左が「A」。一番最初に森達也を知ったのは右側の「放送禁止歌」だった。 これについてもいつか書いてみようと思う。 |
「A」は森達也が製作したオウムに関するドキュメンタリー映画「A」の撮影に関する本である。元々は『「A」撮影日誌』という本であったらしい。
「A」は当初、テレビのドキュメンタリー番組として製作され始めた。
森は麻原逮捕後のオウム真理教内部に入り込み、当時教団の広報部長だった荒木浩に密着し、どのマスコミも行えなかったオウム真理教出家信者の暮らしの撮影に成功する。
しかし、オウムを「絶対悪」として描かない森の手法から、製作会社から製作の中止を告げられた末、契約を解除されてしまう。その後も森は単独で撮り続けるが、各テレビ局に持ちかけても鼻にもかけてもらえないどころか、話すら聞いてもらえない。
最終的に森は、映画として公開する。
国内では(従って興行的には)さっぱりであったが、ベルリン映画祭をはじめ、各国映画祭に招待され絶賛された。
これが「A」の概要であるが、私の話よりはネットで紹介された文章を読む方がよくわかるだろう。
昨年、全てのオウム関連の裁判が結審してしまったわけだが、われわれはその裁判から何を得たのであろうか?なぜあの真面目そうな若者達はオウム真理教に入り、あのような事件を起こしてしまったのだろうか?
警察も、マスコミも、われわれも、オウムを絶対悪として敵視し、社会からはじき出すことに熱中した。そして、何故彼らがあのような事件を起こそうとしたのか、本当のところは一切明らかにしてこなかった。
オウムに限ったことではないのだが、われわれ日本人(ということなのかな?)は、当初、「いったい何でだろう。何でこんなことを・・・」と不思議に思ったことでも、一度記号化されてしまうと一切考えなくなる。この場合「オウム=絶対悪」という記号化が行われてしまうと、オウムのやったことを聞いても「なぜこのようなことを・・・」という疑問をパスしてしまう。疑問をパスすることで思考の節約をする人間本来の性質なのかとも考えられるが・・・どうなんでしょう?
政治でも、小泉の「郵政民営化」とか、民主党の「政権交代」とか標語化、記号化が行われると、思考をやめ標語に熱狂してしまう。三国同盟、八紘一宇、鬼畜米英みんなそうかも知れない。おっと、これは昨日「天声人語」に書いてあったものかな?
とにかく、オウムに関しては、なぜあのようなことになったのか本当に明らかにする必要があると思う。
私自身、「A」も、その後作られた「A2」も見ていない。しかし、近所のビデオ屋さんにはおいてない。ちょっと離れたところにあるTSUTAYAにもおいてなかった。しかし、いつか見てみたいと思う。また、森が渾身の力を込めて書いたという「A3」も読んでみようと思う。
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