくわかる。これは今まで描かれなかったことだろう。

ちょいとネタバレになるが・・・
ディランとバエズの気持ちがだんだんすれ違ってきて、2人のコンサートで、ディランがバエズから提案された曲を「今、これを歌いたくない」と拒否し、バエズが一人で歌う場面が描かれる。

その後、ディランはスーズ・ロトロを誘ってバイクでニューポート・フォーク・フェスティバルに行く。
フェスティバルのステージにディランとバエズが上がる。
 バエズ:「適切な歌をうたうわ」 とギターを弾き始める
 ディラン:「なるほど、適切だ」
”It ain't me, babe”を二人が歌う。
「君が探してるのはオレじゃないよ」という歌を、息ぴったりに歌う。

袖で見ているスーズ・ロトロの目には、みるみる涙があふれ・・・
一人で家に帰ってしまう。

いや、なんと切ないシーンだろう。


伝説の1965年ニューポート

スーズ・ロトロが帰ってしまったあと、いよいよ伝説のあのステージが始まる。
ピート・シーガーたちフェスの主催者がバンドでステージに上がることをどうやって阻止しようかと話し合い、ピートが説得に行く。
一方で、ジョニー・キャッシュは「オレは聞きたい」とけしかける。

ボブは黒い革ジャケットにサングラス、ストラトキャスターをさげて現れる。
観客はみんなブーイング、ステージにものが投げられる。

このステージについては昔からあちこちで語られてきたし、”No Direction Home"や”The Other Side of the Mirror”では映像も見ることができた。しかしこれらではブーイングだか歓声だか判別が付かないし、ものが投げられているのもよく見えない。
しかし、本作では(当たり前だけど)どちらもはっきりわかる。

激しいブーイングの中 始まる”Tombstone Blues”。
ものが投げ入れられる。
我慢できなくなったピート・シーガーが斧でPAのケーブルを切ろうとし、妻のトシ(日本人)に止められる。

3曲でステージを降りたボブ。
ステージでは司会のピーター・ヤーローが「ボブ、頼むよ、もう一曲」といい、ボブはアコースティック・ギターに持ち替えてステージに出て行く。
そして最後の歌”It's all over now, baby blue”を歌う。

ボブ・ディランはいい人ではない

Newsweekの記事は笑ってしまった。「ボブ・ディランは不潔で嫌な奴、シャラメの演技は笑いもの...『名もなき者』でファンを辞めたくなる人続出?」というタイトルだ。
「好感度の低すぎるフォークシンガーの肖像に主演ティモシー・シャラメのファンはドン引き間違いなし」とも書いてある。

そう、いい人とはいえない。身近にいたら友達にはならないかもしれない。

ボブ・ディランを毎日聞いていた高校生の頃、動くディランは見ることができなかったし、しゃべるのを聞くこともなかった。レコードで歌を聴く以外には、雑誌の記事を読むくらいのことしかできなかった。

1978年の初来日の頃だったか、映画”Dont Look Back”がTVで放映された。動くディランを見るのに感激したが、記者の質問に答える姿を見て「えっ、こんな感じなの?」と思った。

”No Direction Home"ではいろんな姿を見ることができるし、証言も聞ける。
ニューヨークに出てきたばかりの頃、フォークウェイズに売り込みに来たディランについて「ボブは嘘つき」という証言や、友人の家から勝手に何十枚ものレコードを持ち出した事件についての証言があった。
レコード持ち出しについて聞かれたディランは、「芸術家には必要なことだったんだ」と、さらっと言ってのける。
「いや、あんた、それ犯罪でしょ」と普通なら思うよな。
ジョーン・バエズからも「ボブを理解するのは本当に大変」というエピソードがたくさん出てくる。

まあ、いい人ではないけど、それを補ってあまりあるほど才能と魅力に満ちあふれているということでしょう。

ディランをよく知らない人に勧められるか?

どうだろう?基本的なストーリーをなんとなく押さえておけば、楽しめるのではないだろうか。前述したように青春映画だし。
ロケットニュースの記事が参考になるかも。

同級生のみなさん、シニア料金で見られるんだから見て損はしないよ!







2015年1月1日木曜日

風街ろまん

12月30日 NHK BSではっぴいえんどの番組をやっていた。
大瀧詠一が亡くなってちょうど1年である。

番組では、彼らのセカンドアルバム「風街ろまん」に焦点を当てて紹介していた。
佐野史郎と高田漣、それから星野源が解説役をしていたが、高田漣も星野源もはっぴいえんどが活動していた頃にはまだこの世に誕生していない。



このアルバムが「名盤」になったのは、松本隆が作詞家で売れっ子になり、細野晴臣がYMOで有名になり、大瀧詠一がロングバケイションでミリオンを記録し、その後はっぴいえんどが見直された結果なのだ。

佐野史郎も全く同じことを言っていたが、「はっぴいえんど」と言ってもクラスの誰も知らない頃、この音楽が理解できたのは誇りであった。私の同級生では当時(解散直後)2,3名しか知らなかった。

高校生から浪人時代にかけて、はっぴいえんど系の音楽をたくさん聴いたけれど、ワシがちゃんと歌えるのは細野晴臣の歌だけだった。音域がぴったりなのである。大瀧詠一にしても鈴木茂にしても高すぎて歌えない。
「三時の子守歌」はギターを弾きながらよく歌ったものだ。これは「トロピカル・ダンディ」に入っていた。


だいたいロックの歌手はみんな声が高い。
高い声でシャウトすると、周りの楽器に埋もれないんだそうである。
だから音域の低いワシには歌えない。歌いたかったのだが。イヤ、今でも歌えたら歌いたいのである。
ワシはブルーグラスを始めてからずっと低音部担当である。ブルーグラスでは「バリトンボーカル」と呼んでいるが、これにはそれなりに自信を持っている。
音域の低い細野晴臣も、ワシと全く同じように悩んだらしい。

その細野が、ジェームス・テイラーをきいて「これだっ」と思ったという。その話は以前ニュー・ミュージックマガジンか何かで読んだことがあった。
番組ではsweet baby jamesを流していた。この曲は、私にとってはseldom sceneの曲なんだが、そうかジェームス・テイラーの曲だったんだ。

「風をあつめて」が生まれるまでの話はとってもおもしろかった。
「手紙」という、「ゆでめん」の時にボツにした歌がもとになっているという。
「手紙」は音源を持っていて聞いたことはある。
細野さんは「何もかも嫌い」と言っていたが・・・。
松本隆によれば「風をあつめて」という言葉以外全てボツにしたのだそうだ。

あの頃、あれだけ聞いたのに、今まで細野さんのボーカルが「ダブルトラック」だとは意識していなかった。
ユニゾンで2トラックに録音する、ビートルズがやっていた手法である。
一部分ハモっているところもあるのだが。


「風街」というのは、すでに失われてしまった東京の風景、当時の少年たちの記憶の中にだけある町なんだそうだ。
松本隆は港区青山、細野晴臣は港区白金の出身だ。

ワシは住んでたわけではないが、母の出身地だったので、青山には子供の頃によく行った。
小学校高学年になるとひとりで「国電」に乗り、信濃町で降り、10番の都電に乗って祖母の家まででかけた。
ひとりで泊まりに行ったこともあった。
従兄弟たちと神宮球場(第2球場)にもぐり込んで(子供は柵の下からもぐれたのだ)、ただで高校野球を見たり・・・

毎年、青山の家には正月2日に集まって新年会をしていた。
「みちおじちゃん」がダジャレを連発していたあの新年会だ。
お年玉をもらうとすぐに青山通り沿いのおもちゃ屋にみんなで行くのだった。
ピーコックの反対側あたりだったような気がする。

そんなわけでワシは、まだ「おしゃれな町」と呼ばれる前、ベルコモンズもできていない、「キラー通り」という名前もまだない青山の風景をそれなりに濃厚に記憶しているのだ。
だから、何となく「風街」の風景が浮かぶ。
しかし、ベルコモンズが閉店したというのは年齢を感じざるを得ない・・・


「風街ろまん」の中ジャケは都電の風景だ。
松本隆たっての希望でイラストレーターに書いてもらったそうだ。
ワシも都電の走る風景を結構鮮明に記憶している。
信濃町から青山に行くのもそうだが、青山から御茶ノ水に出たこともあった。あれはどう通っていったのかな。赤坂見附から三宅坂に出て靖国神社に出ていたんだろうか?きっとそうだ。
だとすれば、細野さんが言ってた赤坂見附の都電の風景も見ていたんだろうな。覚えてないけど。
赤坂見附は谷の底なので、長いレンズでねらうと絵になりそうだ。きっとそんな風景なんだろう。

鈴木茂の「花いちもんめ」で
「右手の煙突は黄色い煙を吐き、左手の煙突は赤い煙を吐く」と歌っているのは
「細野さんと大瀧さんが仲悪くなっちゃって困っている松本隆」なんだそうな。
知らなかったなあ。

「風街ろまん」を録音中、大瀧詠一は「大手レコード会社からソロデビューが決まった」と言っていたが、キングレコード(ベルウッド)の「大瀧詠一」のことだね。これは持っていない。

昨年は「大瀧詠一を勝手に偲ぶ会」をやったが、今年はひとりで「はっぴいえんど」を聞くとするか。

「はっぴいえんど」好きにはたまらない番組であった。ありがとうNHK。




Full House

久しぶりに家族が揃ったので食事をしに行くことになった。
娘の内定祝いということもある。
しかし、まあ、店が決まらないこと、決まらないこと。ああでもない、こうでもない。。。
ホテルのブッフェはどこも満員だ。世の中やっぱり景気がいいのか。
結局、そう遠くに出かけることもなく、OREAJIに行くことになった。
ランチはとっても美味しかったが、運転手の私はワインもビールも飲めなかったのが残念だ。キリンフリーで我慢した。

店に入った時から音楽が気になった。
ジャズ、それも昔しょっちゅう聞いてたレコード。なんだっけ、これ?
思い出すのに2、3分。
ああ、wes montgomeryじゃないの。フルハウスだ。
というわけで久しぶりにすごく聞きたくなった。



昔聞いていたテープがあるはずと、家に帰ってから探したんだけど見あたらない。
テープは一部を残してあらかた捨てた。デジタル化出来るものはしたはずだけど、これはしていない。
おかしいなあ、おかしいなあと思うことしばし、CDの棚を見ると、あるじゃないのfull houseが。
買ったことをすっかり忘れている。
昔聞いていたテープがどんなケースに入れてあったかも覚えているというのに。

ケースは「FMレコパル」を買うと中に付いていたカセットケースのラベルに、インスタントレタリングで「FULL HOUSE」と書いたヤツだ。インスタントレタリングなんて、もう、死語かも知れないけど、あの頃はカセットのケースにシコシコ転写していたものだ。そういえば、大学院生になった頃TeX(LaTeX)を入手した目的は、数式をきれいに書いてゼミのレジュメを作ることと、最終的には修士論文を書くことだったけれど、カセットのラベルもせっせと作ったものである。

昔のことはよく覚えていて、最近のことはすぐ忘れてしまう。ワシも立派に老人力がついてきたということか。
先日も、わずか2週間前にマクドナルドのカードを使ったことを完全に忘れてしまい、かみさんに呆れられたところだ。

このレコードは、大学生の頃、マンドリンの天才、藤原君に貸してもらい、録音したものだ。ほかにもWesのレコードを貸してもらった。彼は今、どこで何をしているのだろうか。やっぱり北海道にいるんだろうな。


ま、ともかく、Wes Montgomeryとビル・エヴァンスをPCに取り込んでiPhoneに転送。
大晦日の昼過ぎ、実家に行く車の中でフルハウスを堪能した。
やっぱり、すごい。


2014年8月24日日曜日

BAND WAGON!

カミさんと、鈴木茂のバンドワゴンDVD発売記念ライブに行ってきた。

鈴木茂を見るのは1月の高田漣ライブ以来だが、単独のライブは初めてだ。
渋谷に行ったのは何年ぶりだろう。近くを通ることはあっても降りたのは久しぶりだ。前に渋谷の駅前に立ったのは軽く10年以上前の話である。

ヒカリエに行ってぶらっとし、メシを食った。
カミさんはいい店が一杯入っていると喜んでおった。



ヒカリエは不思議な格好をしておる

マウント・レーニア・ホールはいつできたのか知らないが、小さいが、ゆったり座れるいいホールだった。ワシらの席は、一番後ろのミキサー卓のすぐ前であったが、ミュージシャンの顔もちゃんと見え、席を取ったときの心配は杞憂であった。

ライブの曲目は、ほぼ全曲知っていた。
というか、ほとんどの曲がバンド・ワゴンの曲目だった。
あのレコードは本当に名盤である。
全曲やったかどうかチェックはしていないが、たぶんやったのではないだろうか。
そのほかには、ラグーンから「レディ・ピンクパンサー」とか、はっぴいえんど時代の曲も何曲かやった。

サウンドは基本的に昔と変わっていない。
柔らかい物腰とちがい、鋭い音がする。
高田漣ライブの時に感じたが、高田漣の弾くギターとは「ものが違う」感じがした。
高田漣だって十分うまいのだが、鈴木茂のは「スゴイ」のだ。

曲の間のMCは、当然鈴木茂がやるのだが、しゃべり馴れていないのか、無言で無音の時間があった。ロックコンサートというものに行って、曲の間に外の音が聞こえてきたのは初めてである。
また、あんなに腰の低いロック・ミュージシャンも見たことがない。もの凄く腰が低かった。

鈴木茂のギター。左がスライド用のストラトだ。

周りのミュージシャンはベースの田中章弘しか知らなかった。
田中章弘は、「鈴木茂とハックルバック」でベースを弾いていた。当時、チョッパー・ベースの第一人者だった。ティンパンアレイのアルバムで「チョッパーズ・ブギ」を弾いていたのも、* 山下達郎のアルバムで「ソリッド・スライダー」や「ボンバー」を弾いていたのはこの人である。

最近はチョッパーとは言わず、スラップ・ベースというようだが、これだとウッドベースのスラップと区別が付かない。ちなみにワシは、ウッドベースのスラップは結構うまかったが、エレキベースのスラップはほとんどできない。

* 「チョッパーズ・ブギ」を弾いていたのは後藤次利の間違いでした。

ドラムを叩いていたのは「坂田学」という人だった。全く知らなかったが、坂田明の息子だそうである。小さい人だったがとてもパワフルなドラムだった。

これからはBand Wagonの曲だけでなく、今までやらなかった曲もやっていきたいと言っていた。次の機会があればまた出かけたいと思うが、その前にラグーンとコスモス51を探しておかないと。




2014年8月3日日曜日

New Sold out

先月のSmokey 16代目の練習の時、バンジョーのフクハラの持ってきたウォークマンに"New Sold out”のライブ音源が入っていた。早速ウォークマンごと貸してもらいコピーした。

"New Sold out”は、ワシが社会人になって初めてやったバンドである。

1983年のことである。このときのボーカルはフタムラさん。
女性ボーカルは初めてで、男性ボーカルとはキーが違い、フレーズの組み立てで、みんな結構苦しんでいた記憶がある。

ワシの記憶の中では、「キマらないバンド」という感じが濃く、ちょっと苦みのある思い出のバンドだった。

しかし、今回演奏を聴き直してみると、結構キチンとやっている。
みんな基本はできた人たちなんだから当たり前なのかも知れない。
記憶の中の「キマらない」は、実力に比べて難しいことをやり過ぎたせいなんだと思う。

コピーを脱し、自分たちの好きなロックの曲をブルーグラスアレンジでやっていた。
しかし、ブルーグラスと違うコード進行、あまり演奏したことのないキーなどに苦労した。
ちょっと実力が足りなかったのだろう。

しかし、練習はよくやった。
毎週日曜日、平河町のビルの一室に集まり昼から夕方まで練習していた。
メンバーのおじさんがやっていた会社を日曜日に借りていたのだ。
何をやっていた会社かは知らないが、「玉峰」という会社だった。
よく貸してくれたものだ。のどかな時代だった。

ライブは銀座ロッキートップのものらしい。
神保町のBluegrass innにも出たことを覚えている。
箱根フェスには、ワシがワンボックスのレンタカーを借りてみんなで行った。

しかし1枚の写真も残っていないのは残念である。


下に1曲だけ曲を載せておく。
フクハラのオリジナル曲「よたろう」である。
これならば著作権問題は生じないであろう。

けっこういいんじゃない?

ああ、なつかしい。

2014年6月17日火曜日

Casey Kasem と Bob Kingsley

今日仕事から帰ってきたら、姉からメールがあり叔父さんが亡くなったとのこと。
先々週も叔母が亡くなっており、ここのところ次々に親戚がこの世を去っている。

叔父、叔母ということは父や母よりも年下である。
ウチの父母は弟や弟の連れ合いを見送ることになり、複雑な心境であろう。
父は「なんだか、人生短いなあ」と言っていた。
しかし、あんた、90歳過ぎてるよ。世間からすれば十分長生きだよ、と突っ込みを入れたくなった。

実は、昨日、NHKニュースを見ていたら「有名ディスク・ジョッキーのケイシー・ケイサムさんが亡くなられました」と言っていた。
もう何十年も思い出していなかったけれど、名前とともに記憶がよみがえってきた。

私の世代ではケイシー・ケイサムで洋楽を覚えた人は結構いたのかも知れない。

就職をした頃、土曜日はまだ半ドンだった。
正確に言えば、4週5休で、4週間に1日だけ土曜日は休み、あとの3回は半ドンだった。

その頃、ワシは農業改良普及員をしており、土曜日の午前中に巡回をするのが、結構好きだった。

土曜日は公用車も空いていて、好きな車を押さえられたし、何となく気楽な巡回ができるような気がするのだった。

ひとりで出張するときは、カーラジオはいつもFENにしていて、土曜の午前中はボブ・キングスリーの「アメリカン・カントリー・カウントダウン」を聞きながら酪農家を廻ったものだった。



アメリカン・カントリー・カウントダウンでブルーグラスがかかることは滅多になかったけれど、運転しながらカントリーを流しているのは気持ちがよかった。

そして、昼食後、事務所でしばらくのんびりした後、自分の車に乗り込み「アメリカン・トップ40」を聞きながら帰宅する、そんな光景を昨日は久しぶりに、唐突に思い出した。



ワシはこの番組で「Wham!」とか「Phil Collins」などを覚えたものである。

なんだか懐かしく、とっても時間が経ってしまったのが寂しい。

とにかくご冥福を祈ります。

叔父さんについては、いずれ、また書きたい。

2014年6月7日土曜日

「風立ちぬ」といずみちゃん

先日、NHKの「songs」で松田聖子がヒット曲を一気に30分歌うというのをやっていた。
本人も「こんなに長いメドレーは初めてです」といっていたのだが、途中で衣装は替わるし、髪型は変わるし・・・なんだ、収録つなげただけじゃん・・・と突っ込みも入れたくなった。

ま、それはともかく、懐かしい曲が多かった。さすが松田聖子、うまい。
しかし、若い頃の、ストレートで圧倒的な声量の歌声ではない。
昔よりテクニックはあるのかも知れない。でも、タイミングを崩しすぎて「演歌臭く」なっているではないか。昔の歌声が聞きたくなった。

その晩、ビールを飲みながらamazonを見ていたら、「風立ちぬ」をバスケットに入れていた。



久しぶりに聞いた「風立ちぬ」は素晴らしかった。
フルアルバムで聞くのは、まさに数十年ぶりのことである。
大瀧詠一プロデュースのA面は、シンセの音が古くさいだけで、あとは全然古びていない。
B面は財津和夫作曲の「白いパラソル」以外は全部、鈴木茂が編曲。
作詞は全曲、松本隆であり、細野晴臣以外の「はっぴいえんど」が勢揃いである。豪華!
昔聞いていた頃は何とも思っていなかったが、B面のベースはどれも素晴らしい。ベーシストは美久月千晴という人らしい。ワシと同い年。当時は22、3のアンチャンだ。

とにかく素晴らしいアルバムである。

このアルバムは、ワシが初めて能動的に聞いたアイドル歌手のレコードであることは以前に触れたことがある。

70年代、少年だったワシは、商業主義的な「歌謡曲」は聞かなかった。
あの頃、歌謡曲とフォークやロックにはかなりの距離があった。

若い人には解らないだろう。解説が必要だ。

1960年代までは、歌手はレコード会社の専属契約であった。
歌手はレコード会社の決めた先生の歌を、レコード会社の決めたとおりに歌わなければならなかった。

この関係をぶちこわしたのは「フォーク」であった。
フォークシンガーは、自分で歌詞を書き、曲を付け、歌を歌った。

大手レコード会社が配給しない(できない)歌を発売したのはURCレコードだった。
URCは「アングラ・レコード・クラブ」の略であり、元々は岡林信康の「くそくらえ節」を世に出すために生まれた会社なのであった。

「くそくらえ節」には、単に社会批判が含まれるだけではなく、明らかに天皇を小馬鹿にした1節があった。そこが「レコ倫」に引っかかり発売できなかった。




そんな感じであるから、70年代までは、フォークやロックの歌手はテレビにもあまり露出しないし、われわれファンは歌謡曲をバカにしていた。

だから歌謡曲、アイドル歌手に熱狂することはなかった。

そのワシの態度を変えたのがこの「風立ちぬ」であったのだ。


いずみちゃんは教え子である。
というと偉そうだが、何のスキルもない私を家庭教師に雇ってくれた家の子供だった。

いずみちゃんのお母さんは、地元の駅のそばで皮膚科の開業医をしており、お父さんは音楽評論家であった。たまに「暮らしの手帖」の音楽評論で名前を目にすることがあった。

そのお父さんのお陰で、発売前にアルバムを入手することができたようだ。

そんなわけで、ワシも「風立ちぬ」を早めに貸してもらい、録音したのだった。

勉強中のいずみちゃん

まだ浦安にディズニーランドができる前、彼女は、
本場アメリカのディズニーランドへ行ってきたのだった。
写真は何の許可も取っていないが、30年以上前の肖像だ。許してつかあさい。

いずみちゃんとはいろんな話をした。
今風に言うと「恋バナ」もした。

勉強の面倒は見たけれど、ワシにものを教えるスキルはまるでなかった。
今であれば、恥ずかしくて「家庭教師できます」とは言えない。
あれで俸給を得ていたのは罪悪と考える。今では。
とっても申し訳ないような気がする。

あれから30年以上が経った。
大学を卒業した年の夏、彼女を科学技術館で行われる三峰のバーゲンに連れて行ったことがあった。そこで日本製靴(REGAL)の靴を売っていたマスブチに会ったのが、マスブチにあった最後の時でもあった。

オイラは彼女に何かあげられたことがあったのだろうか?
感想を聞いてみたいものである。
今、どうしているのであろうか。普通にお母さんになったのだろうか。
できれば一度お会いしてお話ししてみたいものだ。

2014年2月19日水曜日

Bob Dylan と弁当箱

ボブ・ディランが来るのだという。

東京公演は3月31日から4月8日までだそうだ。今年は異動が確定なので行けるわけはない。
異動先はまだ不明。とっても不安な今日この頃なのである。

ディランの初来日は1978年の2月だった。
ワシは2月23日の木曜日にひとりで武道館へ行った・・・ようだ。
日付なんぞ覚えとるわけはない。先ほどチケットを掘り出したからわかったのだ。

下のチケットが初来日公演のもの。ニッポン放送のプレイガイドで買ったようだ。
昔のチケットには味わいがあったなあ。

だけど、その日がM大学の入学試験であったことは忘れない。

その頃のワシは、ほぼ毎日大瀧詠一または山下達郎またははっぴいえんどまたはボブ・ディランまたは・・・を聞いていた。まあ、とにかくディランの大ファンであったのだ。

だから来日公演を逃すわけには行かなかった。しかし、入学試験真っ最中である。浪人の私は落ちるわけにはいかない。結構追い込まれた精神状況にあった。

何日間かあった公演のうち、その日を選んだのはM大学の入学試験があり、武道館に近いという、そんな理由であったと思う。

その日の試験のことは、とくによく覚えてはいない。
ただ、できなかったという感覚は全くなかった。あえて言えば、その大学にだけあった古文が苦手であったということぐらいであろうか。
英語などは簡単であったため、余裕をかまして、30分ぐらい残して出てきてしまったぐらいである。

従って、結果は意外なものであった。
それまでの模擬試験などの結果から、落ちるはずはないと思っていた。

ボブ・ディランのことが頭から離れなかったのは間違いない。
だから英語の試験で余裕をかますようなこともしたのだと思う。
それがいけなかったのか???

武道館の入り口で荷物チェックを受けた。録音器材、カメラのチェックである。
「これは何ですか?」と四角い箱について尋ねられた。
「あ、弁当箱です」と答えた。
何となく、恥ずかしかった。

コンサートでは、ディランが歌うと、ワシも自然に歌が口をついて出てきてしまうような感じで、歌いっぱなしだった。
隣に座っていたおねえさんが、チラチラと白い目でこちらを見ていたが、かまうもんか。

しかし、同時に何かしらけるような気持ちも湧いてきた。
あのディランが白いフリフリのブラウスを着て、女性コーラスをバックに歌っている。
何か違う。「ぼくのディラン」はあんなんじゃない。


その頃からだんだんディランを聞かなくなっていった。
そのあと発表された、Slow Train ComingやSavedなど何枚かアルバムも聴いたが、入れ込むことはできなかった。

あの公演がターニングポイントになってしまったのは間違いがない。

その後、1986年の公演にも聞きに行った。結婚直前のカミさんと、中学時代の友人と一緒に。
バックバンドとして連れてきたトム・ペティ・アンド・ハートブレイカーズはとてもよかった。


今でもディランはたまに聞いている。
しかし、1970年代中頃までのものだけだ。それ以後のものはやっぱりあまり聞く気にはならない。
たまにスコセッシの撮ったNo Direction Homeも見る。あんなにおもしろい映画はない。
上の動画はNo Direction Homeにも入っている64年のニューポート・フォークフェスティバルのものだ。司会は先日亡くなったピート・シーガー。
ピート・シーガーが自分の後継者と目したディランは、この頃から「トピカル・ソング」を歌わなくなり、だんだんと離れていく。
ミスター・タンブリンマンという不思議な歌を横で聴いているピート・シーガーは、何とも言えない様子である。

この頃のディランはとってもおもしろかった。
大人になりきってしまったディランはおもしろくない、ということなのだろうか。


2014年1月21日火曜日

高田漣ライブに行ってきた

先週の土曜日、カミさんと高田漣のライブに行ってきた。
六本木に新しくできた「EX シアター」というところだ。
ざっと数えたところ600席ぐらいのホールで、今風なのか、階段状の席は移動できるような感じであった。おそらく平面にも使えるのだろう。

高田漣は、ビールのコマーシャルにも出ていたので、見たことのある人は多いはずだ。
しかし、高田漣のソロ活動を見たことも聞いたこともなかった。
唯一、父親の高田渡と行ったライブのCD 27/03/03 を聞いただけである。
これは非常にいいアルバムである。



カミさんがライブの情報を見つけたとき、「行こう」と言ったのは、高田漣がいろいろな人のサポートをしている売れっ子ミュージシャンであることを知っていたのと、スペシャルゲストのせいである。

ゲストは、鈴木茂、細野晴臣、そして、ムッシュかまやつという豪華な面々だ。

鈴木茂は髪が白くなってシワが多くなったが、昔と全然変わらない。
めずらしくテレキャスターを弾いていた。
名作Band Wagonから、2曲やった。「ウッド・ペッカー」と「砂の女」だ。感激!

生の細野さんを見たのはたぶん初めてだった。
ロカビリーっぽい曲を2曲ほどやった。
かっこよかった。

父君の高田渡を最初に聞いたのは、たぶん岡林信康のライブ盤だった。
URCレコードの2枚組、神田共立講堂のコンサートだ。
高田渡は岩井宏(bj)と加川良とのトリオでやっていた。
確か、「生活の柄」と「おなじみの短い手紙」を歌っていたと思う。

そのコンサートの岡林のバックバンドがはっぴいえんどで、その後、高田渡のアルバムで「しらみの旅」などの録音に参加している。

実は、今から30年以上前、高田漣を何度か目撃したことがある。
学生時代、よく吉祥寺で飲んだ。
学校は松戸だったのに、吉祥寺まで飲みに行き、三鷹にある友人の家に泊まり、翌日は井の頭公園を散歩する。そんなことをよくやっていた。

そんな時、何度か自転車を引っぱった高田渡を目撃した。
そしてその自転車には子供を乗せていた。
「ああ、あれが漣君か」そう思った。
なぜ名前を知っているか・・・「漣」という曲があったからだ。

その高田渡も今はなく、大瀧詠一も亡くなってしまった。



このスピーチバルーンでは、添田唖蝉坊の話などが興味深い。
前出の「しらみの旅」は添田唖蝉坊の詩に「ワバッシュ・キャノンボール」の曲を付けて歌ったと言っていた。そうか、そうだったんだ。ロックンロールのリズムと鈴木茂のギンギンのギターでよくわからなかったけど、旋律は確かにワバッシュ・キャノンボールだ。






ロイ・エイカフ 正調ワバッシュ・キャノンボール


肝心の高田漣の演奏は・・・よかった。
ドラムとベースのトリオであるが、力強いリズム、パーカッシヴなベースで、どうしてたった3人であんな音楽になるのだろうと感心した。やっぱりプロはすごい。

いろいろな人を見られて、いろいろ思い出させてくれたライブでした。
行ってよかった。





2014年1月18日土曜日

大瀧詠一を偲ぶ会

先日、大瀧詠一を勝手に偲ぶ会をやった。

午前11時に新宿三丁目のカラオケ店に、おいらが参加しているロックバンドAMUSEのメンバーが集合し、フリータイムが午後8時まで、飲みまくり、歌いまくったのである。

大瀧詠一を良く聞いていた70年代後半、カラオケはまだ8トラで、ほとんど演歌しかなかった。今は相当いろんな曲がある。ナイアガラ・ムーンに入っていた曲もあるし、GOGO Niagaraに入ってた曲もあった。

だが、ナイアガラ音頭はあっても、Let's Ondo Againはなかった。アンアン小唄もなかった。
いくら通信カラオケでも需要っつーものが無いんであろう。

 

山形かゑる子が歌っているオリジナルバージョンをyoutubeで発見した。


男子2人は昔からの大瀧ファンで、さんざん歌ったのだが、女子2人はほとんど曲を知らなかったようだ。彼女たちにとっての大瀧詠一は「ロンバケ」以降が全てのようであった。

ここのところ、ナイアガラ・ムーンやカレンダーなどを聞いている。
古さを感じない、素晴らしい音楽である。
大瀧詠一やその周りにいた、はっぴいえんどのメンバー、山下達郎など40年近く前のレコードを聴いても古さを感じないのはすごいことである。同時期にヒットした歌謡曲を聴いてみればその違いがわかる。ものすごく古く感じるはずだ。

「ロンバケ」もいいけど、あれは大瀧詠一の引き出しの一つに過ぎない。
偉大な人を失った。
残念、無念!

2014年1月4日土曜日

はっぴいえんどからBluegrassへ

今年は、ワシがBluegrassを始めてから35年になる。

大学に入る前は、はっぴいえんどや各メンバーのソロ作品、大瀧詠一のナイアガラ・ムーンや細野晴臣のトロピカルダンディーなどを良く聞いていた。

大瀧詠一の作品でもとくに音頭ものは好きで、良く歌っていた。
「ナイアガラ音頭」は大学に入った頃の愛唱歌だった。
「Let's Ondo Again」は、破滅的な、まさに「極致」の曲だった。
大学1年生の頃、コンパで酒が入ると良く歌ったもんだ。

と思って、大瀧作品をごそごそ調べていたらトライアングルのvol.1が見つからない。
確かレコードで持ってたはず・・・と調べてみたが、無い。
よく考えてみるといつもテープを聴いていたような・・・。あんなに死ぬほど聞いていたのに良く覚えていない。誰にレコードを借りたのか?あまりにも時間が経ってしまったためか全然覚えていない。

ということで、先ほど、母の病院へ行った帰りに30th AnniversaryのCDを買ってきた。


ボーナストラックにはシングルバージョンが入っていて、ちょっとトクした気分である。


クレージー・キャッツが好きになったのも大瀧詠一の影響である。
20代の半ば、すぐ上の姉の結婚相手(今の義兄です)がクレージー・キャッツ好きで、シングル盤をいっぱい貸してもらい、代表曲はほぼ聴いた。
今でも、カラオケに行くとクレージー・キャッツは好んで歌う。

一番すごい曲は、「ホンダラ行進曲」のような気がする。
大瀧詠一もこの曲は好きなようで、トライアングルのvol.1のラストは「ホンダラ行進曲」という構想があったようである。

3年ほど前、震災の直前、そしてN君が亡くなった直後、高校1年の時の同級生とカラオケに行った。そのときワシはやっぱりクレージー・キャッツを歌ったのだが、それを聞いた「みち」が、「何でクレージー・キャッツなの、ブルーグラスやってる人なのに・・・」と言ったのであった。

学生の頃から、「何ではっぴいえんどファンなのにブルーグラスなわけ?」とか、たびたび聞かれることがあった。どうも、人様から見るとはっぴいえんどとブルーグラスは1本につながらないようだ。
ワシもうまく説明できなかった。


はっぴいえんどの「ゆでめんアルバム」の裏ジャケットに、松本隆のクセのある字で「下記の方々の多大なるご援助に深く感謝したい」とたくさんの名前が挙げられている。

その中には、彼らが目標にしたバッファロー・スプリングフィールドのスティーブン・スティルス、ニール・ヤングやザ・バンドのリヴォン・ヘルム、リチャード・マニュエルの名が、それからジェリー・ガルシアの名前もあった

実は、このリストはバッファローのアルバム「アゲイン」のパクリである。
「アゲイン」のリストを読むと、フィル・スペクター、ロバート・ジョンソン、ストーンズ、ロバート・ツィマーマン(ボブ・ディランの本名だ)、ピート・シーガーなどの名とともに、ドク・ワトソン、フラット&スクラッグスの名が・・・。

バッファローの代表曲ブルーバード



ドク・ワトソン ブラック・マウンテン・ラグ なかなか弾けなかったなぁ、これ。



フラット・アンド・スクラッグス。存命なのはカーリー・セクラーだけになったかな。御年94歳だそうな。


ここに、はっぴいえんどとブルーグラスは1本につながったのである。

まあ、しかし、今でも人に説明するのは大変なのであるが。


2014年1月2日木曜日

Each Ohtaki死す!

大瀧詠一が死んだ。
早すぎるではないか!

ワシの最初のアイドルは岡林信康だった。
中学1年生で腎臓病を患い、運動ができなくなったため、中学2年生からギターを弾き始めた。
弾き初めて数ヶ月、同級生のウラワ君のうちで聞かせてもらった「くそくらえ節/ガイコツの唄」で、一発で好きになった。歌詞がおもしろかったからである。

その後、岡林からボブ・ディランを知り、岡林のバックバンドをしていた「はっぴいえんど」、ボブ・ディランのバックバンドをしていた「ザ・バンド」を知り・・・というように音楽の幅は徐々に広がっていった。

高校2年生の頃、1975年、ちょうどはっぴいえんどの解散直後であるが、この頃から「はっぴいえんど」とそのメンバーのソロ活動に私の興味は移っていったのである。

中でも大瀧詠一は一番のお気に入りであった。
おもしろいのである。
「ナイアガラ・ムーン」のシャレのセンスはものすごく好きだった。






「楽しい夜更かし」「しゃっくりママさん」「論寒牛男(ロンサムカウボーイ)」・・・みんなよかった。
麻雀しながら「イーチャン、リャンチャン、や~め~られない止まらな~い」などと歌ったもんだ。

ナイアガラ・ムーンのあとに続く、「Niagara Triangle Vol.1」もすごくよかった。
この頃の山下達郎はまだ売れて無かった頃だが、このアルバムでは「幸せにさよなら」(間違い。これは銀次でした)「パレード」がよかったかな。伊藤銀次は「空日照り~、メラメラ阿修羅~」と訳のわからない歌詞の「日射病」がよかった。
大瀧詠一はプロデューサーとしての能力を遺憾なく発揮している感じであった。
もちろん、このアルバムでのワシのベストは布谷文夫が歌う「ナイアガラ音頭」である。



1977年の暮れに発表された「カレンダー」は大瀧詠一渾身の1枚であったらしい。
ワシは浪人中だったが、発売日に購入した。
その年の暮れは「クリスマス音頭」、キングトーンズがコーラスを固めるアカペラの「お正月」のあたりを唄って過ごしたことを明瞭に記憶している。





しかし、その渾身の1枚は全く商業的成功を収めなかった。
そして、やけくそで出したアルバムが「Let's Ondo Again」であった。
これはもう、本当にすごいアルバムである。絶対に売れる要素がない感じがした。
wikipediaの曲目リストを見てもらいたい。何じゃこれ、という感じを持たれるのではないか。
これはワタクシ的には受けた。大好きなレコードであった。破滅的であるが。
一番好きだったのは「河原の石川五右衛門」である。
しかし、レコード発売当初は、曲は収録されておらず、歌詞カードに「詩のみ」と書いてあった。
まったく、「何じゃそりゃ」って感じである。
しかしこれは、文句なくおもしろい。





その後、大瀧詠一は、「ロンバケ」でミリオンセールスを記録するヒットを飛ばし、やっと一般の人に知られる存在となった。その少し前に、「Ride on Time」で一般の人に知られることになった山下達郎と併せ、自分の趣味がみんなに認められる喜びと、みんなにとられてしまう寂しさを同時に味わった気がする。

「ロンバケ」以降は、松田聖子や小林旭、森進一などに楽曲を提供したり、プロデュースしたり表舞台での活躍があったことはみなさんの知るとおりである。

松田聖子の「風立ちぬ」は、大瀧詠一と鈴木茂がプロデュースを担当し、作詞は全て松本隆。
素晴らしいアルバムだった。私が初めて「自ら進んで聞いたアイドル歌手のレコード」だった。

同時期に細野晴臣の曲もヒットしていて、ベスト10の中に「はっぴいえんど」メンバーの関わった曲が何曲も入っていたことがあった。
あの頃は、とっても嬉しかった。


大瀧詠一はワシにとって、決して忘れられない存在である。
明日から、昔のLPを引っ張り出して聞いてみようかな。

ご冥福を祈ります。



2013年4月29日月曜日

Crooked Still

Crooked Still というバンドがある。
ジャンルはalternative Bluegrass というジャンルになるそうである。
若手のバンドだが、楽器構成が少し変わっていて、バンジョー、ベース、フィドル、そしてチェロが入る。ギターは必ず入っているわけではない。ギターのいないブルーグラスバンドなんて普通はない。

実はつい最近まで知らなかった。ある方がfacebookで取り上げているのを見てCDを買ってみたのだ。
このCDを買ってみた。

このCDを買ってみたのは、ジャケットがいいデザインだったのと、曲の中に"oxford town"が入っていたからだ。

"oxford town"は初期のBob Dylanの曲で、高校1年生の頃よく聞いていた。「風に吹かれて」と同じ”Free Wheelin' "というアルバムに入っていた、プロテスト色の強い歌である。「風に吹かれて」はあまたのシンガーに歌われてきたし、ディランの曲はそのほかにも他のミュージシャンにカバーされている曲は多い。例えば、ミスター・タンブリンマンとか、Knockin' on Heaven's Doorとか、いろいろあるだろう。でも、オックスフォードタウンをやっている人は見たことがない。

Crooked Stillのオックスフォードタウンは疾走している。
ブルーグラスには疾走感(ドライブ感)はつきものである。
しかし、この曲のドライブ感はチェロとバンジョーによってもたらされている。
ヒジョーにおもしろい。

このほかにも、ビル・モンローのCan't you hear me callin'のようなブルーグラス・スタンダードもあれば、ロバート・ジョンソンのブルースもある。

とってもいい買い物をした。
別のCDも買ってみたい。


2013年2月18日月曜日

KALA Ubassの弦交換

ちょっと前の話だが、KALA U-bassの弦を交換した。
ワース・クリエイションのライト弦である。

弦そのものは、何のことはない駆動用のベルトである。
機械について少し知ってる人なら見たことがあるかも知れない。バンドー化学のバンコードというものらしい。

我が実家は、かつて機械工場であった。
そのためプーリーというものは日常的に見ていたし、このベルトのようなものも見た記憶がある。
このオレンジ色は絶対に、かつて見たことがあると思うのだ。

だったら長いベルトを買って自分で切ればいいじゃん、と思う。
しかし、終端の処理が難しいようだ。

前のKALAの弦は、表面にでこぼこがあったりしたが、これはまん丸のツルツル。
さすがMade in Japan という感じである。
弦の手触りはKALA弦の方がいい感じもするが。

オレンジ色の弦は目立つ。ハワイアンらしくていいと、ある先輩に言われた。

1弦、2弦は巻いても巻いても、どんどん伸びる。お陰でこんな具合に。
ある程度伸びきるまで、カットするのは危険なので、しばらくはこんな状態である。

2012年10月29日月曜日

高砂ウッドストック

”高砂音楽祭2012”に参加してきた。
Old Kentucky Bandとしては久しぶりのライブ。
しかし、昨日、休日出勤で丸一日イベントをこなしてきたあとの朝イチのバンド活動はつらい。布団から離れがたかった。

会場は、京成線の脇にある公園。アレ、一度見たことがある風景だぞ・・・と思ったら、義父が最後に入院していた病院のすぐそばだった。今年の1月だからまだ記憶が鮮明だ。

ステージに上がるとポツポツと雨が・・・。でもわれわれは良かった。ほとんど降ってなかったから。あとのバンドは大変であっただろう。






2012年9月4日火曜日

森の音楽会

高校時代のクラスメート、みちが出演するコンサートを見に行った。

平井の小松川区民館ホールだという。
シブイ。

実は、平井は昔よく来た。
浪人時代、毎日、市ヶ谷左内坂の城北予備校の授業が終わると、基本的には小岩の図書館へ行き、図書館が終わる頃まで勉強した。予備校仲間で高校の同級生の川口、武井、それから武井の友達で東大理Ⅰを受けるという毛利、それから千葉大の医学部へ行った、えー・・・あー、もう忘れた。大学ではよく顔を合わせたのに。

まあ、そんな仲間と毎日勉強していたわけだ。
ただ、小岩の図書館には、もともと席がそう多くない上に、毎日朝から司法試験を受けるおじさん達が陣取っており、学校の定期試験シーズンなど席を確保できないときもあったりした。そんな混雑シーズンには小松川図書館へよく通ったものだ。

図書館の隣には、うちのカミさんの母校でもある小松川高校があり、そこの生徒がよく勉強に来ていた。千葉大に入学すると、小松川図書館で見かけた小松川高校の卒業生が何人もおり、ずいぶんと一杯来ているのだなあと思ったものだ。

平井駅前の通り。昔はここがメインストリートだった。
平井駅前に降り立ったのは何年ぶりだろう。図書館に通っていた頃以来だろうか。
駅前はすっかり変わり、往事の面影はない。
あの頃は、ヒゲの講談師、田辺一鶴が買い物カゴを下げて駅前商店街を歩いているのを何度も目撃した。まだご健在なのであろうか?

平井駅前の通りを南下すると、何百メートルも行かないうちに車の通れない道になる。昔のメインストリートは歩行者専用となり、自動車の通れる道路とは微妙な角度で交差する。

従来のメインストリートはここを直進(自動車は通れない)
昔のメインストリートをしばらくまっすぐ進み、現在のメインストリートととの交差点を渡り、さらに進むと区民館はあった。

光り輝く区民館。以前使っていたエクシリムケータイで撮った。輝度差の大きなところは苦手である。
カメラは息子に貸し出し中であり、htc Ariaの写真はあまりにも酷いので。


ここまで来て思い出した。30年と少し前、学部は一緒だが学科が違うのに何故か仲良くなった、環境緑地学科の石村君に呼ばれてここへ来たことがある。演劇部の公演をここで行っており、招待券をもらったのである。石村君は今何をしているのか?全くの音信不通である。

演劇部がやる「劇」というものを初めて見たのだが、結構おもしろかったことを覚えている。しかし、ナンの話であったかは全く覚えていない。


今日はここで「森の音楽会」というコンサートが開かれていた。
高校の同級生 みちが出演するので訪れた。
みちは高校生の頃はブラスバンドでフルートを吹いていた、確か。ギターも弾いていた。そして、ピアノもうまかった。
今日はピアノで出演だ。

プログラムの前半は子供たちの「発表会」である。
なごむ。
娘が小学生の時にやっていたバイオリンの発表会を思い出し、懐かしい感じがした。

みちはピアソラのタンゴを2曲弾いた。
ものすごく難しい曲だったが、よく弾ききったと思った。
なかなかよかった。
しかし本人は「崩壊」し、打ち上げで泣いたのだという。


ワタシはグッと来た。
ステージがうまくいったとかそういう次元ではなく、
なんというか、その、「挑戦している姿」にグッと来たのであった。

みちだけではない。
出演者みんなが挑戦している感じであった。
そこが、良かった。素晴らしかった。

翻って、自分はどうか・・・
ワシらはずっとバンドを続けていて、それはそれで「努力」はしている。
だが、「挑戦」はしていないと思う。

ワタシも頑張って挑戦してみたくなった。
誰か先生についてジャズベースでも習ってみようか・・・
そんな気になった。

2012年5月31日木曜日

Doc Watson 死す!

ドク・ワトソンが死んだ。89歳。
アール・スクラッグスが亡くなったから、次はDocだと思っていた。

私にとってもDocはブルーグラスの入り口になった人だ。
Docのギターが好きにならなければ、ブルーグラスをやるようにはならなかったであろう。
最初にコピーしたのは、誰もが弾こうとするBlack Mountain Ragだった。苦労した。
その次にやったのは、Beaumont Ragか・・・クロスピッキングができるようになるまで半年ぐらいかかったっけ・・・。その辺のことはかつて文章にしたことがある。右のリンク「駄文」の一番下にある "Me and My Guitar"がそれだ。

Docはフォーク・ミュージシャンであり、ブルーグラス・ミュージシャンとは言えないであろう。しかし、ブルーグラス・ミュージシャンにはきわめて大きな影響力を持った。あの、天才Clarence Whiteだって、Docがいなければ、もう少し違うアプローチをとったかも知れない。それぐらい大きな影響をClarence にも与えたんだと思う。

ブルーグラス第1世代の人々が次々に亡くなっていく。
あと残っているのはカーリー・セクラーぐらいか。

ご存知 Black Mountain Rag

12弦ギターによるBeaumont Rag。クロス・ピッキングをお聞きあれ!

2012年4月29日日曜日

追悼 リヴォン・ヘルム

リヴォン・ヘルムが死んだ。
初めて聞いた高校生の頃からずっと好きだった。
ザ・バンドの3人のボーカリストの中でも取り分け好きだった。
喉頭ガンを患って一度声を失った彼が、声を取り戻し作ったアルバム”Dirt Farmer”、”Electric Dirt”はとても素晴らしく、2作連続でグラミー賞を受賞した。
元気に活躍していただけにとても残念である。


メンバーの中の唯一のアメリカ人。ドラムスだけでなくマンドリンも弾き、ブルーグラス人脈にも繋がっていた。

アーカンソーの綿花栽培農家出身の彼の家では、子供の頃、よく、グランド・オール・オープリーを聞いていたそうだ。また、6歳の時、初めてみたライブはビル・モンローだったそうである。従って、彼のルーツには間違いなくカントリーやブルーグラスがあったわけだ。



この動画は、The Last Waltz での”The Night They Drove Old Dixie Down”。
ほとんどのアメリカ人の記憶から消え去っていた南北戦争を題材にした歌である。間違いなくThe Bandの代表曲のひとつであろう。


リヴォン・ヘルムの死に先だつ1ヶ月ほど前、アール・スクラッグスが死んだ。
ブルーグラスが好きな人なら誰でも知っているが、ブルーグラスの父であるビル・モンローとともにブルーグラスを作った人である。Bluegrass Boysにスクラッグスが加入した時点でブルーグラス音楽ができたといわれる事も多い。


アール・スクラッグスは現代におけるバンジョー奏法の、おそらく8割方を、たった一人で作り上げた人である。彼なくしてはブルーグラス音楽の現在はなかった。


リヴォン・ヘルムの最後のアルバムは、グランド・オール・オープリーが行われていたライマン公会堂で行われたライブのDVD。これもグラミー賞を受賞した。2011年のベスト・アメリカーナ・アルバム。素晴らしいライブだ。

1980年のアカデミー賞受賞映画「歌えロレッタ!愛のために」でも、ライマン公会堂のオープリーの映像がずいぶんと出ていた。その映画でロレッタ・リンの父親役をやっていたのはリヴォン・ヘルムその人だった。

リヴォン・ヘルムとライマン公会堂、グランド・オール・オープリー、カントリー、ブルーグラスは切っても切れないものだったようだ。





2012年3月5日月曜日

スモーキー ロッキー・トップ ライブ

2012年3月2日、スモーキーのライブ。
早いものでもう5回目だった。

みちが動画を撮ってくれた。

ベースは先日導入した Kala U-Bass。見た目はおもちゃだけど、音は立派なもの。
ベーリンガーのプリアンプBDI-21を使用している。有名な安物だが、結構使える。
今度はフィッシュマンのプリアンプでも導入しようと思っている。

Suger Coated Love




Wicked Path of Sin



Redwood Hill

2012年2月19日日曜日

ウクレレベース

KALA U-BASS

ヘッドストックには、カエルが・・・
買ってしまった。
KALAのU-Bass。


このベースを知ったのはごく最近であった。
キッカケはよく覚えてないのだが、ウッドベースらしい音がするというのをネットで見つけ、この動画を見て俄然欲しくなってしまったのだ。


先週、実家に行った帰りに、船橋の伊藤楽器に寄った。
この楽器があるとの情報を見て寄ったのだ。
しかし、店には見あたらず、店員に聞いてみると、「先ほど売れました」だって。

何でも、この楽器、相当人気があるらしく、通常1本売れると次に入るまで半年ぐらいかかると言われしょんぼり。
しかし、翌日電話がかかってきて、在庫があったので入荷したのだと。

弾いてみると、本当にウッドベースのような音がする。
ということで、買ってしまった。
本当に楽器だらけ。どうするんだ、我が家は。
オベーションのベース、売ろうかな・・・。