2011年12月31日土曜日

2011年暮れ

2011年が暮れていきます。
どこでもみんな書いてますが、2011年は忘れがたい年になりました。
私の被害はたいしたこたあありません。しかし、ありました。
瓦がズレ(自分で並べ直した)、壁にヒビが入り・・・地震保険はかけてないし。
カミさんは地震直後に会社を出たのに家には帰り着けず、ワシは真夜中の渋滞の中、わずか数百メートルを1時間かけて進み、家に到着したのが午前1時過ぎ。

その後起きた原発事故は、悪夢と言わずなんといおう。
第一報を聞いたときは、仕事を捨ててどこかに逃げようと思ったほど。
官房長官の言う「ただちに影響はありません」という言葉は全く信用できませんでしたな。
ワシの原子力に関する知識は、高校の物理の時間でやったごくわずかな知識。
しかし、そこから考えてもこれは相当やばいことになるとは思いました。
困ったことに、本当にそうなった。
震災で散乱したワシのデスク



震災とは関係ないが、娘は受験に失敗し、名古屋へ。
息子の就職は見つからず。

震災からの復興、経済の舵取り、とくにデフレからの脱却。これらは民間にはできない。
どうしても国家の運営に頼らざるを得ない。
しかし、政府はあのていたらく。
デフレ脱却のために、何故、通貨供給量を増やさない?
何故、今消費税増税なのか?
何故消費税なのか?

しかし、あの政府を作ったのはわれわれなのであります。


おそらく、忘れようにも忘れられない年になりましょう。
来年は明るい未来が待っている、そんな感覚が持てる年になって欲しい、それを切に願います。


明るい明日を感じさせる夕暮れ 明るい未来を期待したいものでアリマス


2011年12月30日金曜日

東大、上野 2011クリスマス


工学部列品館前
東大へ行った。
去年も一度写真をupしたが、今年も同じ学会の理事会に出席するために行ったのだ。
ちょっと時間より早く行ったので、農学部でないところへ行ってみた。
初めてではないんだけど、こっちに来ることは滅多にない。
正門から安田講堂へ向かう。
歩き始めてすぐ、左側を見ると「工学部列品館」と書いてあった。
「そうか、これが東大闘争の時の攻防戦を展開したところか」と感慨深い。
とは言っても、当時、ワシは小学生。
立花隆の「中核vs革マル」を読んだ程度の知識なんですけども。
しかし、立派な建物だ。こんな建物を戦場にするとはけしからん。
登録有形文化財。


安田講堂前の家族 幸せそう!

かつて全共闘と警察が攻防を繰り広げていたところで、いまは幸せそうな家族が写真を撮っていた。幸せそうだなあ。うちも20年くらい前はこんなんだった。あの頃はよかったなあ・・・。

安田講堂

法学部 …歴史を感じる
法学部の建物は、またとても立派。wikipediaで調べたところ「法文2号館」という建物で、登録有形文化財、1938年完成だと。何とも立派な建物ではある。

ここも東大闘争で重要な事件が起きたところらしい。立花隆の前掲書によれば、1969年1月の東大安田講堂決戦の時、

「安田講堂を全共闘が守り、大きなセクトがそれぞれ、中核派は法研、ML派は列品館というように、主要な建物を各セクトがひとつずつ受け持った。革マル派が受け持ったのは法文二号館で・・・<中略>・・・ところが、いよいよ明日早朝に機動隊導入という日の夜になって、革マル派は全員引き上げてしまったのである。」

これが世に言う革マル派の「敵前逃亡事件」で、この事件により革マル派と他のセクトの間に取り返しの付かない亀裂が生じたということである。その後、革マル派と中核派は血で血を洗う内ゲバを繰り広げていくわけである。まあ、私自身には何の関わりもない昔の話ではあるが、「中核vs革マル」という本のインパクトが私にこんなことを思い起こさせたのであるから、やっぱり立花隆はスゴイ。

しかし、このゴシック様式の建物は素晴らしい。こんなところで研究活動ができるのは東大生だけだ。学会の大会で、いろいろな大学を見るけれど、こんなところは他にない。私の大学なんか、どう見ても団地のようだった。ま、歴史のない、多くの国立大学はそうだ。


不忍池夕刻
会議が終わって、上野まで歩く。
不忍池は相変わらずいい景色。スカイツリーができてからは初めてきたのかな。
何人もの人が携帯で写真を撮っていた。
この人はランニングだかウォーキングの途中のようだ。



アメ横

年末のアメ横で買い物をしたことはない、たぶん。
しかし、まあ、すごい人だった。でも、テレビのニュースで見るほどではなかったから、今年はそれほどでもないのかもしれない。まあ、世の中不景気であるからして。

来年は、この閉塞した社会を、少しはいい方向に向かわせてほしい。
しかし、政治があの様子では・・・
民主党政府は公約はほとんど何一つ守れず、とうとう消費税増税を決めてしまった。
デフレを克服するのが何にもまして重要であるのに、そのことはほとんど話題に上らない。
震災後の運営もひどかった。今頃復興庁を作ってどうするのよ。
後藤新平は関東大震災に襲われた晩に復興事業の骨子を作ったという。
世の中は進歩したはずなのに、政治家はものすごく退歩していると言うことか。
しかし、あのような政権を作ったのは我々なんである。残念なことに。
これが、民主主義というものなのだ。
民主主義が必ずよい結果をもたらすわけではないが、しかし、最悪な結果を招きにくい、「よりまし主義」だ。ワシも一応それを信じている。
でも、現状は最悪に見える。
何とかならないものだろうか。

2011年11月23日水曜日

あってはならないこと

ここのところ仕事が忙しい。
自分の研究課題が本来の仕事とするならば、本来の仕事ではなく頼まれ仕事のようなもので忙殺され、研究課題の方はカンペキにお留守になっている。マズイ。とってもマズイ。

先週はTPP一色だった。詳しいことは極秘?なので言えない。
今週は、職場の中でやる統計研修の準備に追われている。職場でみんなに統計処理を進めてもらうために、JMP(ジャンプ)で統計処理をする研修なのだ。JMPは、あの統計ソフトの雄、SASが作るお手頃価格(といっても20万円もする)の統計ソフトだ。

私の担当は回帰分析である。
長年使ってきた回帰分析を若い研究者にレクチャーするのだ。
重回帰分析を行う上で多重共線性(マルチコ)の問題は、いつも頭に入れておかなければならない問題だから、話さなければならない。当然だ。

なぜ、マルチコが起こるのか、それを仕組みから説明しようと思った。
回帰係数を求めるためには、説明変数の積和行列(SSCP or X'X)の逆行列を求めなければならない。この変数間に高い相関があるのがマルチコ=multicolinearityで、積和行列の行列式が0に近くなり不安定になる。そのため回帰係数の推定が正しくできなくなる現象だ。変数同士が完全に線形関係にあれば、積和行列はsingularになり、逆行列を求めることが不可能になる。

ちなみに「マルチコ」というのは日本だけであるという話だ。アメリカでは「マルタイ・コリニアリティ」と言ってるらしいから。

だから、わざと線形関係にある二つの変数を入れたデータで計算させようとしたのだ。普通は、「逆行列が計算できません」となるはずだ。しかし、なんと言うことだろう・・・エラーが出るわけでもなくペラッと結果が出てしまった。確かに一番上に「特異性の詳細」という項目が出てはいる。しかし、結果が出ている。よ~く見ると、線形関係にあった変数の一つを自動的に削除して回帰分析を行っているではないか。











これはやり過ぎだぞ、SAS!!

計算できないとキチンと教えるべきだ。
回帰分析をよく知らない人は、この結果をただ使ってしまうだろう。

修士課程にいた頃、研究室のPC98からネットワーク経由で使っていたSASは、計算センターのメインフレームにあり、オプションの一つ一つに至るまでプログラムを書かなければ動かなかった。
研究室にあった和文のマニュアルは、翻訳が悪く、分厚いだけで何を書いてあるかよくわからず、結局英文マニュアルを読みながら使ったものだ。もちろん結果の出力も英語で、思った通りの計算ができないこともしばしば。しかし、必要な計算はほとんどできて、使いこなせればこれ以上ない、素晴らしい統計ソフトだった。ただ、ユーザーに求められるレベルは高く、使おうとしている分析手法のことがわかってなければ、決して使うことができないプログラムだった。

JMPはよくできている。マウスでちょこちょこオプションを選択するだけで、あっという間にキレイな結果が出てくる。しかし、これでいいのだろうか?私は決していいとは思わない。


---------------------------------------------

他のソフトではどうなのかと思って、そのあと、SPSS(ver14)、R-Commender でも同じことをやってみた。
しかし、JMPと同じように計算できてしまった。何故?
これが現代統計ソフトの流れなんだろうか?
いいんだろうか、これで。
いいわけないと思うんだけどなあ・・・ワシは。

2011年11月22日火曜日

前撮り

幕張はアパ・ホテルで行われた成人式の前撮りとやらに行ってきた。
プリンスホテルだった頃は何回か来たことがあるが、アパになってからは初めて。
一度見たら忘れられない社長のお顔だが、少なくともこのホテル、というか私が入ったところには、社長のご真影は貼られておらず、ホッとした。以前、鳥取(だったかな?)で泊まったアパ・ホテルは、ロビーに入ると、いきなりドーンと社長のデカイ写真があり、げっそりしたことがあったっけ。


しかし、ワシの知らんうちに成人式というものは変わってしまったものだ。
呉服屋さんの開く前撮りというイベントには、何十人もの美容師さん、着付師?、カメラマンが投入され、次から次に仕事をこなしていた。完璧な流れ作業だ。
ホテルの廊下には、カメラマンと晴れ着姿のお嬢様が何組もいて、「そう。そこでスマイル。ハイ!ベストスマイル」とか恥ずかしい声をかけながら写真を撮っている。

ウチの娘の番がやってきた。
小さい頃はカメラを向けるとすぐに変な顔をしてサービスした娘も、小学校の高学年ぐらいからはカメラを向けると露骨にイヤな顔をするようになった。そのあとは、卒業式、入学式ぐらいしか写真を撮っていない。まあ、基本的に写真を撮られることは好きでないようである。

ここのカメラマンの仕事は、おだてたり、すかしたり、笑わせたりしながら流れ作業に乗せ、まあまあの顔を撮ることである。しかし、まあ、何というか本当に流れ作業。全員に同じポーズをとらせて写真を撮っていく。カメラマンも商業的な満面の笑みをみせつつ、うまく回そうと焦っている姿が見える。

案の定、ウチの娘はだんだん不機嫌になり、「もう無理、笑えない」と言って、廊下の「ベスト・スマイル~!」は拒否。そんなにイヤならこんなことに参加しなきゃエエのに。

思えばワシは成人式には参加しなかった。
「何で行政に祝われなければならない?いかねーよそんなもん」そんな風に思っていた。
ワシの兄弟も誰も行ってない。そのせいもある。

成人式の前日、ワシらは吉祥寺で酒を飲んでいた。その晩は、三鷹のフクハラ氏の家に泊めてもらった。その頃は、しょっちゅうそんな感じだった。昼頃に起きたワシは、夕方、葛飾八幡宮へ行き、中学の同級生の飲み会にだけ参加した。ワシ一人だけジーンズだった。
それがワシの自己主張だったのか・・・まあ、子供の頃から、人とちょっと違う事をして自己主張するのが
ワシのやり方だった。大局的に見れば人と変わったことは何もやってないのだが。
そのヘンなところが今の職業に向いていたのだ、と、時折思う。素直な人に研究者は向いていない。
しかし、それほど独創的でもないから大成もしない。トホホ…。

娘もちょっと変わったところがあるので、こういうものには参加しないと思っていたんだが・・・。意外と普通の娘なのかも???

2011年11月2日水曜日

同窓会

中学時代の同窓会が行われた。
中学3年生から数えること38年。7クラス全部の卒業生が顔を合わせるのは初めてである。

うちのクラスは、それなりに集まっていて、一昨年もクラス会を行ったところである。
幹事は基本的に交代がない。ワシは卒業以来ズーッと幹事をやってきた。
まあ、面倒だと思うこともあるが、基本的に好きなんだと思う。

そういうわけで、今回の同窓会もウチのクラスの連絡はワシが行った。
反応は非常に鈍かった。
まあ、わかる。
同窓会をやるという連絡を受けた日、「えー、まじ?」というのが最初の感想だった。
大学の講義の直前、準備にいそしんでいる頃で多忙だったせいもある。
しかし、たまに会って旧交を温めているクラスの仲間ならともかく、もう、名前も顔も忘れてしまった人たちと会ったところでどうなるのだ・・・という思いは誰にでもあるものだろう。

クラス会のたびに20人は集まるわがクラスで、今回集まったのはたったの6人だった。

しかし、先生方は違った。
われわれと、たった10歳しか違わなかった担任のA先生と美術のK先生は、当時、25歳のニイちゃんとネエちゃんだったが、今では退職者である。
したがって他の先生方もみな退職者。その結果、先生方の集まりはよく、5人がいらっしゃった。

同窓会では、鉄ちゃんをやっている頃、一緒に北海道や九州へ行ったキタムラをはじめ、アリゾナやオヤジなど昔よく遊んだ連中と旧交を温めた。また、小学校で同級生だった女子と会ったのだが、全くワシのことを覚えておらず、一生懸命思い出させようとしたり、全く会った記憶のない人と話していて突然昔の顔を思い出したり・・・結構おもしろい体験だった。

また数年後にやるかも知れないが、今度はもう少し積極的になれるような気がする。





わが担任A先生。当時は25歳のアンチャン。熱血教師が率いるおもしろいクラスだった。




美術のK野先生。昔は美術クラブ写真班を設置するにあたりいろいろお世話になりました。

2011年10月31日月曜日

大田市場

大田市場に行った。
もちろん仕事である。ある県の、ある品目についての会議だった。
内容は機密事項なので言えない。
というほどのものでもないのだが、まあ、仕事の中身は書かない。

灯台かんらんが出ている。「灯台かんらん」とは千葉県銚子産のかんらん、つまり、キャベツのことでR。


市場を走り回っているリフト。まるで顔のようだ。笑っている。




市場の隣に「東京港野鳥公園」というのがあった。
会議が早めに終わったので寄ってみた。
無料かと思っていったら入場料300円だった。まあ、もう一生来ることもないだろうと思い、払って入場。入れ違いに、合計6人くらいの超望遠レンズを付けたカメラを持ったご高齢の方々とすれ違った他は、誰もいなかった。野良犬が一匹いただけだ。本当にお客さんは居ない。まあ、平日の夕方だから仕方がないのか?大丈夫か東京都?

今から25年ほど前、市川市の野鳥の楽園のすぐそばに住んでいたワシは、たまに見に行っていたのだが、いろいろな鳥が行ったり来たり、結構楽しかった記憶があった。しかしここの鳥たちは、木の上に立ってボーッとしているだけ。ほとんど動きがなかった。まだ寒くないので、鴨もあまり来ておらずちょっとがっかり。

羽田空港が近いので、飛行機はいっぱい見える。







2011年10月28日金曜日

ガン検診の結果

胸部CT:問題の所見なし
大腸内視鏡:問題の所見なし
前立腺:正常値

胃カメラ:軽い食道炎、表層性胃炎、十二指腸炎を認めた。
組織検査の結果:炎症による異型細胞を認めた。

が~~~~~~~ん

胃の調子も食道の調子も悪くなかったので意外でした。
また来年胃カメラ飲まないと。

とりあえず何でも食えて、飲めるんだけどなぁ・・・
チョト心配ス。

2011年10月14日金曜日

ガン検診

もう1週間ほど前になるが、ガン検診に行ってきた。
わが社は、40歳以上の職員を対象にガン検診を募集する。
会社によっては検査料の全額を出してくれるうらやましいところもあるようだが、ウチでは半額を負担してくれることになっている。

6年ほど前になるだろうか、煙草をやめた翌年、肺がん検診を受けたことがある。今回は、胃カメラ、肺がん(らせんCT)、大腸内視鏡、前立腺(腫瘍マーカー)のセットだ。

検査料は、病院によってかなり違う。だいたいは5万円くらい。高いところは10万円近いところもある。
今回は、比較的リーズナブルな斉藤労災病院にしてみた。

1日目は、採血(腫瘍マーカー)し胃カメラと大腸ファイバーの説明を受け同意書にサインをしたあと、らせんCTを撮った。CT自体はほんの1分程度しかからない。

問題は大腸ファイバーだった。話には聞いていたが、これはなかなか厳しいものがあった。
まず、前日の朝から食事制限がある。
朝食は素うどん。加ト吉の讃岐うどんを電子レンジでチンして、ヒガシマルうどんスープでいただいた。うまいが少ない。すぐに腹が減る。昼飯まではあめ玉をなめて、糖分で空腹をごまかす。

昼食と夕食は病院から送られてきた「クリアスルー」なる専用食を食べる。
昼は鮭がゆと肉じゃが。肉じゃがは結構いける。しかし鮭がゆは糊を食べているみたいだ。マズイ。これまたすぐ腹が減る。カロリーを見るとたった250kcalしかない。腹が減るわけだ。

夜8時に下剤を飲まなければいけない。だから、夕食はそれより前に食べなければ・・・。いつも7時頃まで仕事しているので、家に帰ったら食べる時間がない。仕方がないので夕食も職場で食べることに。
夕食はチキンクリーム煮とクラッカー。これは結構うまかった。

8時半頃に下剤を飲み、あとは翌朝までひたすら水を飲むこととトイレに行くことを繰り返す。
トイレには翌朝まで合計6回くらいは行った。この時点で腹の中はほぼすっからかん。

病院でCTを撮ったあと、2リットルのボトルを渡され、それに入った下剤をひたすらちびちび飲む。
ひたすら待つ。
あまりにもヒマなので本を読む。読み進んでいなかった「ワシントンハイツ」が結構進んだ。
しかし、ここのところ原稿書き等で忙しかった。というか、まだ忙しいまっただ中なのだ。そこで、原稿の推敲をする。本当はPCを持ち込んで打ちたいところだが、さすがに病院の中でそれはマズイ。

いつの間にか昼休みになり、病院の皆さんが昼食を食べている頃、ワシはただしょっぱい、マズイ液体をすすり、トイレに行く。これを6回ほど繰り返した。

結局、検査が始まったのは15時30分。
しょっぱい下剤を飲み始めたのが10:15だったから、5時間以上も待ってたわけだ。

尻に穴の空いた紙製のパンツをはかされ、検査ベッドの上へ。
Ass Hole に麻酔入りのゼリーを塗られ、ファイバーが・・・。
意外と痛くない。うまい先生なのだろうか。曲がり角でちょっとシクシクするが、苦しいということはなかった。

カメラは盲腸のところまで行き、ガスで大腸をふくらませ、映像を映しながら帰ってくる。
私の大腸は結構キレイなもんであった。とくに組織を採ることもなく終了。

検査が終わって街に出るとすでに5時近く。なんだか悲しい。
この病院は、ワシが新人の頃から10年勤務した事務所から300mしか離れていない。通常のワシの行動パターンだと、事務所の跡地(今は、売却され、「しゃぶしゃぶどん亭」の駐車場になっている)を見て、散歩しながら帰るのだろうが、腹が張ってそんな気にならなかった。

前の日から、帰りには「1日食べられなかった分を取り返すべく、おいしいものを腹一杯食べよう」と思っていたのだが、腹にガスが溜まり痛い。しかし腹は減っている。
うーーーーーむ。

おならをすればいいのだが、なかなか出ない。イヤ、出そうとすると中身が出る感覚が・・・。
そんなバカな・・・、何にもないじゃないか・・・しかし、ダメだ。

とても、おいしいものを食べようという気にならない。
「仕方がない、今日もラーメンだ」
ということでラーメンを食べる。ラーメンはまあうまい。しかし、腹が痛い。なんだか食った気がしなかった。早く家に帰って横になりたい・・・・。

どこにも寄り道せず家に帰り、ベッドに横になる。
すると、出るわ出るわ、ガスの放出が始まった。
史上いちばん長いおならだった。

あー疲れた。

その後、3連休を挟み、連休明けの11日、胃カメラを飲んだ。
「飲んだ」というのは正確でない。鼻から入れる方を選択したからだ。
着替えもせず、いきなり検査室に通され、「ハイ、吸い込んで下さい」といわれ、右の鼻の穴からゼリーを注入。甘くて、苦くて、まずかった。
カメラを入れる前にビニールチューブを入れようとする。しかしグルグル回してもどこかに当たり、痛くて涙が出る。

「うーん、意外に狭いですね。左にしましょう」といわれ、今度は左の鼻の穴からゼリーを注入。
やっとカメラが入った。

右の鼻の穴がシクシクと痛み、涙が出ていたのと、体を曲げられなかったのでモニタはよく見えんかった。
十二指腸の入り口のところまで行って、引き返してくる。
ガスで胃をふくらませているため、げっぷが出る。
「あ、赤いところがありますね」と言って、組織を2回採られる。全然痛くない。
「逆流性食道炎気味ですね」と言われるが、全く自覚症状はない。
そのあとはたいした盛り上がりもなく終了。
病院に入ってから1時間ほどで会計まで全て終了。2日目はあっけないものだった。

採るときは全く痛くなかったのだが、あとからちくちくと胃が痛くなる。
組織の検査結果が気になる・・・・・。


2011年10月13日木曜日

なにやってんだよ!

ヤクルトファンなのである。
1966年にヤクルト・アトムズのファンになって以来、45年間もファンを続けてきたのである。

前回優勝したのは2001年。
京都大学で行われた学会に参加するのに京都のホテルが取れず、大阪は高槻のドカチンホテルに泊まり京都に通った。その宿でビールを飲みながら「ヤクルト×近鉄」の日本シリーズを見ていたのでよく覚えている。
今年は10年振りの優勝を疑っていなかった。
しかし・・・・・・・・・・・・・・・・・・なんなんだ、これは!
まさかここへ来て中日に4連敗だなんて・・・

今日は、もう、終戦気分だ。
東京オリンピックでヒートリーに抜かれた円谷幸吉のようだ。
「幸吉はもう走れません」なんていわないで欲しい。お願いだから。



この写真は、私の小学生の頃のものである。父と一緒に、横須賀の戦艦三笠を見に行ったときに撮ったものだ。帽子の文字を見て欲しい。「a」である。アトムズのaなのである。
当時、野球帽といえばジャイアンツ。ヤクルトなんて売っていなかった。だから、母に頼み「a」のワッペンを作ってもらったのだった。
こんなに長い間ヤクルトファンをやっている人はそうはいない。と思う。
長いこと不幸なファンだった。90年代は幸せだった。
2001年以来10年は野球のことを忘れようとしてきた。もうそろそろ喜ばせてくれてもいいじゃないか。今年はいけると思ったのに。

CS頑張ってくれい。

2011年9月23日金曜日

Rocky Top Liveの音源

9月2日ロッキー・トップのライブの音源、YouTubeにアップしました。全曲。


亀山のD51

前回、旅先でブログを更新してから2週間も経ってしまった。

あの翌日、学会に出席した後、津で中学時代の友人と飲んだ。
彼は、高校卒業後、2浪して三重大の医学部に入り、その後ほとんど三重県住まいだ。
立派なお医者さんになっていて、飲んでいる間中、医療と政治の話をした。
そういえば、彼とサシで飲むのは初めてだ。考えてみれば成人してからずっと三重県住まいだから、飲む機会はなかった。2人で会ったのも浪人時代以来であった。

さて、D51の話である。
探してみたら、あっさりネガが出てきた。一見キレイなネガなのだが、ルーペで見るとカビで相当痛んでいる。スキャンしてみるとカビの菌糸の跡がよく見える。

D51499の亀山駅出発シーンの連続写真だ。
先日、津市内の公園で見た姿は昔そのままだということが確認できる。
ボイラーの両側に立っているデフレクター(除煙板)は、独特の形をしているし、煙突には集煙機が付いている。

なお、前回、「門デフ」と書いたが、どうも間違いらしい。門デフは門司工場で作られたデフレクターのことで、D51499のは「後工デフ」というようだ。これも中国地方の後藤工場で作られたからこういうらしい。(参照

まだカメラの構え方がなっていないので、全カット手ぶれしている。そのために迫力が出ているかも・・・いや、そんなことはない。ただのヘタクソだった。しかし、このときは興奮した。そのせいで手が震えたのかも知れない。






2011年9月8日木曜日

三重県津市に来ている。
某学会の研究大会があり、それに出席するためだ。




この地域にきたのは何年ぶりだろうか?2005年の秋にモクモクに来た記憶があるから6年振りか。といってもフラフラ、ウロウロ歩いたのはほぼ40年ぶりだ。

今から39年前、1972年、ワシは中学2年生だった。その年、ワシは鉄ちゃんになったのだった。9月の連休、同級生に誘われ理科の久保先生に同行してもらい野辺山へ。そこで写真を撮ったSL、C56の姿に引き込まれてしまった。

1972年は新橋、横浜間に鉄道が開通して以来100年で、各地でイベントが行われ、10月には地元の総武本線でC57の1号機が走った。現在、京都梅小路機関区で動態保存されている機関車である。
ワシらは、総武本線の物井と佐倉の中間にあるトンネルのところで待ち構えて写真を撮った。その翌日、C57は東海道線を走った。ワシらは六郷鉄橋のそばのマンションに上りカメラを構えた。

そんなことで、すっかり鉄ちゃんになってしまったわけだ。まあ、SL限定ですけども。

冬を迎える頃、カメラを買った。初めての自分のカメラ、一眼レフである。
当時の一眼レフは高い。名の通ったカメラの中で最も安いのは「アサヒペンタックス」。ニコンF2とは言わなくても、ニコマートFTnなんかがほしかったのだが、手が届くのはここまでだった。ASAHI PENTAX SP、55mm/1.8付きブラックボディ、4万5千円だった。長年お年玉を貯めた郵便貯金を全額解約して買った。シルバーボディよりも1000円高いブラックボディにしたのは、ささやかな贅沢であった。

カメラを買えば写真を撮りに行こうと思う。当たり前である。
同級生たちは北海道に行こうと言った。しかし、私はその年の半ばまで腎臓病で体育を休んでいた身である。寒いところは腎臓に悪い。親が許すはずがない。

そこで、一計を案じ、まだ鉄ちゃんではないハガ君を誘って関西方面へいくことにした。

自分で企画した初めての旅行だった。中学2年生二人で夜行列車に乗って関西へ行くのである。今思えばかなり大胆だったし、親もよく許したと思う。しかし、この旅行で得ることはいっぱいあった。旅行の企画、宿への予約など初めての経験だらけで、成長のきっかけになったことは間違いない。

で、行った先が関西本線と紀勢線、参宮線なのであった。
ワシらは松阪のユースホステルに泊まり、SLの写真を撮りに行った。

その頃の三重県亀山は何にもない田舎町であった。今でこそシャープの液晶テレビ「亀山モデル」で有名になったけれど、当時はモロに田舎の駅で、目立つものと言えばでかいローソクのモニュメントだけだ。「カメヤマローソク」と書いてあった。その時初めて亀山がローソクの生産地であることを知った。

その亀山駅でD51の発車シーンを撮影した。PENTAXを買ってから初めてまともに撮ったSLの写真であった。煙がものすごく上がって迫力があった。写真はややピンぼけだったが、初めてにしてはなかなかの写真が撮れたような気がする。D51は門デフの499号機であった。

今日、宿に着いてから外に出て県庁の方までぶらぶらと歩いた。
護国神社の向かいに偕楽公園という公園があった。そこに蒸気機関車が展示してあった。そばに寄ってみるとびっくり、あの499号機だったのである。門デフも当時そのまんまであった。





いや、しかし、懐かしかった。40年近く前だが当時のことがリアルによみがえってきた。
いつか、古い写真も載せようと思うが、とりあえず本日撮影したものを。

2011年9月3日土曜日

Rocky Top ライブ

2度目のロッキートップライブが終わった。
今回はネッシー・エクスペディションとの対バン。ネッシーは相変わらずタイトで、カッコイイ。

とりあえず音源をいくつかYouTubeにアップしてみた。でも、絵は動きません。


















2011年8月28日日曜日

ゲットぉぉー!

久しぶりに秋葉原に行った。
といっても、そんなに長いこといっていないとは思っていなかったんだが、あちらこちらの風景が一変していて驚いた。秋月電子の前は何にもなくなって駐車場になっているし、昔LAOXのパソコン館だったところはオタクビルみたいなものになっていた。

駅のそばも、ダイビルとUDXができ、その西側の、昔は路地裏といった風情の小汚い建物が並んだ風景が、いきなりお日様がさんさんと注ぐ表側にさらされてしまった感じで、街も私も戸惑いを感じてしまった。

いつからアキバにいってなかったかはよく覚えていないけれど、オタクの街の度合いがますます強くなっている。ネコの耳をつけてメイド服を着たオネーチャンがそこいら中にいるし、白衣姿のもいた。う~ん、ついて行けん、ワシには。
















目的は中古サブノートのゲットなのである。ドク論で活躍してくれたeeepcは今年の春、娘とともに名古屋に行ってしまった。

普段は「仕事は絶対にデスクトップ」という主義の私だが、どうしても外で仕事をしなきゃいけないときがある。仕事でなければスマートフォンで済ませる。

目標はLet's noteだ。職場でも使っているが、あれはいい。しかし新品はものすごく高い。

いくつか店を回ったが、ドスパラの中古PCセンターでものすごくキレイなT5を発見。なんと25.8K円であった。新品の時には21万円を超えていたらしいから、これは安い。

家に帰ってから、早速クラブのシールを貼った。







電気街を離れて神田川にかかる線路脇の橋を渡ると、あの喧噪が信じられないくらい静かになる。
この橋を渡り、柳森神社の前を通り、カメラのにっしんを覗いて帰るのがいつものコースだ。イケベ楽器のベースセンターに寄ることも多い。今回はパソコンが重くなってきたのでにっしんでレンズを眺めただけで帰った。

いい買い物ができた。



2011年8月27日土曜日

何がセンキョだ!!

なんだあれは(#`Д´)凸
民主党の代表選挙のことだ。

今日のダイアモンド・オンラインでは「小学校の学級委員選挙以下」と書かれてしまう始末。一国の総理大臣になる人を選ぶのに、告示から投票まで2日とはどういう事か。何の議論もできないではないか。

各候補からも、「挙党一致」という声が聞こえてくるだけで、政策の中身は全く聞こえてこない。いったい何を持って判断しろというのか。(といってもワシは党員ではないのだが)

だいたい候補者には、立候補する資格があるんだろうか。少なくとも今閣内にいる人に、その資格はないと考える。原発事故処理を思い出せばよかろう。ウソをついて、情報を小出しにしているうちに被害が拡大した。こんな内閣にいた人間が「被災地に寄り添い、復興の先頭に立ちたい」などということをぬけぬけという。いい加減にしてもらいたい。

前原が有力だという。日経の読者調査でも半数の人が前原に総理になって欲しいと思っているとあった。日経ビジネスオンラインでもトップだ。
はっきり言って信じられない。彼の今までを思い出してもらいたい。八ッ場ダムはどうしたんだ?尖閣ビデオの対応は?しかも、外国人から献金を受けていた。
間違いなく、もっとも総理になって欲しくない人である。

2011年8月20日土曜日

なんだら、かんだら、MANDARA

MANDARAというソフトがある。埼玉大学の谷謙二さんという方が作られた、フリーのGISソフトである。いつか紹介した「今昔MAP」と同じ作者である。

もう5年以上前から仕事で使わせていただいている。結構ヘビーに・・・。

今までは、統計情報からいろいろな指標を計算して、「この地域はこうなってますよ」という色分けをしているだけだった。しかし、ここのところ野菜産地の問題点を検討している中で、鉄道やら都市化やらとの関わりがどうなっているのかを見てみたいと思い、試行錯誤をしていた。

MANDARAがgoogle earthのkmlファイルを出力できることは知っていたが、今までやったことはなかった。しかし、やってみたらやけにあっさり実現した。

うーん、素晴らしい。
道路や鉄道と産地の動きが関係あるのかないのかなどを検討するためにはバッチリだ。
地名と数字だけのデータを眺めているのと、地図の上に様々な情報を重ねていくのとは雲泥の違いだ。
しかし、その「雲泥の違い」を定量化する方法はあるのか?
今のところ私はよくわからない。それができると素晴らしいんだけど・・・
さらに調べ、考えるしかないでしょうな、ワシが。

できたときは「素晴らしい」と感動したんだが、ここに貼り付けると目玉のようなピンだらけで、何が何だかわからない状態に・・・( ̄□ ̄;)!!。「大きな地図で見る」をクリックして、「オブジェクト名」のチェックを外してピンを消すとキレイに主題図が見られる。↓



2011年8月15日月曜日

Naganumahara -cho Revisited

タイトルはボブ・ディランの「Highway 61 Revisited:追憶のハイウェイ61」のパクリである。

仕事を休んで歴博に行ってきた。
近くに住んでいるのに一度も行ったことがなく、いつか行ってみようとは思っていた。
季候がよければ京成電車に乗っていくところだが、ここのところやけに暑い。今日も猛暑日になるかならないかという気温である。こういう日は車に乗ってしまう、どうしても。

我が家から歴博までの通り道に長沼原町はある。
長沼原町は戦前は陸軍の下志津原演習場で、戦後開拓された。
開拓間もない頃、開拓農家の子供たちは遊びながら薬きょうや銃弾を集めたという。
数年前、この地域にあるY印研究農場の一角から毒ガス弾が見つかったというから、まだ戦後は終わってないということなのかな。

こんな話を知っているのは、昔この地域の酪農家にずいぶんと通ったからだ。
ワシは新任の頃から数年間、この地域の酪農家に通い、技術のありよう、経営のありようなどを彼らから教わった。
長沼原町に入植した人は、ほとんどが旧軍の将校クラスの人だったらしく、親父さん達も後継者も優秀そうでキチンとした人が多かった。他の地域の農家の方々とは印象はかなり異なっていた。

Sさんに初めて会ったのは、就職してすぐ、先輩の巡回に同行したときである。
緑色のジョンディア・トラクターにまたがってレイバンのサングラスをかけたジーンズ姿のSさんはメチャクチャ格好良かった。
また、Sさんの隣に住むNさんは牛舎においたステレオでボブ・ジェームスを聞いており、すぐそばに住むYさんはクラシックのトランペッターだった。こんな感じで、他の地域の酪農家にはあんまりないタイプの人がそろい、それぞれが非常に高い技術を持ち、当時にすれば相当高レベルの経営をしていた。

なかでもSさんは、物腰は柔らかだが非常に意思の強い人で、高水準な技術・知識を持った獣医師であった。その当時、大学を出た酪農家はポツリポツリといたが、獣医というのはきわめてまれだった。

ワシは、SさんやNさんが集めている、アメリカの最新酪農技術情報を見せてもらい、当時、国内ではあまり知られていなかったフリーストールやミルキング・パーラーの知識を得ていた。とくに、Sさんが持っていたみかん箱1杯のフリーストール関連文書を借りて、辞書片手に読んだことが懐かしい。
その中で、くり返し読んだ"Midwest Plan"とかいう本があった。ワシは、この本で初めてフリーストールの配置やストールのサイズ、傾き、牛舎の壁、屋根などの基本的な設計プランを知った。ネットで調べてみると、今はこの本が無料でダウンロードできるらしい。エライ時代になった。まあ、1985年の本だから実用的価値はあまりないものと思うが。

Sさんが文書を収集していたのは、フリーストール牛舎を建設し規模拡大を図るためだった。
そして、1980年代の後半、Sさんは県内初のフリーストール牛舎を補助事業なしで建て、成牛100頭規模の酪農経営になった。

補助金に頼って建設した牛舎はいくつも見てきたが、人のカネに頼るためか、どうしても余計な装備をつけたり、無駄に強度をつけたりするものだ。しかし、補助金を使わないSさんは徹底的に無駄を排した。ストールの仕切りは自分で溶接していたし、水飲み場にはトイレのボールタップを応用するなど工夫を重ねて低コストな牛舎を建てた。しかし、ミルキング・パーラーには牛の首にくくりつけたリスポンダーで個体識別し、乳量を自動記録する最先端の施設を導入するなど金をかけるところにはかけていた。

ワシは、担当普及員として何組もの視察案内をしたが、このような素晴らしい酪農家が管内にいるということが誇らしかったものである。(ワシはどこもえらくなかったが)

話が長くなった。
長沼原町一帯は都市化が進み、東関東自動車道のインターチェンジも近いことから、運送会社の基地の需要が高いということはずいぶん前から知っていた。今、訪れると、運送会社だらけで往時の面影は全くない。私が通っていた頃、イタリアン・ライグラスやデントコーンの畑であった場所がみんな運送センターになっていて、そこら中に牛がいたことが信じられないような風景である。

10年くらい前、Sさんは酪農を廃業し老人ホームを設立したという話は聞いていた。
社会福祉法人の理事長におさまって、それなりに運営をしていれば、今でもあの場所で余裕のある暮らしておられるのだろう。そう思っていた。

しかし、以前牛舎のあった場所は空き地で、堆肥舎だったところは朽ちかけた小屋だけが残り、住宅は木がぼうぼうで、人が住んでいる様子がない。
表札はそのままだが木で見えない。非常に荒れ果てた状態だった。
いったい何があったのだろうか・・・老人ホームは運営はしているようであったが・・・

県内初のフリーストール牛舎があった場所。左奥が居宅。1個だけ残ったカーフハッチが悲しさを増幅する。




堆肥舎だった小屋。往時は堆肥製造会社を設立し、この辺を切返し作業などのための機械が走り回っていた。


ワシは、非常に悲しい気持ちでその場を後にした。

2011年8月3日水曜日

交響楽の午後

カミさんが昔から入っているオケのコンサートに行ってきた。
ものすごく久しぶりである。

文化会館を見つめる少女のブロンズ像

いつもの演奏会は市川市文化会館の大ホールで行われ、客席は余裕なんだが、今回は編成が小さなためか小ホールで行われた。開演時間の5分前に行くと客席はほぼ満員。係員が空席を探して案内している。こんなことは初めてである。

私はクラシックファンではないので、曲自体はよくわからない。しかし、ゾマー作曲の「アルプスの夏」というのはおもしろかった。アルプホルンというもの自体を初めて見たし、音も初めて聞いた。昔やっていたチョコレートのCMで「パッパパー」というのしか聞いたことがなかったから。しかし、あの巨大な楽器を唇だけで操るのはすごい。

サン・サーンスのチェロ協奏曲はなんだかすごい超絶技巧だった。チェロを弾いてた西方氏は芸大大学院生でうちの息子と同い年なんだそうだ。テクニックもすごいが音もよかった。そのチェロは大学の先生からの借り物で決して高いものでないという。チェロをやっている人はアマチュアでも300万円とかの楽器を平気で使っているようだが、髙けりゃいいってもんじゃない、そう思わせる演奏だった。

だいたい、バイオリン族の楽器は先生の紹介とかいっていろんなマージンを乗せられて不当に高い、そんな気がする。私が持っているギターなんぞ可愛いものである。


ロビーに出るとこれからの催し物のポスターが。
古今亭菊之丞、この人は私の高校の後輩なんだそうな。
我が高校は、99%フツーの人の学校。
ワシの在学中にも、「こいつは変わってるナァ」という人はきわめて少なかった。
そのせいか同窓生に有名人が極端に少ない。
ま、ホンワカとした、いい学校でした。

2011年8月2日火曜日

禁煙7周年

気がついたら禁煙して丸7年が経っていた。

15歳で煙草を覚え30年、バカみたいに吸っていた。
何度か禁煙を試みたものの、いつも最初の1日が終わる頃に挫折していた。
あまりにも若い頃に覚えたために、止められないのだと思っていた。

7年前の5月の連休、若い頃お世話になったO先輩が亡くなった。まだ49歳の若さだった。
当時、Oさんと交流がなくなっていたワシは、訃報に接することができず、1週間経ってから直接お宅へ伺い、お線香を上げさせていただいた。その日、家に帰ってから丸1日にわたって胸が痛かった。

若い頃から、おそらく煙草を吸っていたために、胸が痛くなることはよくあった。
しかし、それはほんの数秒から数分で消えるものであり、何時間も続くということはなかった。
「これは、あの世のO先輩から呼ばれているのではないか」と感じ、是非とも煙草をやめなければイカン、そう思った。

それまでに、何度も挫折をしたので、今回は失敗をしたくないと思った。
ネットを中心に情報を集め、どのように実行するかを考えた。

今回はニコレットに頼ることにし、ニコチン依存のメカニズムとニコレットによる禁煙のロジックをあらかじめ学んだ。

日程的には、忙しいときに禁煙を始めるのは難しい。いらいらするとついついタバコに手が伸びるから。当時、某学会の常任編集委員をしており、その仕事もあってかなり忙しかった。7月の大会で任期が終わるので、そのあとに実行することにした。

実行日は、同僚のヘビースモーカーと少なくとも3日間顔を合わせないように設定した。
禁煙初日に、近くでパカパカ吸われたら決意も怪しくなるからだ。

そんなこんなで、決行日は7月28日に設定。
3日クリアでホッ!
1月クリアで ヤッター!
しかし、その後も人が煙草を吸う姿、臭いが気になって仕方がなかった。
本当に成功したと思ったのは丸一年が経過してからかな・・・


7年と5日で2561箱吸わなかった計算になるそうで、その分吸っていれば70万円も使っていたことになるようだ。70万円かあ・・・いいギターが1本買えるなァ。

まあ、しかし、とにかく、禁煙してよかった。

2011年7月27日水曜日

中国は変わり始めた?

まあ、ひどい事故であった。
新幹線が200Km/h近いスピードで停止した列車に突っ込むなんて信じられない。
事故原因がわからないうちに先頭車両をこわして土に埋めるし、被害者の捜索は2日で打ち切るし、全く恐ろしい国である。

これだけの事故を起こした直後に、技術の優秀性を信じるとか何とか強弁するし・・・。これで、あの鉄道技術を買おうという国はなくなった、かな?そもそも、供与してもらった外国の技術を自分の技術として特許を取ろうなど・・・まあ、何というか・・・はぁ。

しかし、ネット上の批判、遺族からの批判を受けて、埋めた車輌を掘り起こしたり、鉄道省を批判する報道を管制しなかったりと、変わり始めているのも確かなようだ。

いずれ、われわれの国と同じような社会になるのかはわからんけど、少なくとも共産党から国民に少しずつ権力が移動しているのであろう。そして、これは不可逆的なものであるのだろう。たぶん。

できればお付き合いしやすい隣人になってもらいたいものだが、性格は変わらんかな?

2011年7月19日火曜日

懺悔

申し訳ない。
稲わらを3月まで水田に放置するなんて、「あり得ない」と何度も書いた。
しかしあるらしいス。

読売新聞によれば、今回汚染が問題になった肉牛の7割は宮城県産の稲わらを食べていたとし、「秋から冬にかけて雨や雪が少ない同県は、稲わらの乾燥に適し有数の供給地となってきた。」と書いている。

ニッポンは広いス。
私の常識だけで判断してはいけない。
農水省も私並みに判断したのだろうか?
これから気をつける所存です。

2011年7月16日土曜日

いったいどういう・・・

高濃度の放射性セシウムが検出された稲わらを食わせていた肉牛の出荷が続々と明るみに出てきた。牛についてはBSE問題の時にトレーサビリティ・システムを構築したのだが、今回はそれが生きた。このシステムがなければこれだけ短時間に流通網を把握できなかったはずで、不幸中の幸いであった。

農水省は「想定外」であったとしているが、全く想定外の事態だといっていい。まさか、昨秋に収穫した稲わらから、高濃度の放射性物質が出るとは誰も考えないだろう。

いったい、どのような形で稲わらを保管していたのだろうか?稲が収穫されたのは昨秋である。稲わらがそのまま水田に放置されていたとは考えられない。ロールベーラーで丸めておいても、何回も雨に当たったのではエサと言える状態ではなくなってしまうからだ。ニュースでは「3月11日以降に収穫した稲わら」などといっているが、私の常識からいえば「そんなことあるわけない」と思う。しかし、実際はあるのだろうか?そして、そんなワラを粗飼料として与えている肉牛農家がいっぱいいるのだろうか?

いずれにしろ、このように続々と出てくるのではどうにもならない。県がワラの保管状態を解明する必要があるだろう。家畜保健所の職員は今頃大わらわだ、たぶん。

当分、福島産の牛肉は敬遠されるであろう。このような事態になってしまったのでは、消費者としては当然の行動である。すでに肉からセシウムが検出されているので「風評被害」ではない。

セシウムは、比較的早く体外に排出されるから大きな心配はない、という報道があったと思う。無論、人間の話であるが、牛でもそう変わらないであろう。であれば、当面は、肥育期間を延長し、放射性セシウムの水準が下がるのを待つぐらいしか手がないのではないか。一文にもならずにつぶすよりはましなはずだ。イヤ、しかし、体外へ排出されるまでの間被爆するわけだからまずいのか・・・もうひとつよくわからない。

牛は売れずにエサ代は毎日かかる。東電は、一刻も早く積算し、賠償を行わなければならない。また、国は一刻も早く無利子の資金貸付を行うべきである。これは、時間との勝負である。早くやってもらいたい。

2011年7月12日火曜日

セシウム入り牛肉

南相馬市から出荷された牛肉から高レベルの放射性セシウムが検出されたという。
テレビのニュースでも、新聞でも、「配合飼料が不足していたため、稲ワラを食べさせた」と報道している。しかし、私の常識からすればそんなことはあり得ない。これは「誤報」か、だまされているかどっちかだ。誤報とすればメディアがあまりにも情けない。まあ、原発事故の最初の頃はまともな記事がほとんどなかったから、宜なるかな、である。日本のマスメディアには理科系センスのある人がきわめて少ない。だまされているとすれば、生産者のたちが悪いが、それぐらい見破れなければマスメディアとしては失格だ。


牛の配合飼料は、トウモロコシ、大麦圧扁、小麦ふすま、大豆粕など穀物かその副産物でできている。しかし、牛は穀物だけを食べていたら死んでしまう。必ず繊維質が必要だ。牛は反芻動物である。第1胃(ルーメン)にはプロトゾアと呼ばれる微生物がいて、その働きで発酵し揮発性脂肪酸(VFA)を産生する。そして、繊維質の飼料が胃壁を刺激することにより反芻が起こり、唾液によって中和され、さらに発酵が続く。反芻獣の消化管は、いわば「連続発酵タンク」なのである。もし、穀物だけを与えたらルーメンは急激に酸性になり、プロトゾアは死滅し、やがて牛も死ぬ。

だから、稲ワラなどの粗飼料は絶対に必要なのである。肉牛の場合、粗飼料の代表は稲ワラである。酪農では高泌乳量でかつ乳脂率を低下させないために、稲ワラよりも品質のいい粗飼料、例えば、チモシー乾草、アルファルファ乾草、ヘイキューブ、全粒綿実などを与えるが、肉牛ではそのような購入粗飼料を多く使う事例は少ない。ニュースの映像から見ると、購入したスーダングラスのようなものは食べさせている。まあ、あってもそんなところであろう。

もちろん、東電に一番の責任があるとは思う。しかし、汚染されたことがわかっているワラを毎日食べさせ、その牛を出荷したことは、生産者に重大な責任があると思う。同情はするが。

このように汚染された牛肉の流通を阻止するために、全頭検査という話が出ている。しかし、この検査はガイガー・カウンターで表面の線量を測るようなものではできず、ゲルマニウム半導体検出器が必要だ。今回出たのは、芝浦市場だと思うが、毎日数千頭の枝肉がぶら下がるこの市場で、全部からサンプルを採取し、分析をするのは不可能だ。検出器は都に数台しかないだろうし、分析に要する時間も1検体1時間程度かかると聞く。

現実的なのは、東電からの補償が受けられるまでの間、無利子で運転資金を供給するような仕組みをつくり、十分な資金で購入粗飼料が確保できるような体制が必要なのである。私は、事故から間もなく、緊急にこのようなことをやるべきだと書いた。しかし、そのような現実に対応しようとせず、原発の稼働を人質にとって、担当大臣をだましてまでも総理の椅子に座り続けるための政治ゲームをやっているようでは、菅直人はまさに万死に値する。

いい加減にしてもらいたい。

ジプシー・スイング

昔から、ブルーグラスを聞きすぎたり、やり過ぎたりして疲れると、古いアメリカン・ロックや日本のロックを聴いたりするが、ジプシー・スイングも大きな選択肢であった。最近はマヌーシュ・スイングなどともいうらしいが、大学4年生ぐらいでジャンゴを聞いて以来聞き続けている。

80年代の前半、ビレリ・ラグレーンが15歳の時に録音した"Swing 81"を聞いてブッたまげたもんだが、世の中には時々、本当にブッたまげるようなギター弾きがいるもんだ。
そのひとりが、Tommy Emmanuel であり、Joscho Stephan である。

Tommy Emmanuel は押しも押されぬフィンガー・ピッキングの第一人者であり、Joscho Stephanはジプシー・スイング界随一の早弾き王である。ワシは両方とも、ここ数年以内にYouTube上で知った。どちらも相当「ブッたまげた」。
この二人が演奏する"ハニーサックル・ローズ"はすごいよ。真ん中のお兄さんがJoscho Stephan、右がTommy Emmanuel。ジャンゴが生きていたらブッたまげるかな?


2011年7月8日金曜日

Rocky Top 再び

銀座ロッキー・トップでライブをやった。
我が大学で代々続いたバンド Smokey Mountaineers の復活ライブである。
photograph by みち


メンバーは2代目から16代目までの8人で、3ステージそれぞれにメインボーカルが替わる趣向だ。
ちなみに、ワシは16代目、この中ではもっとも若いメンバーである。

ワシは基本的にハーモニー・ボーカル係(低音部)。ギターも弾いた。

左の写真はワシがリード・ボーカルをとっているところである。





ロッキー・トップは、今年で開店してから30年になるという。
30年前、ワシは現役の16代目ベーシストであった。このお店は、ワシらが初めて出演したライブ・ハウスで、当時、神保町にあったBluegrass Innというお店と交互に、月に2回程度、コンスタントに出させてもらっていた。

初めて出演した日のことは忘れもしない・・・
みんなでこなしたステージの対価、初めてのギャラを金髪美女に取られてしまったのであった。あれからキンパツのおねーちゃんは苦手になった。この話は、以前、OB会のニュースレターに載せたことがあるので、見つけたら再録したい。

photograph by M.Yanagisawa

左の写真は30年前、1981年のワシらである。ワシが髭を生やしていないので、おそらく就職活動をしていた時期であると思う。

3年前に心筋梗塞で突然亡くられた、6代目Smokeyのボーカリスト、イヤ、日本を代表するブルーグラス・ボーカリスト、柳沢さんに撮っていただいたものだ。

われわれのステージはだいたい見に来てくれて、カバンから愛用のライツミノルタCLを取り出してはよく写真を撮ってくれたものである。

その頃、ワシもライツミノルタCLに憧れていたが貧乏学生には手が出ず、実際に購入したのは30歳になってからだった。

ステージの後ろが今よりすっきりしている。何にもなかったんだなあ。手前のサラリーマンの頭を見ると、ぴっちり七三に分けている。今はこういう人はあまり見ない。時代を感じる。

2011年6月18日土曜日

ららぽーと

ららぽーとTOKYO-BAYの西館が建て替えになるというニュースが流れている。
昔は、仕事帰りに寄ったり、日曜日に買い物に行ったりしたものだが、最近10年くらいはほとんど足を踏み入れていないので、どうなっているのかよくわからない。それにしても、オープンからもう30年経ったのだそうだ。

オープン当時のことはよく覚えている。何しろオープニングイベントのステージにワシらのバンドが出たのだから、忘れるはずもない。あれからもう30年、歳をとるわけだ。

「ららぽーと」オープニングイベントのステージで
しかし、そのイベントがいつだったのか、手元には記録がない。ネットで調べると、オープンしたのは1981年の4月2日らしいが、イベントは3月中だったような記憶がある。

そのイベント「ニッポン放送ららぽーと放送局」は、ワシらのバンドがSmokey Mountaineers(16代目)を襲名後、一番はじめの仕事だった。4月に入って間もなく、読売ホールで行われたBe Blossomというコンサートのリハーサル、そして本番があったので、ららぽーとのイベントがあったのはやはり3月中だったような気がする・・・・・・・自信はないが。

そのイベントは、ニッポン放送が丸一日「ららぽーと」からの中継で番組を作るというものであったが、われわれ学生は、番組と番組の合間に入るニュースや天気予報の時間に、現場の暇をつぶすような役割であった。だから、われわれの演奏は放送には流れなかったわけだ。われわれ以外にも、テニスルック(古い言い様だ)の女子大生が漫才をやったりしていた。確か上智大学の落研のコで、可愛かったが、全くおもしろくはなかった。
後ろに落研の女の子達が控えている。




舞台に上がる前、控え室にいると、頭がバクハツしたようなパーマのなんだか気持ち悪いお兄さんがいた。ワシは全く気がつかなかったのだが、先輩が寄ってきて「オイ、あれ、コロッケじゃないか」という。よく見ると本当にコロッケだった。そう、ちょうど漫才ブームの頃だった。
ワシらの後、ステージでは石川ひとみが出ていた。間近に見る石川ひとみは可愛らしかった。ちょうど「まちぶせ」を歌っていた頃だったようだ。