2012年2月22日水曜日

月島もんじゃツアー

高校1年のクラスメートと月島にもんじゃを食べに行った。
一昨年の同窓会をキッカケに交流が復活した。
高校1年のクラスでたびたび集まるというのもめずらしいであろうが、楽しいのである。
思えば仲のいいクラスであった。夏休みには何度かキャンプにも行った。
35年以上過ぎても仲間であることに変わりはない。うむ。

まずはお参り

やだ~、今日もお金忘れちゃった。
しょうがないなあ。今日は貸さないよ。
月島に勤めて20年、もんじゃの焼き方はうまくなったぞ。






次は何食う?








佃島

2月19日、もんじゃツアーの前に佃島へ行き写真を撮った。
何年か前にPENTAX MZ-5でここの風景を撮ったことがあるが、デジタル一眼レフを買ってからは写真を撮りに訪れたことはない。デジイチもistDS、k-xと2台目だから、何年も来ていないことになる。





高層マンションの下の釣り船屋


懐かしい井戸。ここには結構ある。




住吉神社。相変わらずFA43mmは素晴らしい発色。









こんな路地はいつまであるのだろうか








2012年2月19日日曜日

ウクレレベース

KALA U-BASS

ヘッドストックには、カエルが・・・
買ってしまった。
KALAのU-Bass。


このベースを知ったのはごく最近であった。
キッカケはよく覚えてないのだが、ウッドベースらしい音がするというのをネットで見つけ、この動画を見て俄然欲しくなってしまったのだ。


先週、実家に行った帰りに、船橋の伊藤楽器に寄った。
この楽器があるとの情報を見て寄ったのだ。
しかし、店には見あたらず、店員に聞いてみると、「先ほど売れました」だって。

何でも、この楽器、相当人気があるらしく、通常1本売れると次に入るまで半年ぐらいかかると言われしょんぼり。
しかし、翌日電話がかかってきて、在庫があったので入荷したのだと。

弾いてみると、本当にウッドベースのような音がする。
ということで、買ってしまった。
本当に楽器だらけ。どうするんだ、我が家は。
オベーションのベース、売ろうかな・・・。



2012年1月24日火曜日

僕のコダクローム

「僕のコダクローム」という歌があった。ポール・サイモンだ。
"I got a Nikon camera"というところを「ナイコン・キャメラ」と発音するのを聞いて、「へぇ、ナイコンていうんだ」と思ったのはいつだっただろう。中学の頃か、高校の頃か。

その頃のコダックは、まさに「フィルムの王者」であった。
コダックと言えば、コダクローム、エクタクローム、そしてトライXにプラスX。フィルムの代名詞。
そのコダックが破産したという。

コダックのフィルムを初めて使ったのは、初めての自分のカメラ、アサヒペンタックスSPを持ってからしばらくしてだ。
トライXを東洋現像所(現在のimagica)で現像・プリントしてもらうとパキパキの硬調ネガになって返ってきた。なぜ硬調だったかというと、我々が使っていた安い国産の集散光式引き伸ばし機と違って、東洋現像所の引き伸ばし機は、より軟調になりやすい「散光式」だったからということを聞いたことがある。

とにかく、当時、新宿西口にしかなかった「ヨドバシカメラ」で、100フィート長尺フィルムから詰め替えた、富士フイルムのパトローネに入ったトライXを安く仕入れて旅に出たものである。

写真を始めた頃は、現像液も富士のミクロファインを使っていたが、知識が増えるとコダックD-76処方に代えた。30歳から再び写真にはまったワシは、職場に実験室があるのをいいことに、単剤の薬品を買い込んできては、フィルム用D-76現像液、印画紙用D-72現像液などを処方した。

とにかくフィルムの基準もコダック、現像液の処方もコダック、露出の基準はコダック標準グレイカードと、写真の基準は全てコダックだったのだ。

写真乾板に換わるフィルムを発明したのもコダック、35mmシネフィルムを作ったのもコダック。そのシネフィルムを使うスチルカメラを作ったのも・・・いや、これはライツであった。

現代に至る100年の間、イノベーションで写真の発展を支えたのはコダックであった。
それが、自ら作ったイノベーションであるデジタル写真につぶされてしまうとはなんたるアイロニーか。
おごれる平家は久しからず・・・。富士フイルムは非常にうまくフィルム事業からの転換を図った。小西六はフィルムから撤退した。しかし、コダックは最後までフィルム事業の収益力に寄りかかってしまった。経営とは難しいものだ。

最後に「僕の撮ったコダクローム」を。。。

世界初のカラーフィルムであったコダクロームは渋い発色で好きだったが、現像代が高く、時間がかかった。「外式」という独特の現像方式のためだ。だから、エクタクロームの方を使う機会が多かった。コダクロームはデジタル化のしわ寄せを最初に受け、切り捨てられた。残念である。

ディズニーランド 1990年頃
コダクローム64 Nikon F4 28-85mm

「消防車」にまたがり団地内を走り回る息子
コダクローム64 Nikon F4

2012年1月20日金曜日

義父のカメラ

この一年間ずいぶんとお別れが多かった。
昨年、2月、同級生のNが亡くなり、5月には叔父、11月の終わりには伯父、そして今日、義父とお別れした。

そういう年齢だと言われればそれまでだが、ずいぶんと続いたものだ。

義父は学者だった。三流研究者の私と違って、かなり高名であった。分野が全く違うのでよくはわからないのだが。

10年ほど前、進行ガンで胃を全摘した。
5年生存率から見て、大丈夫なのだろうかと思ったが、再発もせずに生き延びた。しかも、病院からもらった薬に手をつけずに、だ。ものすごい精神力と、強靱な肉体だと思った。

再びガンに冒されることはなかったが、認知症になってしまった。
意味性認知症と言われるもので、会話が成り立たないのだという。
私は、義父が認知症になってからは会っていなかったのだが、カミさんの話では相当ひどかった。

だんだんと記憶がなくなっていく・・・のかどうかはわからない。記憶があっても言葉にならなかったのかもしれない。言葉と物事との結びつきがなくなっていくのかも知れない。ともかく、自分の頭がおかしくなっていく・・・これは恐怖であったと思う。
特に、ずっと研究者として生きてきたのだから、人よりもその恐怖は大きかったのではないだろうか。
今日でその苦しみからも解放されたというわけだ。

義父は工学部画像工学科の教授だったためか、やたらといろいろなカメラを所有していた。普通の写真好きの人は、NikonならNikon、キヤノンならキヤノン、ライカならライカと系統的にボディやレンズを集める。システムカメラなのだからそれがまっとうな収集の仕方であろう。

だが、義父の所有しているカメラには系統はなかった。世界で初めてTTL露出計を組み込んだトプコンの一眼レフもあったし、ツァイス・イコンのコンテッサもあった。もちろんNikonの一眼レフなんかもあった。しかし、レンズはそれぞれに標準レンズが付いているだけで、望遠、広角なんかをそろえているわけではなかった。

そんなわけで、いろいろなコレクション(とは言い難いが・・・)の中からいくつかのカメラを貸してもらった。

もっとも思い出深いのがキヤノンⅣsbである。ぱっと見はバルナック・ライカそのものであるが、変倍ファインダーになっており、バルナック・ライカよりは使いやすいと思う。発売当時は大変な高級機で、大卒初任給の8倍以上だったらしい。
キヤノンIVsb アベノン28mm f3.5

1988年に子供が生まれ、子供の写真を撮っているうちに再び写真にはまり込んだ私は、このカメラを使って写真を撮りまくった。ライカと同様、「コトリ」という静かな音で切れるシャッターは非常に心地よかった。

しばらくの間、アサヒカメラのコンテスト(ファーストステップ)にも毎月応募していたのだが、1年あまりの間に入選したのは2回だけであった。残念ながら写真を撮る才能はあまりないらしいことがわかった私は、このしばらくあとにあった大学院の入学試験を境にコンテストはやめてしまった。

墓場-Tombstone Blues
キヤノンⅣsb トプコール5cm f1.8 ND4 ネオパン400プレスト
この写真は、1991年3月号に掲載された。タイトルは、ボブ・ディランの曲から拝借し、「墓場-Tombstone Blues」と付けた。コンテストに応募する作品の名は、はっきり言ってずさんなものが多いのだが、このタイトルは秀逸であったと、今でも思っている。

その次に掲載された写真は私の息子を被写体にしたものである。
夢現
Nikon F4 28~85mm f3.5 エクタクローム50HC
この写真は1991年6月号に掲載された。タイトルはちょっとずさんである。思いつかなかったのだろう。しかし、撮影はずいぶんと構想を重ねた記憶があり、オリジナリティはあると思う。

使用したカメラは、当時の最新鋭機であったNikon F4である。

このカメラは当時の私にはとうてい買うことができなかった。ボディだけで1ヶ月分の給料が吹っ飛ぶぐらいだ。安月給で官舎に住み、幼子を抱え、もうひとりの子供が生まれそうな身では、夢のまた夢という感じであったから、このカメラを貸してもらえたときは感激した。ものすごく重たいボディだったが、シャッターのショックが皆無というすごいカメラで、手ぶれの心配はほとんどしなかった。このカメラを使って感じたのは、オプションのストロボなどを使うとき、Nikonというのは本当によくできたシステムを作る会社だと思った。それは、今使っているフィルムスキャナなどを買ったときもそう感じた。トータルで非常によく考えられて居るなあと感心する。

義父と私は、いろいろなことを気軽に話し合うような間柄ではなく、いつも
「これ、貸してあげる。持って行きなさい」
「あ、はい、ありがとうございます」
こんな感じで、そこはかとない緊張が漂っていた。

本当はフレンドリーに写真談義なぞできればよかったのだが・・・。
しかし、貸していただいたカメラのお陰で、思い出は多数記録することができた。

だから、こう言おう。

今日までご苦労さまでした。そしてありがとうございました。
安らかに眠ってください。

2012年1月7日土曜日

A

正月休みに森達也の「A」を読んだ。

左が「A」。一番最初に森達也を知ったのは右側の「放送禁止歌」だった。
これについてもいつか書いてみようと思う。

「A」は森達也が製作したオウムに関するドキュメンタリー映画「A」の撮影に関する本である。元々は『「A」撮影日誌』という本であったらしい。

「A」は当初、テレビのドキュメンタリー番組として製作され始めた。
森は麻原逮捕後のオウム真理教内部に入り込み、当時教団の広報部長だった荒木浩に密着し、どのマスコミも行えなかったオウム真理教出家信者の暮らしの撮影に成功する。

しかし、オウムを「絶対悪」として描かない森の手法から、製作会社から製作の中止を告げられた末、契約を解除されてしまう。その後も森は単独で撮り続けるが、各テレビ局に持ちかけても鼻にもかけてもらえないどころか、話すら聞いてもらえない。

最終的に森は、映画として公開する。
国内では(従って興行的には)さっぱりであったが、ベルリン映画祭をはじめ、各国映画祭に招待され絶賛された。

これが「A」の概要であるが、私の話よりはネットで紹介された文章を読む方がよくわかるだろう。




昨年、全てのオウム関連の裁判が結審してしまったわけだが、われわれはその裁判から何を得たのであろうか?なぜあの真面目そうな若者達はオウム真理教に入り、あのような事件を起こしてしまったのだろうか?

警察も、マスコミも、われわれも、オウムを絶対悪として敵視し、社会からはじき出すことに熱中した。そして、何故彼らがあのような事件を起こそうとしたのか、本当のところは一切明らかにしてこなかった。

オウムに限ったことではないのだが、われわれ日本人(ということなのかな?)は、当初、「いったい何でだろう。何でこんなことを・・・」と不思議に思ったことでも、一度記号化されてしまうと一切考えなくなる。この場合「オウム=絶対悪」という記号化が行われてしまうと、オウムのやったことを聞いても「なぜこのようなことを・・・」という疑問をパスしてしまう。疑問をパスすることで思考の節約をする人間本来の性質なのかとも考えられるが・・・どうなんでしょう?
政治でも、小泉の「郵政民営化」とか、民主党の「政権交代」とか標語化、記号化が行われると、思考をやめ標語に熱狂してしまう。三国同盟、八紘一宇、鬼畜米英みんなそうかも知れない。おっと、これは昨日「天声人語」に書いてあったものかな?

とにかく、オウムに関しては、なぜあのようなことになったのか本当に明らかにする必要があると思う。

私自身、「A」も、その後作られた「A2」も見ていない。しかし、近所のビデオ屋さんにはおいてない。ちょっと離れたところにあるTSUTAYAにもおいてなかった。しかし、いつか見てみたいと思う。また、森が渾身の力を込めて書いたという「A3」も読んでみようと思う。

2011年12月31日土曜日

2011年暮れ

2011年が暮れていきます。
どこでもみんな書いてますが、2011年は忘れがたい年になりました。
私の被害はたいしたこたあありません。しかし、ありました。
瓦がズレ(自分で並べ直した)、壁にヒビが入り・・・地震保険はかけてないし。
カミさんは地震直後に会社を出たのに家には帰り着けず、ワシは真夜中の渋滞の中、わずか数百メートルを1時間かけて進み、家に到着したのが午前1時過ぎ。

その後起きた原発事故は、悪夢と言わずなんといおう。
第一報を聞いたときは、仕事を捨ててどこかに逃げようと思ったほど。
官房長官の言う「ただちに影響はありません」という言葉は全く信用できませんでしたな。
ワシの原子力に関する知識は、高校の物理の時間でやったごくわずかな知識。
しかし、そこから考えてもこれは相当やばいことになるとは思いました。
困ったことに、本当にそうなった。
震災で散乱したワシのデスク



震災とは関係ないが、娘は受験に失敗し、名古屋へ。
息子の就職は見つからず。

震災からの復興、経済の舵取り、とくにデフレからの脱却。これらは民間にはできない。
どうしても国家の運営に頼らざるを得ない。
しかし、政府はあのていたらく。
デフレ脱却のために、何故、通貨供給量を増やさない?
何故、今消費税増税なのか?
何故消費税なのか?

しかし、あの政府を作ったのはわれわれなのであります。


おそらく、忘れようにも忘れられない年になりましょう。
来年は明るい未来が待っている、そんな感覚が持てる年になって欲しい、それを切に願います。


明るい明日を感じさせる夕暮れ 明るい未来を期待したいものでアリマス


2011年12月30日金曜日

東大、上野 2011クリスマス


工学部列品館前
東大へ行った。
去年も一度写真をupしたが、今年も同じ学会の理事会に出席するために行ったのだ。
ちょっと時間より早く行ったので、農学部でないところへ行ってみた。
初めてではないんだけど、こっちに来ることは滅多にない。
正門から安田講堂へ向かう。
歩き始めてすぐ、左側を見ると「工学部列品館」と書いてあった。
「そうか、これが東大闘争の時の攻防戦を展開したところか」と感慨深い。
とは言っても、当時、ワシは小学生。
立花隆の「中核vs革マル」を読んだ程度の知識なんですけども。
しかし、立派な建物だ。こんな建物を戦場にするとはけしからん。
登録有形文化財。


安田講堂前の家族 幸せそう!

かつて全共闘と警察が攻防を繰り広げていたところで、いまは幸せそうな家族が写真を撮っていた。幸せそうだなあ。うちも20年くらい前はこんなんだった。あの頃はよかったなあ・・・。

安田講堂

法学部 …歴史を感じる
法学部の建物は、またとても立派。wikipediaで調べたところ「法文2号館」という建物で、登録有形文化財、1938年完成だと。何とも立派な建物ではある。

ここも東大闘争で重要な事件が起きたところらしい。立花隆の前掲書によれば、1969年1月の東大安田講堂決戦の時、

「安田講堂を全共闘が守り、大きなセクトがそれぞれ、中核派は法研、ML派は列品館というように、主要な建物を各セクトがひとつずつ受け持った。革マル派が受け持ったのは法文二号館で・・・<中略>・・・ところが、いよいよ明日早朝に機動隊導入という日の夜になって、革マル派は全員引き上げてしまったのである。」

これが世に言う革マル派の「敵前逃亡事件」で、この事件により革マル派と他のセクトの間に取り返しの付かない亀裂が生じたということである。その後、革マル派と中核派は血で血を洗う内ゲバを繰り広げていくわけである。まあ、私自身には何の関わりもない昔の話ではあるが、「中核vs革マル」という本のインパクトが私にこんなことを思い起こさせたのであるから、やっぱり立花隆はスゴイ。

しかし、このゴシック様式の建物は素晴らしい。こんなところで研究活動ができるのは東大生だけだ。学会の大会で、いろいろな大学を見るけれど、こんなところは他にない。私の大学なんか、どう見ても団地のようだった。ま、歴史のない、多くの国立大学はそうだ。


不忍池夕刻
会議が終わって、上野まで歩く。
不忍池は相変わらずいい景色。スカイツリーができてからは初めてきたのかな。
何人もの人が携帯で写真を撮っていた。
この人はランニングだかウォーキングの途中のようだ。



アメ横

年末のアメ横で買い物をしたことはない、たぶん。
しかし、まあ、すごい人だった。でも、テレビのニュースで見るほどではなかったから、今年はそれほどでもないのかもしれない。まあ、世の中不景気であるからして。

来年は、この閉塞した社会を、少しはいい方向に向かわせてほしい。
しかし、政治があの様子では・・・
民主党政府は公約はほとんど何一つ守れず、とうとう消費税増税を決めてしまった。
デフレを克服するのが何にもまして重要であるのに、そのことはほとんど話題に上らない。
震災後の運営もひどかった。今頃復興庁を作ってどうするのよ。
後藤新平は関東大震災に襲われた晩に復興事業の骨子を作ったという。
世の中は進歩したはずなのに、政治家はものすごく退歩していると言うことか。
しかし、あのような政権を作ったのは我々なんである。残念なことに。
これが、民主主義というものなのだ。
民主主義が必ずよい結果をもたらすわけではないが、しかし、最悪な結果を招きにくい、「よりまし主義」だ。ワシも一応それを信じている。
でも、現状は最悪に見える。
何とかならないものだろうか。