2011年6月18日土曜日

ららぽーと

ららぽーとTOKYO-BAYの西館が建て替えになるというニュースが流れている。
昔は、仕事帰りに寄ったり、日曜日に買い物に行ったりしたものだが、最近10年くらいはほとんど足を踏み入れていないので、どうなっているのかよくわからない。それにしても、オープンからもう30年経ったのだそうだ。

オープン当時のことはよく覚えている。何しろオープニングイベントのステージにワシらのバンドが出たのだから、忘れるはずもない。あれからもう30年、歳をとるわけだ。

「ららぽーと」オープニングイベントのステージで
しかし、そのイベントがいつだったのか、手元には記録がない。ネットで調べると、オープンしたのは1981年の4月2日らしいが、イベントは3月中だったような記憶がある。

そのイベント「ニッポン放送ららぽーと放送局」は、ワシらのバンドがSmokey Mountaineers(16代目)を襲名後、一番はじめの仕事だった。4月に入って間もなく、読売ホールで行われたBe Blossomというコンサートのリハーサル、そして本番があったので、ららぽーとのイベントがあったのはやはり3月中だったような気がする・・・・・・・自信はないが。

そのイベントは、ニッポン放送が丸一日「ららぽーと」からの中継で番組を作るというものであったが、われわれ学生は、番組と番組の合間に入るニュースや天気予報の時間に、現場の暇をつぶすような役割であった。だから、われわれの演奏は放送には流れなかったわけだ。われわれ以外にも、テニスルック(古い言い様だ)の女子大生が漫才をやったりしていた。確か上智大学の落研のコで、可愛かったが、全くおもしろくはなかった。
後ろに落研の女の子達が控えている。




舞台に上がる前、控え室にいると、頭がバクハツしたようなパーマのなんだか気持ち悪いお兄さんがいた。ワシは全く気がつかなかったのだが、先輩が寄ってきて「オイ、あれ、コロッケじゃないか」という。よく見ると本当にコロッケだった。そう、ちょうど漫才ブームの頃だった。
ワシらの後、ステージでは石川ひとみが出ていた。間近に見る石川ひとみは可愛らしかった。ちょうど「まちぶせ」を歌っていた頃だったようだ。

2011年6月11日土曜日

My Back Pages

たまにYouTubeから登録チャンネルの更新情報のメールが届く。
今回はThe Byrdsのビデオが登録されたというお知らせだった。
リンクされたページの動画を見ていたら、右側の関連動画にこの曲が・・・

My Back Pagesを聞くと、激しく高校時代を思い出す。
あの頃は毎日ボブ・ディランを聞いていたからナァ。
"Another Side of Bob Dylan"の代表曲。


しかし、このビデオはすごい。どうやら1992年に行われたボブ・ディランのデビュー30周年記念コンサートのようだ。
ご本人の他、ロジャー・マッギン、ニール・ヤング、トム・ペティ、クラプトン、そしてジョージ・ハリスンまで。ロジャー・マッギンの12弦ギターの懐かしい音もいいし、嬉しそうに歌うニール・ヤングもいい。

2011年6月4日土曜日

全ては終わったぜ、ベイビーブルー

醜悪なものを見せつけられた。
いわずと知れた、菅内閣不信任案否決のごたごたである。
前首相に「ペテン師」と呼ばれる現首相。
確かにここ何代か続いた名門出身の首相とは違い、菅直人はものすごい粘り腰をみせている。しかし、あまりにも醜悪である。

あのような(ほぼ)ウソをついた首相を頂点とする内閣を誰が信じるのだろうか。すでに民心は完全に離反している。全く信用できないリーダーは復興の妨げにはなっても助けにはならない。全く。

一度退陣を口にしたのだから、即時退陣する以外道はないと悟るべきだ。
しかし、ものすごい権力欲だ。安倍や福田にこの粘りがあったら、もう少し世の中は変わっていたのだろうか。

とにかく、即退陣すべし。
お遍路とか言ってたんだから、新しいマッチを擦ってやり直せ。
というわけで、菅直人に Bob Dylanの It's all over now baby blue を贈る。

2011年5月25日水曜日

M澤先生への手紙

高校時代の数学を担当していただいたM澤先生に博士論文と手紙を送った。
中学から高校にかけて、数学が全くできなかったワシが、今まで、こうして数学を使いながら仕事をして来られたのもM澤先生のお陰なのだ。だから、いつかお礼をしようと思っていた。

そもそも数学がダメになったのは中学1年生にさかのぼる。

ワシの中学1年時代は真っ暗だった。
まず、入学してまもなく、同じクラスのHという男にトイレに呼び出され、ぶん殴られた。理由は、目つきが悪いとか、とってつけたようなもので、単に服従させたかったのであろう。ワシだけでなく、他に3人ほど同じ目に遭い、服従させられてしまった。トホホ・・・、情けないものである。その後Hはホンマモンのチンピラヤクザになった。それだけが救い?かな。

しばらくして、そのHにおたふく風邪をうつされた。おたふく風邪が治ったと思ったら、なんだか体がだるいことが続いたため医者に行くと、腎炎だと診断された。そのせいで夏休みまで1ヶ月ほど学校を休んだ。

そのとき数学を担当していたN先生は、見るからに気が弱そうで、ツッパリ連中からは完全にバカにされていた。数学の時間には、いつも教室の後ろで遊んでいるヤツが数人いた。
N先生は「おいおい、やめなさい。座りなさい」というが、言われている方は「なんだ、てめぇ、文句あんのかよぉ」という始末。まるで最近の学級崩壊のようだ。1971年のことだから、ずいぶんと時代を先取りしていたものだ。

そんな有様だから、前から3番目くらいまでに座っていないと授業は全然聞こえない。もともと数学嫌いなところに持ってきて、そんな授業、さらに長期の欠席で数学はさっぱりわからなくなってしまった。

中学ではその後、なんの努力もしなかったが、そんな私でも、まあ、普通に進学することはできた。
高校は、ほんわかとして平和な学校であった。毎日が楽しく、飲酒、喫煙などの悪事も覚え、勉強もせず1学期、そして夏休みを過ごした。
女の子の前で喫煙して粋がってる高1のワシ となりにいるのは先日亡くなったN君

高1の夏休み明け、最初の数学の授業はテストであった。
結果は生まれて初めての赤点であった。M澤先生は、「いいですか、これが現実ですよ。これが現実です」と私に繰り返しておっしゃったのを覚えている。

私は、反省した。
「地道に勉強しよう」、そう思った。
しかし、その反省も長くは続かず、やがて以前と同じように楽しい毎日を過ごしていったのだ。

「いいですか皆さん、だまされたと思って毎日の授業の復習だけやってみてください。必ずわかるようになります」。2年生の最初の授業でM澤先生はこうおっしゃった。その頃私は、農学部に進学したいと思っていたが、農学部はどの大学でも受験科目に数学があった。このままでは、受験を諦めざるを得ないのではないか、そう思っていた。

ここはひとつ、「だまされてみよう」と思い、毎日復習だけするようになった。昼間に一度やったことなので毎日30分程度だったのではないだろうか。しかし、その効果は抜群だった。全くわからなかった私が、ほとんど理解できるようになったのだ。それまでちんぷんかんぷんだった数Ⅰまでもが、とくに復習したわけではないのにだいたいわかるようになったのには本当に驚いた。

私は一浪した後、無事、農学部に進学することができた。

大学を卒業してから農業改良普及員として農業に関わっていたが、10年目を迎える頃までに、自分の専門知識、技術のなさに限界を感じており、キチンと勉強し直したいと思うようになっていた。そこで、大学院研修に応募し、修士課程に進学させてもらった。

修士課程では農業経済を専攻したが、その中でも計量分析を中心に行う研究室に身を置いた。ゼミでは行列のイロハから、重回帰分析、主成分分析などの多変量解析、線形計画法などの数理計画法と、数学を使った分析法をそれなりにみっちりと学んだ。おわかりの方もおられるかも知れないが、このブログのタイトル「LPなんて嫌いだぁ」の「LP」とは線形計画法のことである。

その後戻った職場では、農業経営分析を担当し、回帰分析をはじめとした計量分析、LP、DEA等の数理計画法を使いながら仕事をしてきた。数学をもっとも苦手としていたワシが、おそらく同級生の誰よりもいちばん長く数学を使ってきた。本当に不思議なものである。これも、高校時代のM澤先生の指導のお陰である。だから一度お礼を申し上げなければならないと思っていたのである。

論文を送ったM澤先生からメールが返ってきた。
当然私のことは覚えておられなかった。しかし、メールには「「現実から決して目を背けるな」と生徒に42年間、語り続けて来ました。××さん(註:ワシのこと)のような生徒を教えていたことを、改めて嬉しく思います」とあった。
どうやら喜んでいただけたようだ。

ドクターをとって1年、M澤先生へ御礼を申し上げ、肩の荷が下りた。これでやっと私の「学位取得活動?」が終わったような気がする。

明日から新たな気持ちで頑張ろう。

2011年5月17日火曜日

Kingmax 死す

アンドロイド版winamp ジャケット写真はFather of Bluegrass Bill Monroe 先生である。
htc Aria用にmicroSDhcを買った。
安さに負けてKingmaxの16GBにした。
今まで使ってきた東芝gigabeatのメモリが4GBで、いつも満杯だったので、これからはメモリをいっぱい積んだAriaで音楽を聴くようにし、メモリ節約で音楽出し入れの生活から解放されようと思ったのだ。

メモリを買うのはいいけど、その前にどのソフトで音楽を聴くのか、それも検討する必要があった。標準の音楽ソフトだと、アルバムの中身がABC順に演奏されてしまい具合が悪い。かといって、ファイル名のアタマに手動で番号を振るようなヒマもない。ネット上の情報から、winampがいいという情報を得た。何でも、PCもスマートフォンもwinampにすれば無線LANでファイルが転送できるのだという。

試みに、アンドロイド側にwinampをインストールし、適当なアルバムを数枚分スマートフォンにコピーしてみる。アルバムの中身はキチンとmp3のタグ通りの順番で演奏された。gigabeatでは「ジャンル→アルバム」で聞きたいものを探していたのだが、winampは「ジャンル→曲」でしか検索できないのはチト痛いが、まあいいだろう。

本格的な作業をするため、まずはPCにwinampをインストールする。
むか~し使ってたけど、本当に久しぶり。クセのある画面にちょっと懐かしくなる。しかし、使い方はよくワカラン。

次に、楽曲整理。といってもたいしてすることはない。音楽ファイルの場所を指定し、レコードからデジタル化したwavファイルをライブラリから外す程度のことである。
もっとも時間がかかったのが、偉大なるブルーグラスの父、ビル・モンローの楽曲整理であった。手元にあったmp3ファイルは、ほとんどタグが付けられていなかったため、それに時間を相当取られてしまった。

さあ、漸くスマートフォンに16GBのmicroSDhcをセットし楽曲の転送である。
スマートフォン側のwinampを起動して、wifi同期を許したり・・・う~、細かい作業の内容は忘れた。
とにかく、PCのwinampに登録された楽曲を全て無線LANで転送して寝た。明日の朝はきっと全部転送されているだろう。

転送はアーティストのABC順に行われたようだ。寝る前に見ていたら延々とビル・モンローの曲が続いていたのだが、朝起きてみるとやっとビル・モンローが終わりBからCに移ったところ・・・。こりゃやってられんワイ、ということで無線LANを止め、usb経由の転送に変更した。

usb経由は早い早い。ビュンビュンという感じで転送されていく。こんなに早くて大丈夫なのだろうか・・・。しばらく放って置いたら、止まってしまった。よく見ると、「SDカードが取り外されました」と書いてある。もちろん、カードは取り外していない。だいたい、スマートフォンの中にあるのに、転送中にどうやって取り外すのか。

結局カードはそこでお亡くなりになったようだ。何度出し入れしても認識されず、PCで初期化しようとしてもできず、どうにもならなかった。で、お店に持って行ったら、ちょっと見た後、すぐに交換してくれた。

デジモノの設定がうまくいかないとホントに疲れる。
そんなこんなを何日間か続け、目の下にクマを作り疲れ切ってしまった。
しかし、現在ではご機嫌に音楽を聴くことができている。しばらくはこのまま行こう。

2011年5月8日日曜日

スマホ、スマホ、スマホ

スマートホン、またはスマートフォンと呼ばれるものを買った。
実は先月上旬のことで、もう1ヶ月近く経ってしまった。
ブツはhtc Ariaで、一部で結構人気が出ているものだ。
現行のスマートフォンの中では安い部類に属するのだが、なかなか質感が高くてよい。
サイズも小さく持ちやすいが、めがねをかけていないと老眼には厳しい。
テザリングができるところが気に入って買ったのだが、テザリングの対象物であるEeePcを娘と一緒に旅立たせてしまったため、未だに試していない。

本体価格は最初に2万円ほどを支払い、あとは月々400円を支払う方式で、通信料(通話料除く)と合わせても5千円でおつりが来る。たぶん、今、国内で一番維持費のかからないスマートフォンである。本体代金の2万円はエコポイントで支払ったため、とりあえずの出費はナシ。

息子がiPhoneを持っていて、四六時中いじっているものだから「しょうがねえなぁ」と思っていたのだが、自分も全く同じだった。アンドロイドの方が設定するところが多いらしいので、こっちの方がいじる部分がいっぱいある。パソコンと同じでソフトの導入と設定にはまると、あっという間に時間が過ぎていく。

それにしても、gmailはもちろん、googleカレンダーとの同期 、各種情報をEvernoteによってPCと共有できるなど便利なことはいっぱい。もちろんgoogleマップは素晴らしい。道を歩いていて現在位置のストリートビューを出したりすると、目の前の景色がまるでカメラで写したように写っている。必要かどうかはともかくとして、スゲエ。

先週はPCと音楽を共有するため、winampを導入し、その設定にハマり、今日は、新たなメールソフト(K9mail)を導入し、その設定にはまった。

余裕ができたらもっと細かいことを書こうと思うが、余裕ができる頃にはなんにも覚えてないと思う。イヤだねえ、歳とると。

2011年5月5日木曜日

My walkin' shoes don't fit me any more !

タイトルはジミー・マーチンの当たり曲だが、私はどっちかというとHere Todayでのビンス・ギルの方をよく聞いたものである。

さて、タイトルとはチト違うんだが、長年履いてきた靴が壊れた。
一昨日、叔父の通夜に行った。
何でもいつも通りに起床して、ご飯もシッカリ食べて病院に薬をもらいに行くと自転車で出かけたという。病院の受付に診察券を出すところで倒れたらしい。脳梗塞だったようだ。86歳。PPKという、ある意味、うらやましい最後だった。PPKはいわずと知れた「ピンピン・コロリ」ですよ。

冠婚葬祭の時は、普通黒い靴を履く。誰でもそうだ。私は黒い靴は一足しか持っていない。その靴はREGALのウィングチップなんだが、私が就職した年に購入したものである。爾来29年、いくら年に数回しか履かなかったとはいえ、まあ、よく持ったものである。

通夜の席、何か足の裏に違和感が・・・と見ると、右足の底がパックリと割れているではないですか。
ヤバイ、明日の告別式はどうしよう・・・他に黒い靴はないし。

しかし、これは何回か経験した感覚だぞ・・・と思いだしてみると4年前、仕事で行った梨畑のそばで足に違和感が・・・ふと見ると靴底に亀裂が。最近流行のクッション性のよい合成底だったためか、その日一日でばらばらになり、裸足で車の運転をして帰ったっけ。

いやいや、さらに前にも経験した感じが・・・そう、あれは20年近く前、猪苗代方面のスキー場のこと。昼食をとろうと、スキーを脱いで階段を上がった瞬間、あれ、足裏に変な感覚・・・ふと見るとスキー靴がパッカリ。そのときも昼食の時間に両足ともパッカリ割れた。おそらくは長い時間をかけた加水分解。しかしほぼ同時刻に両足とも壊れたのには、見事、といいたくなったものだ。

それにしても困ったのは、告別式の靴。
父を実家に送り届け時計を見ると午後9時。
今から寄ってやっているところは・・・と、htc Ariaで検索・・・おっ、津田沼イオンが10時までやっているぞ・・・ということでイオンのアスビーへ行き、アスビーズ・ブランドのお安いプレーントウを買うことができた。

長年お世話になった靴、ねんごろに弔ってやろうと思っております。

2011年4月30日土曜日

金色のライオン

もう数週間前になるが、岡林信康の「金色のライオン」をレコードからデジタル化した。
このレコードは私にとって思い出深いアルバムなのである。
1973年。私は、中学3年生であった。中学2年生でギターを弾きはじめ、まもなく岡林信康を聞くようになった。しかし、その頃、岡林はすでに表舞台からは去っていて、何故いなくなったのか、今何をしているのかということが私にはわからなかった。

インターネットで検索どころか、コンピュータといえば大型の「電子計算機」しかない時代、「なぜ?」に答えてくれるものは、たまに「新譜ジャーナル」などの雑誌に出る記事だけだった。中学2年生を通して知ることができたのは、1970年に失踪してしまったこと、そして京都府の山奥で農業をやって暮らしていることだけだった。

「金色のライオン」は、初めて発売日を待って買った岡林信康のレコードだった。発売されたまさにその日に手に入れた。しかし、その翌日だったか、郵便で同じレコードが送られてきたのであった。発売日の直前に加藤和彦のラジオ番組のプレゼントに応募し、当たってしまったのだ。まさか、ラジオのプレゼントなど当たるわけがないと思い、発売日にLPを買った私は、2枚のLPを抱えて呆然としてしまった。嬉しいような、悔しいような・・・。結局、1枚はその当時の担任だったアキヤマ先生に売却してしまった。しかも、定価で・・・。今でも先生に会うたびにその話が出る。よほど印象に残る出来事であったのだろう。

「金色のライオン」は、岡林信康の転換点のアルバムだったように思う。それまでのアルバムでは、激しい言葉を自分の外に向かって投げつけてきたのだが、このアルバムでは自分の内面に向き合い、優しい言葉で歌っている。それまでにない明るい感じがする。ちょうど、ボブ・ディランの"New Morning"に似た印象のアルバムである。

アルバムのプロデュースをしたのは、当時、解散寸前の「はっぴいえんど」にいた松本隆だった。全曲ドラムもたたいている。アルバム全てを通して後藤次利のベースが非常にいい。

岡林は私にとって特別な存在である。最近は、というか、もうずいぶん前から岡林はほとんど聞かなくなっているのだが、やっぱり特別なのである。多感な10代の前半、岡林によって反体制を知り、部落差別を知った。そして、それまで考えたこともなかった「農業」の意味を考えるようになった。岡林信康に出会っていなければ、間違いなく今の仕事はしていなかったであろう。

私は、岡林の数あるアルバムの中でもこのアルバムが一番好きだ、たぶん。

2011年4月16日土曜日

春爛漫 #2

11、12と職場にカメラを持って行き、昼休みに桜を撮った。
全ての写真は、PENTAX K-x に旧東独製 Carl Zeiss JenaのFlectogon 35mm f=2.4 をつけて撮った。フレクトゴン一本勝負である。このレンズはほんとうにいいレンズだ。M42マウントのレンズを自由に使えるPENTAXというのはたいしたもんだ。ありがたい。

もう、17年も通勤しているが、毎年4月に入り桜が咲き始める頃、朝、車でこの場所にさしかかると「あー、本当に綺麗だなあ」と思うのだ。


















2011年4月11日月曜日

春爛漫

ここのところめっきり春らしくなり、東京では4月6日には桜は満開を迎えたらしい。
この写真は、10日にうちの近所をぶらぶらしたときに写した。実籾本郷公園である。


例年は満開の桜の下で多くの人が酒盛りをしているのだが、今年は明らかに少ないようだ。


しかし、若者達が楽しそうにキャッチボールをしているのを見ると、心が和む。
このお姉さんは、ソフトボール経験者らしく、ウィンドミル投法で投げていた。



2011年4月4日月曜日

サクラサク

日が暮れてから犬の散歩に行き、ふと、見上げると、桜が咲いていた。
震災があろうと、大津波があろうと、原発が壊れようと、桜は咲くのだ。

今日は娘の旅立ちの日でもあった。
娘にも桜は咲いたが、思うようには咲かなかった。
で、結局彼女が選んだ道は名古屋行きであった。

名古屋まで行って一人暮らしをして勉強するのだから、世界に通用する喇叭吹きになってもらいたい。それぐらいの覚悟でやって欲しい。
明日は入学式。きっと今頃、期待と不安で胸の中がぐちゃぐちゃになっているだろう。
何とも言えないあの気持ち。
私は、残念ながらそういう時代は過ぎてしまった。もうあのような気持ちになることはないであろう。

あの子は、適当な妥協をせず、いつも困難な道を選択しているように見える。
それは、いいことだ、きっと。
後々、大きな財産になるような気がする。
頑張って欲しい。

ガンバレ、若者よ。ガンバレ、娘。

2011年3月26日土曜日

原発事故と農業

「福島県が全農家に作業中断要請」という記事が出ている(日経web刊 2011/3/26 0:25)。
とうとうここまで来たか、という感じである。
私の立ち回り先のスーパーでは、今週に入ってからは、ほうれん草、コマツナなどの葉ものは全て千葉県産になっていた。福島の農産物は、少なくとも現状では壊滅的な被害を受けているのだと思う。野菜と酪農に限らず「稲作も様子を見よ」ということらしい。

福島産だけでなく、千葉産も旭のシュンギクで基準値を超えたほか、今日になって多古町産のほうれん草、それからお隣の東京では、東京農試の江戸川分場のコマツナからも検出されてしまった。このようなニュースが出ると、多古のほうれん草だけでなく千葉県産のほうれん草、コマツナ、江戸川産のコマツナも取引ができなくなるに違いない。

また、地震によって千葉県の穀倉地帯の香取地域で用水のパイプラインが壊れ、1/3は作付けできないというニュースも流れている。福島県の稲作も「様子を見る」ということであれば、生産目標を守らないワースト2の両県の生産量が相当減ることになり、次の米穀年度は需給が逼迫し、コメ価格が相当上昇するのではないだろうか。

いったいこの被害はどこまで広がるのであろうか。補償問題はどのように解決するつもりなのだろうか。ホビー農業をしている農家ならともかく、主業農家では近々に資金ショートを起こす経営も出てこよう。とくに、酪農家は毎日のエサ代もかなりの額にのぼり、持ちこたえられない経営がすぐにも出てくる。少なくとも、緊急に運転資金を無利子で融資するようなことをしなければならないと思う。

福島県の酪農家は、毎日、搾った牛乳を捨てている。
チェルノブイリの子供たちが甲状腺ガンになった原因は、汚染されたミルクを飲み続けたというのが大きいらしい。だから、福島の牛乳もそのまま飲むわけにはいかない。
しかし、どこかの大学の先生が書いていたのだが、捨てる必要はないのだ、という。なぜならヨウ素131の半減期は8日だからだ。もしチーズを作り、長期保存したら放射性ヨウ素は消えてなくなる。3ヶ月も経てばほとんどなくなるはずである。ヨウ素はβ崩壊でキセノンに変わるので、キセノンリッチなチーズになる。いや、キセノンは希ガスだから抜けちまうか。もし、残ってても原子軌道は全て電子で埋まっているので、何かと化合することはない。だから安全だ。たぶん。

2011年3月23日水曜日

津波が襲った地域は復興してはならない

仕事中、ツイッターのTLを覗いたら、標記の内容が書いてあってビックリ。
大前研一氏がいったのだそうだ。
津波に襲われた地域は、いつか再びおそわれるであろうから、そこを復興してはならないということらしい。

三陸では大昔から何度も津波に襲われてきて、実はあちこちに「ここから下に家を建ててはならない」という石碑があるのだそうだ。



この動画を見ると、本当に考えさせられる。
今から5年も前の放送であるというのが悲しい。
なぜ、防止できなかったのか。本当に想定外だったのか。
大昔の痛みは、話としては伝わるが、実感は伝わらない。日本人から戦争の傷みが忘れられていくのと同じだ。実感として感じた人が死んでしまえば、いくら悲惨な話を語り継いでも 、そう長く伝わるものではないのだろう。
人間なんてそんなものなのだろうか。

2011年3月17日木曜日

原発

福島第一原発がえらいことになっている。
政府もマスコミも健康には全く問題ないレベルといっているが本当なのか?
実は、すぐに逃げ出した方がいいのではないのか?
上杉隆氏のツイッターでは、すでに複数国が自国民に日本からの退避勧告を出しているという話もある。しかしわれわれはどこへ行けばいいのか。 家族もいる、ジジ・ババもいる、犬もいる、仕事もある。しかも放射能は目に見えない。何が大丈夫で、何がヤバイかワカランのだ。困ったもんだ。

東北地方の被災者の皆さんは、津波で家を奪われた上、目に見えない恐怖と直面している。
とにかく、一刻も早く封じ込めが成功するように祈るしかない、われわれとしては・・・
しかし、あそこまで暴走して封じ込めることが本当に可能なのだろうか。

なぜあれだけ注水を続けているのに燃料棒が露出してしまうのだろうか?
おそらく蒸発してしまうのだろう。原子力発電は、核分裂の時に生じる恐ろしいエネルギーを熱に変換し、蒸気を作ってタービンを回し発電している。核分裂の時に核から飛び出す中性子が別のウランの核にあたり、それが分裂しまた中性子が飛び出しという具合に連鎖するのだが、これがいっぺんに起これば原爆になるし、中性子を吸収する制御棒でうまいことコントロールすると原子炉になる。まあ、ここまでは高校の物理で習った範囲だ。

今回の事故では、最初に制御棒が入っており、核分裂の連鎖はおさまっているということだが、何しろものすごい熱を持っているために水がどんどん蒸発してしまって、燃料棒の全体を覆うに至らないということだ。 ニューヨークタイムズのマルチメディア解説が非常にわかりやすかった。英語であるが、ほとんどが絵で、文章も簡単なのでおすすめだ。しかし、たぶん登録しないと全部は読めない。

ワシのアドレスには何年も前から、毎日ニューヨークタイムズのメールが来る。その日の記事が簡単に紹介されたものなのだが、新聞の英語は難しいし、面倒くさいのでたまにしか読まない。
しかし、今回、地震が発生して以来、トップ記事は全て東北地方太平洋沖地震関連なのだ。関心の高さが伺える。とくに、オバマ政権は原発を推進しているので、今回の事故は相当注視しているはずだ。で、記事の本文もいいのだが、マルチメディア解説やらビデオやら、非常にわかりやすく伝えている。日本の新聞社に比べると一日の長があるような気がする。

とにかく、今、われわれとしては見守るしかない。
決死の覚悟の作業員のみなさまにはなんとか踏ん張っていただきたい。
総括はそのあとだ。しかし、必ず行わなければならない。自分たちを含めて。

2011年3月12日土曜日

Powerful Quake

大地震、起きてしまった。
揺れ始めたとき、トイレにいて扉がカタカタ鳴ったので、「あれ、風が出てきたのかな」と思ったら、いつまでもやまない。「こりゃあ、地震だ」と気づき研究室へ駆け上がる。

そのうち収まるだろうと思っていたら、だんだん大きくなり、いつまでも収まらない。統計資料が入っている棚をみていると、ざらざらと重たい統計書が落ちてくる。本の前にいなくてよかった。
テレビからは宮城県沖が震源だと伝わってくる。それにしちゃあデカイ、しかも長い。いったいどんな大きさなんだ。
重たい統計書がザラザラ落ちた

統計書の中でも重量級の農林水産省統計表が全部落下
我が研究室の建物は昭和40年頃、農業短大の教室として建てられた代物で、昔からよく揺れ、ちょっと体重の重いやつが早足で歩くとかなり振動する。
床は梁のあるところが高くなっているため、梁の下にいるのが一番安全だと以前から信じていた。信頼するスジからの情報ではない。ワシが勝手にそう思っているだけだ。
そこで、今回も梁の下にいて、自分のpcを押さえていた。特に、ナナオ製24型液晶ディスプレイ(高かったのよ)が落ちそうになり、ぐっと手で押さえ込んでいた。

下の写真は私のデスクである。机の上に乗っかっていた書籍、雑誌、書類がみんな落っこちて、重たい書類の入っている机の引き出しが飛び出してきた。ナナオ製24型液晶ディスプレイは右端。



ちょっと揺れが収まったので、研究室から出ると壁には新たにできたヒビが。

 外に出ると、建物の基礎が割れていた。あなおそろし。



しばらくすると西の空が暗い。みていると雲ではなく煙のようだ。真っ黒だ。
テレビのニュースからはJFEスチールの工場が燃えているといっている。
私が毎朝毎晩横を通っているところだ。すぐ隣にはJEF千葉の本拠地フクアリがある。
と思っていたらものすごい爆発音とともにビリビリッと窓をふるわせる空振が。
本当に恐怖を感じた。
東北地方の皆さんには申し訳ないが、遠く離れていて助かった。
と同時に、言語に尽くしがたい被害が出るであろうということがわかった。

下のビデオは職場の屋上から西の空を見たものである。
赤いのはJFEスチールの炎かそれともコスモの炎か。
時々炎が吹き上がるのが確認できると思う。
エライことになった、と思った。

3/13註
県警は、JFEスチールの煙は火災ではなかったと確認。この動画にある炎、それから爆発音はコスモ石油のものであろう。


2011年3月10日木曜日

フィドル2連発

ポール・ウォーレンのフィドルを2連発でどうぞ。すごいです。
まずはListen to the mockingbird。
我々が昔夢中になって聞いていたのは、すでにブルーグラス第2世代の人たち。
初めてこの曲を聴いたのはKentucky Colonelsのライブ。
そうです、スコッティ・ストーンマンのフィドルでした。
私はそれまでフィドルが嫌いだったんだけど、スコッティのモッキンバードを聞いてそれまでのフィドル嫌いがいっぺんに吹っ飛びました。
ブルーグラス第1世代、フラット・アンド・スクラッグスとフォギーマウンテンボーイズのポール・ウォーレンも負けず劣らずすごいです。


お次は、オレンジです。
モッキンバードはフォギーマウンテンボーイズですが、こちらはナッシュビルグラス時代です。
やはり、ローランド・ホワイトがいます。
どうぞ。
ブルーグラスフィドルを聞いたことのない方・・・偏見を持たずに聞いて下さいよ。
素晴らしいから。

2011年3月6日日曜日

Lester Flatt

YouTube というのは本当にすごい。
もちろん、前からいろいろ見てはいたが、時々すごいものを発見する。

今回発見したのはレスター・フラットのナッシュビル・グラスの映像である。
1971年の映像だという。ワシが中学1年生の頃だ。
そんなに古いのに、これが非常にキレイなのである。

この動画は、レスターとマック・ワイズマンがデュエットで歌う "The Bluebird Singing"である。30歳の頃参加していたバンドでやっていたので懐かしかった。
レスターの他に、アンクル・ジョッシュもいるし、ポール・ウォーレンもいる。そして、なんと、若き日のローランド・ホワイトがいる。

ワタシは非常に嬉しい。

農業普及研究を!

普及学会の大会に行ってきた。
昨年、この大会で学会賞をいただいてからもう1年、早いもんである。

今回のシンポジウムでは産地作りの普及活動について報告があった。
二つの産地作り事例とコーチング、ナレッジマネジメントの話だった。
要は、二つの事例から産地作りのためには何が必要で、普及活動をどのように組み立てていくかを整理すること、そして参加者はそれを聞いて学ぼうと言うことである。

C県のカンショの産地作りの話はよくわかった。
とくに、産地作りというものは個別経営の所得を重視して、そこからマーケティングなど必要な活動を組み立てていくというのは、スッと腑に落ちる話だった。

今まで、この種のシンポジウムは、普及職員の間でかなり行われてきたはずである。私も普及員だった若い頃に何度か聞いた覚えがある。しかし、そのどれもが「体験発表会」で終わってきたような気がする。今度のシンポジウムはコーディネーターのうまい仕切りのお陰で一歩前進したのではないだろうか。

せっかくの普及学会なのだから、産地作りに必要な(いわば)「七つ道具」とその使い方、目標設定と活動方法などを多数の事例から導き出すような仕事をしてもいいのではないか。

駆け出しの普及員の頃、何をやったらよいかわからず見よう見まねで先輩のマネをした。しかし、先輩を外すと非常に孤独な戦いを強いられる畜産担当だった私は、うまく仕事が組み立てられず、自信満々でやった仕事はほとんどなかった。10年もやったのに。

そのとき「七つ道具」のような、形式知になったものがあれば助かったと思う。現在、国内で普及学をテーマにしている研究者は数少ないであろうが、高齢化率が50%を超える地域が当たり前になってしまった、曲がり角を曲がりきってどん詰まりまで来た農業・農村に、今こそ実践的な農業普及研究が求められているのではないだろうか?

普及の力を見せつけて、事業仕分けでゼロ査定した民主党の皆さんを見返してクレ!

2011年2月28日月曜日

万年筆

近頃万年筆を使っている。
キッカケは論文の校正だった。
昨年大学に提出した学位申請論文の序章の部分を学部の研究報告に投稿し、その校正作業でかなり細かい字を書き込まねばならなかった。それまで赤入れの時に何を使ってきたかは全然意識していなかったが、ボールペンでは太く、水性ボールペンではインクがにじんだりしてうまくいかず、困った。

そこで取り出したのが、昔うちのカミさんが「赤ペン先生」をやっていたときにキープしておいた福武書店の赤ペンであった。赤入れは非常にうまくいくのだがひとつ困ったことが・・・。机の引き出しに入れておくと、いつの間にかキャップの中にインクが漏れ、手が真っ赤っかになるのである。

で、スーパーの文房具売り場で万年筆を探してみた。そこで見つけたのが、写真上の赤ペンである。プラチナ万年筆のプレピーというペン。お値段は約200円であった。なんて安いんでしょう。福武書店(現ベネッセ)で赤ペン先生に配るペンほどは細かい字は書けないものの、わりとスムーズにかける。赤入れにはちょうどよい。

黒い字も書きたいと思うようになった。実は大学に入ったとき(30年以上前)に買った、パーカーの万年筆があるのだが、他のペンで書いてみたいという気になった。仕事帰りに無印良品に寄ったとき「アルミ丸軸万年筆」(写真下)というのを買ってみた。1155円。安い。黒のカートリッジが1本付いてきた。当然ながら鉄のペン先だが、なかなかスムーズで書きやすい。

しばらくこの2本を使って仕事をしようと思う・・・が、ペンで字を書く機会はそれほど多くはないのだ。

2011年2月27日日曜日

デジタルフォトフレーム

グリーンハウスのデジタルフォトフレームだ。
自分で買ったわけではなく、娘が高校の卒業記念でもらったものである。娘は「こんなものいらない」と言い、放置されていた。それを私がもらい使おうと思っていたのだが、電源を入れると画面に縞が現れるばかりでにっちもさっちも動かない。買った店がわからないので、いつかグリーンハウスにクレームを言おうと思ったまま、また放置。結局、昨年末にグリーンハウスのサイトでサポートメールを投稿した。

ところが今度は、放置されてしまった。仕方がないので再度サポートメールを投稿したら、今度は返事が来た。何でも年末にサーバーが壊れてしまい、メールが消えてしまったとのことだ。

新品に交換されてウチに届いたフォトフレームなんだが、まあ、はっきり言って安物です。画面はやたらコントラストが高く、白いところは全部飛んでしまい、階調がうまく表現できてない。 動画も見られるらしいが、わざわざこれで見るという必然性は感じない。うーん。今、デジタルフォトフレームは結構売れているようだけど皆さんどう使っているのだろうか?教えて下さい。

とりあえず時計代わりにでも使おうかな。