2011年4月30日土曜日

金色のライオン

もう数週間前になるが、岡林信康の「金色のライオン」をレコードからデジタル化した。
このレコードは私にとって思い出深いアルバムなのである。
1973年。私は、中学3年生であった。中学2年生でギターを弾きはじめ、まもなく岡林信康を聞くようになった。しかし、その頃、岡林はすでに表舞台からは去っていて、何故いなくなったのか、今何をしているのかということが私にはわからなかった。

インターネットで検索どころか、コンピュータといえば大型の「電子計算機」しかない時代、「なぜ?」に答えてくれるものは、たまに「新譜ジャーナル」などの雑誌に出る記事だけだった。中学2年生を通して知ることができたのは、1970年に失踪してしまったこと、そして京都府の山奥で農業をやって暮らしていることだけだった。

「金色のライオン」は、初めて発売日を待って買った岡林信康のレコードだった。発売されたまさにその日に手に入れた。しかし、その翌日だったか、郵便で同じレコードが送られてきたのであった。発売日の直前に加藤和彦のラジオ番組のプレゼントに応募し、当たってしまったのだ。まさか、ラジオのプレゼントなど当たるわけがないと思い、発売日にLPを買った私は、2枚のLPを抱えて呆然としてしまった。嬉しいような、悔しいような・・・。結局、1枚はその当時の担任だったアキヤマ先生に売却してしまった。しかも、定価で・・・。今でも先生に会うたびにその話が出る。よほど印象に残る出来事であったのだろう。

「金色のライオン」は、岡林信康の転換点のアルバムだったように思う。それまでのアルバムでは、激しい言葉を自分の外に向かって投げつけてきたのだが、このアルバムでは自分の内面に向き合い、優しい言葉で歌っている。それまでにない明るい感じがする。ちょうど、ボブ・ディランの"New Morning"に似た印象のアルバムである。

アルバムのプロデュースをしたのは、当時、解散寸前の「はっぴいえんど」にいた松本隆だった。全曲ドラムもたたいている。アルバム全てを通して後藤次利のベースが非常にいい。

岡林は私にとって特別な存在である。最近は、というか、もうずいぶん前から岡林はほとんど聞かなくなっているのだが、やっぱり特別なのである。多感な10代の前半、岡林によって反体制を知り、部落差別を知った。そして、それまで考えたこともなかった「農業」の意味を考えるようになった。岡林信康に出会っていなければ、間違いなく今の仕事はしていなかったであろう。

私は、岡林の数あるアルバムの中でもこのアルバムが一番好きだ、たぶん。

2011年4月16日土曜日

春爛漫 #2

11、12と職場にカメラを持って行き、昼休みに桜を撮った。
全ての写真は、PENTAX K-x に旧東独製 Carl Zeiss JenaのFlectogon 35mm f=2.4 をつけて撮った。フレクトゴン一本勝負である。このレンズはほんとうにいいレンズだ。M42マウントのレンズを自由に使えるPENTAXというのはたいしたもんだ。ありがたい。

もう、17年も通勤しているが、毎年4月に入り桜が咲き始める頃、朝、車でこの場所にさしかかると「あー、本当に綺麗だなあ」と思うのだ。


















2011年4月11日月曜日

春爛漫

ここのところめっきり春らしくなり、東京では4月6日には桜は満開を迎えたらしい。
この写真は、10日にうちの近所をぶらぶらしたときに写した。実籾本郷公園である。


例年は満開の桜の下で多くの人が酒盛りをしているのだが、今年は明らかに少ないようだ。


しかし、若者達が楽しそうにキャッチボールをしているのを見ると、心が和む。
このお姉さんは、ソフトボール経験者らしく、ウィンドミル投法で投げていた。



2011年4月4日月曜日

サクラサク

日が暮れてから犬の散歩に行き、ふと、見上げると、桜が咲いていた。
震災があろうと、大津波があろうと、原発が壊れようと、桜は咲くのだ。

今日は娘の旅立ちの日でもあった。
娘にも桜は咲いたが、思うようには咲かなかった。
で、結局彼女が選んだ道は名古屋行きであった。

名古屋まで行って一人暮らしをして勉強するのだから、世界に通用する喇叭吹きになってもらいたい。それぐらいの覚悟でやって欲しい。
明日は入学式。きっと今頃、期待と不安で胸の中がぐちゃぐちゃになっているだろう。
何とも言えないあの気持ち。
私は、残念ながらそういう時代は過ぎてしまった。もうあのような気持ちになることはないであろう。

あの子は、適当な妥協をせず、いつも困難な道を選択しているように見える。
それは、いいことだ、きっと。
後々、大きな財産になるような気がする。
頑張って欲しい。

ガンバレ、若者よ。ガンバレ、娘。

2011年3月26日土曜日

原発事故と農業

「福島県が全農家に作業中断要請」という記事が出ている(日経web刊 2011/3/26 0:25)。
とうとうここまで来たか、という感じである。
私の立ち回り先のスーパーでは、今週に入ってからは、ほうれん草、コマツナなどの葉ものは全て千葉県産になっていた。福島の農産物は、少なくとも現状では壊滅的な被害を受けているのだと思う。野菜と酪農に限らず「稲作も様子を見よ」ということらしい。

福島産だけでなく、千葉産も旭のシュンギクで基準値を超えたほか、今日になって多古町産のほうれん草、それからお隣の東京では、東京農試の江戸川分場のコマツナからも検出されてしまった。このようなニュースが出ると、多古のほうれん草だけでなく千葉県産のほうれん草、コマツナ、江戸川産のコマツナも取引ができなくなるに違いない。

また、地震によって千葉県の穀倉地帯の香取地域で用水のパイプラインが壊れ、1/3は作付けできないというニュースも流れている。福島県の稲作も「様子を見る」ということであれば、生産目標を守らないワースト2の両県の生産量が相当減ることになり、次の米穀年度は需給が逼迫し、コメ価格が相当上昇するのではないだろうか。

いったいこの被害はどこまで広がるのであろうか。補償問題はどのように解決するつもりなのだろうか。ホビー農業をしている農家ならともかく、主業農家では近々に資金ショートを起こす経営も出てこよう。とくに、酪農家は毎日のエサ代もかなりの額にのぼり、持ちこたえられない経営がすぐにも出てくる。少なくとも、緊急に運転資金を無利子で融資するようなことをしなければならないと思う。

福島県の酪農家は、毎日、搾った牛乳を捨てている。
チェルノブイリの子供たちが甲状腺ガンになった原因は、汚染されたミルクを飲み続けたというのが大きいらしい。だから、福島の牛乳もそのまま飲むわけにはいかない。
しかし、どこかの大学の先生が書いていたのだが、捨てる必要はないのだ、という。なぜならヨウ素131の半減期は8日だからだ。もしチーズを作り、長期保存したら放射性ヨウ素は消えてなくなる。3ヶ月も経てばほとんどなくなるはずである。ヨウ素はβ崩壊でキセノンに変わるので、キセノンリッチなチーズになる。いや、キセノンは希ガスだから抜けちまうか。もし、残ってても原子軌道は全て電子で埋まっているので、何かと化合することはない。だから安全だ。たぶん。

2011年3月23日水曜日

津波が襲った地域は復興してはならない

仕事中、ツイッターのTLを覗いたら、標記の内容が書いてあってビックリ。
大前研一氏がいったのだそうだ。
津波に襲われた地域は、いつか再びおそわれるであろうから、そこを復興してはならないということらしい。

三陸では大昔から何度も津波に襲われてきて、実はあちこちに「ここから下に家を建ててはならない」という石碑があるのだそうだ。



この動画を見ると、本当に考えさせられる。
今から5年も前の放送であるというのが悲しい。
なぜ、防止できなかったのか。本当に想定外だったのか。
大昔の痛みは、話としては伝わるが、実感は伝わらない。日本人から戦争の傷みが忘れられていくのと同じだ。実感として感じた人が死んでしまえば、いくら悲惨な話を語り継いでも 、そう長く伝わるものではないのだろう。
人間なんてそんなものなのだろうか。

2011年3月17日木曜日

原発

福島第一原発がえらいことになっている。
政府もマスコミも健康には全く問題ないレベルといっているが本当なのか?
実は、すぐに逃げ出した方がいいのではないのか?
上杉隆氏のツイッターでは、すでに複数国が自国民に日本からの退避勧告を出しているという話もある。しかしわれわれはどこへ行けばいいのか。 家族もいる、ジジ・ババもいる、犬もいる、仕事もある。しかも放射能は目に見えない。何が大丈夫で、何がヤバイかワカランのだ。困ったもんだ。

東北地方の被災者の皆さんは、津波で家を奪われた上、目に見えない恐怖と直面している。
とにかく、一刻も早く封じ込めが成功するように祈るしかない、われわれとしては・・・
しかし、あそこまで暴走して封じ込めることが本当に可能なのだろうか。

なぜあれだけ注水を続けているのに燃料棒が露出してしまうのだろうか?
おそらく蒸発してしまうのだろう。原子力発電は、核分裂の時に生じる恐ろしいエネルギーを熱に変換し、蒸気を作ってタービンを回し発電している。核分裂の時に核から飛び出す中性子が別のウランの核にあたり、それが分裂しまた中性子が飛び出しという具合に連鎖するのだが、これがいっぺんに起これば原爆になるし、中性子を吸収する制御棒でうまいことコントロールすると原子炉になる。まあ、ここまでは高校の物理で習った範囲だ。

今回の事故では、最初に制御棒が入っており、核分裂の連鎖はおさまっているということだが、何しろものすごい熱を持っているために水がどんどん蒸発してしまって、燃料棒の全体を覆うに至らないということだ。 ニューヨークタイムズのマルチメディア解説が非常にわかりやすかった。英語であるが、ほとんどが絵で、文章も簡単なのでおすすめだ。しかし、たぶん登録しないと全部は読めない。

ワシのアドレスには何年も前から、毎日ニューヨークタイムズのメールが来る。その日の記事が簡単に紹介されたものなのだが、新聞の英語は難しいし、面倒くさいのでたまにしか読まない。
しかし、今回、地震が発生して以来、トップ記事は全て東北地方太平洋沖地震関連なのだ。関心の高さが伺える。とくに、オバマ政権は原発を推進しているので、今回の事故は相当注視しているはずだ。で、記事の本文もいいのだが、マルチメディア解説やらビデオやら、非常にわかりやすく伝えている。日本の新聞社に比べると一日の長があるような気がする。

とにかく、今、われわれとしては見守るしかない。
決死の覚悟の作業員のみなさまにはなんとか踏ん張っていただきたい。
総括はそのあとだ。しかし、必ず行わなければならない。自分たちを含めて。

2011年3月12日土曜日

Powerful Quake

大地震、起きてしまった。
揺れ始めたとき、トイレにいて扉がカタカタ鳴ったので、「あれ、風が出てきたのかな」と思ったら、いつまでもやまない。「こりゃあ、地震だ」と気づき研究室へ駆け上がる。

そのうち収まるだろうと思っていたら、だんだん大きくなり、いつまでも収まらない。統計資料が入っている棚をみていると、ざらざらと重たい統計書が落ちてくる。本の前にいなくてよかった。
テレビからは宮城県沖が震源だと伝わってくる。それにしちゃあデカイ、しかも長い。いったいどんな大きさなんだ。
重たい統計書がザラザラ落ちた

統計書の中でも重量級の農林水産省統計表が全部落下
我が研究室の建物は昭和40年頃、農業短大の教室として建てられた代物で、昔からよく揺れ、ちょっと体重の重いやつが早足で歩くとかなり振動する。
床は梁のあるところが高くなっているため、梁の下にいるのが一番安全だと以前から信じていた。信頼するスジからの情報ではない。ワシが勝手にそう思っているだけだ。
そこで、今回も梁の下にいて、自分のpcを押さえていた。特に、ナナオ製24型液晶ディスプレイ(高かったのよ)が落ちそうになり、ぐっと手で押さえ込んでいた。

下の写真は私のデスクである。机の上に乗っかっていた書籍、雑誌、書類がみんな落っこちて、重たい書類の入っている机の引き出しが飛び出してきた。ナナオ製24型液晶ディスプレイは右端。



ちょっと揺れが収まったので、研究室から出ると壁には新たにできたヒビが。

 外に出ると、建物の基礎が割れていた。あなおそろし。



しばらくすると西の空が暗い。みていると雲ではなく煙のようだ。真っ黒だ。
テレビのニュースからはJFEスチールの工場が燃えているといっている。
私が毎朝毎晩横を通っているところだ。すぐ隣にはJEF千葉の本拠地フクアリがある。
と思っていたらものすごい爆発音とともにビリビリッと窓をふるわせる空振が。
本当に恐怖を感じた。
東北地方の皆さんには申し訳ないが、遠く離れていて助かった。
と同時に、言語に尽くしがたい被害が出るであろうということがわかった。

下のビデオは職場の屋上から西の空を見たものである。
赤いのはJFEスチールの炎かそれともコスモの炎か。
時々炎が吹き上がるのが確認できると思う。
エライことになった、と思った。

3/13註
県警は、JFEスチールの煙は火災ではなかったと確認。この動画にある炎、それから爆発音はコスモ石油のものであろう。


2011年3月10日木曜日

フィドル2連発

ポール・ウォーレンのフィドルを2連発でどうぞ。すごいです。
まずはListen to the mockingbird。
我々が昔夢中になって聞いていたのは、すでにブルーグラス第2世代の人たち。
初めてこの曲を聴いたのはKentucky Colonelsのライブ。
そうです、スコッティ・ストーンマンのフィドルでした。
私はそれまでフィドルが嫌いだったんだけど、スコッティのモッキンバードを聞いてそれまでのフィドル嫌いがいっぺんに吹っ飛びました。
ブルーグラス第1世代、フラット・アンド・スクラッグスとフォギーマウンテンボーイズのポール・ウォーレンも負けず劣らずすごいです。


お次は、オレンジです。
モッキンバードはフォギーマウンテンボーイズですが、こちらはナッシュビルグラス時代です。
やはり、ローランド・ホワイトがいます。
どうぞ。
ブルーグラスフィドルを聞いたことのない方・・・偏見を持たずに聞いて下さいよ。
素晴らしいから。

2011年3月6日日曜日

Lester Flatt

YouTube というのは本当にすごい。
もちろん、前からいろいろ見てはいたが、時々すごいものを発見する。

今回発見したのはレスター・フラットのナッシュビル・グラスの映像である。
1971年の映像だという。ワシが中学1年生の頃だ。
そんなに古いのに、これが非常にキレイなのである。

この動画は、レスターとマック・ワイズマンがデュエットで歌う "The Bluebird Singing"である。30歳の頃参加していたバンドでやっていたので懐かしかった。
レスターの他に、アンクル・ジョッシュもいるし、ポール・ウォーレンもいる。そして、なんと、若き日のローランド・ホワイトがいる。

ワタシは非常に嬉しい。

農業普及研究を!

普及学会の大会に行ってきた。
昨年、この大会で学会賞をいただいてからもう1年、早いもんである。

今回のシンポジウムでは産地作りの普及活動について報告があった。
二つの産地作り事例とコーチング、ナレッジマネジメントの話だった。
要は、二つの事例から産地作りのためには何が必要で、普及活動をどのように組み立てていくかを整理すること、そして参加者はそれを聞いて学ぼうと言うことである。

C県のカンショの産地作りの話はよくわかった。
とくに、産地作りというものは個別経営の所得を重視して、そこからマーケティングなど必要な活動を組み立てていくというのは、スッと腑に落ちる話だった。

今まで、この種のシンポジウムは、普及職員の間でかなり行われてきたはずである。私も普及員だった若い頃に何度か聞いた覚えがある。しかし、そのどれもが「体験発表会」で終わってきたような気がする。今度のシンポジウムはコーディネーターのうまい仕切りのお陰で一歩前進したのではないだろうか。

せっかくの普及学会なのだから、産地作りに必要な(いわば)「七つ道具」とその使い方、目標設定と活動方法などを多数の事例から導き出すような仕事をしてもいいのではないか。

駆け出しの普及員の頃、何をやったらよいかわからず見よう見まねで先輩のマネをした。しかし、先輩を外すと非常に孤独な戦いを強いられる畜産担当だった私は、うまく仕事が組み立てられず、自信満々でやった仕事はほとんどなかった。10年もやったのに。

そのとき「七つ道具」のような、形式知になったものがあれば助かったと思う。現在、国内で普及学をテーマにしている研究者は数少ないであろうが、高齢化率が50%を超える地域が当たり前になってしまった、曲がり角を曲がりきってどん詰まりまで来た農業・農村に、今こそ実践的な農業普及研究が求められているのではないだろうか?

普及の力を見せつけて、事業仕分けでゼロ査定した民主党の皆さんを見返してクレ!

2011年2月28日月曜日

万年筆

近頃万年筆を使っている。
キッカケは論文の校正だった。
昨年大学に提出した学位申請論文の序章の部分を学部の研究報告に投稿し、その校正作業でかなり細かい字を書き込まねばならなかった。それまで赤入れの時に何を使ってきたかは全然意識していなかったが、ボールペンでは太く、水性ボールペンではインクがにじんだりしてうまくいかず、困った。

そこで取り出したのが、昔うちのカミさんが「赤ペン先生」をやっていたときにキープしておいた福武書店の赤ペンであった。赤入れは非常にうまくいくのだがひとつ困ったことが・・・。机の引き出しに入れておくと、いつの間にかキャップの中にインクが漏れ、手が真っ赤っかになるのである。

で、スーパーの文房具売り場で万年筆を探してみた。そこで見つけたのが、写真上の赤ペンである。プラチナ万年筆のプレピーというペン。お値段は約200円であった。なんて安いんでしょう。福武書店(現ベネッセ)で赤ペン先生に配るペンほどは細かい字は書けないものの、わりとスムーズにかける。赤入れにはちょうどよい。

黒い字も書きたいと思うようになった。実は大学に入ったとき(30年以上前)に買った、パーカーの万年筆があるのだが、他のペンで書いてみたいという気になった。仕事帰りに無印良品に寄ったとき「アルミ丸軸万年筆」(写真下)というのを買ってみた。1155円。安い。黒のカートリッジが1本付いてきた。当然ながら鉄のペン先だが、なかなかスムーズで書きやすい。

しばらくこの2本を使って仕事をしようと思う・・・が、ペンで字を書く機会はそれほど多くはないのだ。

2011年2月27日日曜日

デジタルフォトフレーム

グリーンハウスのデジタルフォトフレームだ。
自分で買ったわけではなく、娘が高校の卒業記念でもらったものである。娘は「こんなものいらない」と言い、放置されていた。それを私がもらい使おうと思っていたのだが、電源を入れると画面に縞が現れるばかりでにっちもさっちも動かない。買った店がわからないので、いつかグリーンハウスにクレームを言おうと思ったまま、また放置。結局、昨年末にグリーンハウスのサイトでサポートメールを投稿した。

ところが今度は、放置されてしまった。仕方がないので再度サポートメールを投稿したら、今度は返事が来た。何でも年末にサーバーが壊れてしまい、メールが消えてしまったとのことだ。

新品に交換されてウチに届いたフォトフレームなんだが、まあ、はっきり言って安物です。画面はやたらコントラストが高く、白いところは全部飛んでしまい、階調がうまく表現できてない。 動画も見られるらしいが、わざわざこれで見るという必然性は感じない。うーん。今、デジタルフォトフレームは結構売れているようだけど皆さんどう使っているのだろうか?教えて下さい。

とりあえず時計代わりにでも使おうかな。

2011年2月26日土曜日

N君のこと

N君を弔いに行ってきた。
くも膜下出血で倒れて18日、とうとう息を引き取ってしまった。
52歳、あまりにも早すぎる。

ヤツとの思い出は、ほとんど喫煙・飲酒、それからバンドだ。
小田嶋隆が「ア・ピース・オブ・警句」に「私が高校生だった当時、喫煙の習慣は、現在の状況からは考えられないほど、高校生の間でも半ば常識として蔓延していた」と書いていたが、我が高校でも同様だった。小田嶋氏は2割程度が常習的喫煙者といっていたが、同じようなものか。土曜日、正門の近くにある「友楽」のもやしそばを食べに行くと、食後、上級生の何人もが店の裏へ消えていった。みんな食後の一服をしていたのだった。それが日常の光景であった。

Nに肩車されるワシ 1975年
ワシとN君は、1年から3年までいつも一緒に喫煙していた。喫煙スポットは、現代の会社などよりよほど多い。アマチュア無線部の部室、柔道部の部室、山岳部の部室、屋上。ひどいときは放課後の教室で吸ったこともあった。3年生になると、屋上の出口にあるアマチュア無線の部室まで行くのが面倒になり、教室の脇にあった階段の踊り場で吸う始末だった。今を基準にするとおよそ考えることができない「乱れた」学校であった。しかし、私の在学中、喫煙で停学になったという話はついぞ聞かなかった。はっきり言って、先生方は見て見ぬふりをしておられた。あるとき、喫煙仲間のM氏が一人階段下で喫煙中、日本史のK松先生に見つかってしまったことがあった(らしい)。しかしK松先生は、何も見なかったことにした。したがって、何も起こらなかった。

その中でも、Nはとりわけ運のいい男だった。いや、カンがよかったと言った方がいいかもしれない。1年生の時、何かの行事で教室から体育館(?あるいは他の教室)へ移動しなければならないことがあった。男子の多くが「かったりぃ、行くのやめようぜ」と行って教室に残っていた。ワシとNは喫煙に行った。その間に、教室に残った連中は教師に見つかり、正座させられる羽目になった。
また別の日、2年生か3年生の頃だったと思う・・・、数人でアマチュア無線の部室にいた。ワシが「吸おうぜ」というと、Nは「いや、今はやめた方がいい」と言った。そのほんの少し後、教師が入ってきたのである。ワシは「こいつといればぜったい捕まらない」と確信したものである。

その彼が、今度ばかりは運に見放されてしまった。なんということだろう。
今頃あの世で、好きだった寺内タケシでも弾いているのだろうか。
高校3年間、文化祭では彼と一緒にバンドをやっていた。「一緒に」と言ってもNのワンマンバンド。我々はみんなサポートメンバー。でも、バンドにおける「イロハのイ」はあそこで学んだ。
もう一度一緒にやってみたかった。

本当に残念である。

2011年2月7日月曜日

フレット音痴

前回書いた島村のLumber、高音がフラットすると書いた。
一度気になり出すと、気になって仕方がない。12フレットのハーモニクスと指で押さえた音を比べると、どの弦でもフラットする。ということは12フレットからブリッジまでの弦長が長すぎるということだ。

カタログデータによればこのギターのスケールは580mmとある。ナットから12フレットまではスケールのちょうど半分だから290mmあるはずだ。実際に測ってみると・・・287.5mmぐらい?2.5mmほど短い。アレ?こんなものか?いいのか???


じゃあ、12フレットからブリッジ・サドルまでは・・・と測ってみると、え、293mmぐらい?5mmも長いじゃないの。これじゃあ低くなるでしょうよ。

ギターやベースを弾く人はわかるだろうけれど、弦の長さは1弦よりも6弦の方が長くなっている。それはオクターブ補正のためである。・・・ということはわかっているのだが、実際にどのぐらいが適正なのか、それは全くわからなかった。そこで、工房ミネハラのホームページで勉強させていただいた。このサイトは数年前、楽器製作に興味を持った頃にずいぶんみせていただいたのだが、本当にためになる情報が多いのである。

理解はなかなか難しかったが、計算することができる程度にはわかった。計算結果は、私のLumberを正確にオクターブ調整するためには、ナットから12フレットまでの長さより、12フレットからブリッジ・サドルまでの長さが1弦で約2mm、6弦で約6mm長くする必要があるということを示していた。しかし、実際にはそれよりも3mmも長くなっている。

もし、カタログデータにあるとおり、スケールが580mmとすれば弦長全体としてはほぼ計算通りである。ということは・・・指板を2.5~3mm短く切り、ネックに貼り付けてしまったのではないか・・・。まあ、これは仮説だが、当たっているのではないだろうか。

実はこの時期、今年度の成績をまとめるために仕事がちょっと忙しい。仕事をやろうと持ち帰ってきたのに、サドルの位置の計算に時間を費やしてしまった。トホホ・・・である。

で、一生懸命計算したから、その結果をもとに島村楽器のお兄さんを説得して楽器を替えてもらおうと意気込んで行った。しかし、私の話を聞いたお兄さんは、若干困った顔をして「申し訳ありません」と述べ、たいして確かめもせず、あっさりと交換に応じてくれた。なんと、肩すかし。しかし、ありがとう島村楽器のお兄さん。これでオクターブピッチのあった楽器を手に入れることができた。一生懸命弾かせてもらいます。

2011年1月29日土曜日

ギター買っちまった

左:Lumber L100M 右:Martin D18VM
ギターを買ってしまった。
パーラーサイズ、いや、ミニサイズである。
これで我が家にあるギターは、息子のを入れて、アコースティックが4本、エレキが2本である。さらに、ベースが3本、マンドリンが1本、カミさんのバイオリンが2本、娘のラッパが2本。まさに楽器だらけだ。一家でビョーキ?

ブツの名前はLumber L100Mという。島村楽器のオリジナルである。値段は11,800円だった。とくに安売りをしていたわけではない。これが定価らしい。ワシが今まで買ったギターの中で実質価格は最低である。

Lumberは島村オリジナルの中で最下級のシリーズにつけられた名前である。一番高いのはHistoryで、これは、あのフジゲンが作っている。しかし、Lumberって、製材もしてない材木ってことか・・・もうちょっとましな名前がつけられなかったのか。

中学2年の時、一番最初に買ったギターはガットギターで、7千円だった。1972年の7千円は今の価値にすると2万円程度であろう。7,000円を1972年の消費者物価指数でデフレートすると19,284円(2005年価格)となった。そのガットギターはその楽器屋さんで最も安いギターだったから、今度買ったものはそれよりも相当安物ということになる。

実は、前から小さいギターが欲しかった。どんなものかといえば、例えば往年のMartin O16NYとか、O18とかそんなの。数ヶ月前、ミハマニューポートにあるハードオフで、KヤイリのOサイズのギターをジャンクコーナーで発見した。音もなかなかよかった。しかし、ジャンクなのに3万円は高い・・・ということでしばらく思案していたら売れてしまった。 残念。

前回のバンドの練習の時、ヤマハのFGジュニアを持っている先輩が、なかなかおもしろいという話をしていたので、島村楽器を覗いた。FGジュニアを弾いてみたのだが、音は全然よくなくて、この値段じゃあこんなものかとも思ったが、買う気は起きなかった。で、ヤマハのとなりにあったLumberも弾かせてもらった。そしたらこっちの方がずっとましな音がする。これで1万2千円ならいいやと思い、その場で買ってしまった。

毎日弾いている。安っぽいのだが結構いい音がする。その昔ブルースマンが弾いてたようなポコポコした音だ。ブルースに向いてるかも知れない。しばらくは飽きずに遊べそうである。

サドルは一応オクターブ補正がされているが、
12フレットを押さえた音は明らかにフラットしている。
いずれ牛骨で作り直してみたい。



ロゼッタは一見アバロンのように見える。
しかしこんな安楽器にそんなものをつけられるわけはなく、
ただのキラキラしたシールだった。

2011年1月23日日曜日

マンドリン

私のマンドリンである。
Hoscoが出しているBlantonというブランドのマンドリンだ。
生産国はたぶん中国。どこで作ったかは書いていない。

この楽器を買ったのは何年前だろう・・・。
たまたま立ち寄った島村楽器にぶら下がっていた。
弾かせてもらうと、ポコポコと丸い、いい音がする。
だいたい安いマンドリンというのは、ポコポコとした丸っこい音は出ないものなのでちょっとビックリした。その音が気に入ってその場で買ってしまった。5万円くらいだった。
中国製の楽器も相当品質がよくなってきた、そう思わせる一品である。

70年代は日本でもマンドリンをいっぱい作っており、ブルーベルやカスガなど安めでいい楽器を作っていたものである。しかし、80年代中頃からバンジョーもマンドリンもほとんど楽器店から消えてしまった。ギターもエレキでなければ売れないらしく、売り場は相当小さくなった。アコースティック楽器が息を吹き返したのは90年代の後半からだろうか。おそらくクラプトン以来のunpluggedブームからだろう。
ここ5,6年はバンジョーもマンドリンもそこいらの楽器屋で見るようになった。買う人はどれくらいいるんだろうか。

せっかく買ったマンドリンなのだが、ちっとも弾いていない。
だからほとんどまともに弾ける曲がない。
今日は、久しぶりに触った。
バンドでやっている新曲 "The fields have turned brown" をちょっと弾いてみたかったからだ。デビッド・グリスマンの弾くソロをちょいとマネしてみた。グリスマンのソロとはいえ、難しいものではなく、和音のトレモロが中心で、マンドリン特有のメロウな音が生きるソロである。

この曲は、私がリードボーカルなんである。
今度は歌の練習をしないと・・・

2011年1月13日木曜日

寅さん

「男はつらいよ 寅さんDVDマガジン」というのが発売された。初回は、第1作である。
買ってみた。いやあ、おもしろかった。

そもそも、寅さんシリーズが好きなわけではない、が、別に嫌いなわけでもない。
世代が世代なので、日曜日の昼下がりや「ナントカロードショー」といったテレビ番組ではよく見たものである。そのたびに笑いながら見ていたと思う。また、ワシが若い農業改良普及員だった頃、農協青年部や農家のオヤジ達の視察のあと、バスの中ではだいたい「男はつらいよ」のビデオを流していたので、結構見ているのかも知れない。

「男はつらいよ」は、テレビの水戸黄門のように予定調和のドラマである、とワシは思っている。毎週8時28分頃になると、パパパ~ン、パパパ~ン、ドコドコドコドコ と弥七のテーマが鳴り、35分頃にはご老公一行と、悪者が一触即発になり、チャンチャンバラバラのあと「この紋所が目に入らぬか」となる。だから、30分頃から見始めても、全部を見た気になれるのだ。

「男はつらいよ」も後半だけ見ても何となく全部見た気になれるような気がする。まあ、水戸黄門とは違って全編を見てみたいとは思うが。しかし、第1作は違う。全体のパワーが違うのである。かつてテレビで一度だけ見たことがあるが、笑いも涙も、その後の寅さんと段違いのパワーを感じた。それを覚えていたので、今回のDVDマガジンを買ったのだ。しかも初回は半額である。お得だ。

あらためてみてみると、みんな若いのに驚く。倍賞千恵子は本当に可愛かった。前田吟も青年だ。この映画はこの人達の若いパワーと笑いにあふれている。それから前田吟の父親役の志村喬がすばらしい。

このシリーズ、あと買うとしたらなんだろう・・・。確か浦安が舞台になった作品があった。あの、消えてしまった浦安の漁村の風景を見てみたい。

2011年1月3日月曜日

謹賀新年

あけましておめでとうございます。
今年もまた始まってしまった。あと2ヶ月で52歳になる。
光陰矢のごとし。過ぎ去ってしまうとあっという間であった。
自分が死ぬときもそんな感じで過去を振り返るんだろうなあと思うと、人生の終わりということがリアリティを持って感じられるようになる。まあ、そんな年齢なんでしょうよ、嫌だけど。

ここのところ数年は、年賀状を作るのが押せ押せになってしまい、毎年30日か31日に投函という羽目になる。今回も31日の朝に投函した。
昔は年賀状を作るのがおもしろくて、12月に入るとああでもない、こうでもないと、いろいろと思案を重ねてプリントゴッコで製作したもんである。
中でももっとも出来がよかったのは25歳の頃作った、丑年の年賀状だった。残念ながら図案は残っていない。自筆のイラストで牛がピースをしていて「能ある牛の爪はチョキ」と言っているものであった。この年賀状は各方面から多大な反響があり、「おまえ、バカだな」とか「おもしれえな」とか、「カワイイ」とかいろんな感想をもらった。牛が言ったセリフはオリジナルではなく、大学時代に同級生の上野氏が言った「能ある豚の爪はチョキ」をパクったものである。まあ、どちらも偶蹄目であり、口蹄疫にかかる動物である。当時は畜産担当普及員をしており、ホルスタインの「六白」にはこだわったものである。六白というのはホルスタインの特徴で口先、四肢、尾が必ず白くなるということによる。

今年の年賀状は、御用納めまで全く考えておらず、29日に家の掃除をしながら何となく考えたのである。ウサギの絵はうまく描けそうにないがシルエットなら・・・と考えたのがその日の夜。シルエットの向こうは・・・みんなの顔があったらいいな・・・。ということで、はじめはphotoshopで「もと5」の集合写真をウサギのシルエットの向こうに配置した。しかし、これではあんまり顔が大きすぎる・・・。

で、Googleのpicasaをいじっていたら、コラージュの機能があることがわかった。これでパソコンに入っている顔をコラージュしてみた。どうやって顔を切り取るかって・・・picasaが勝手にやっているのだよ、恐ろしいことに。それをコラージュにした。まあ、なんてすごいんでしょ、本当に現代の技術ってヤツは。で、ぎりぎり30日の夜に印刷することができたってワケです。

2010年12月26日日曜日

足の裏の飯粒

Ph.Dに挑戦したり、しようとした人はみんな知っていると思うけど、「足の裏の飯粒」というのはいったい誰が言ったんだろう。博士の学位は、足の裏の飯粒と同じで、研究者ならば取らないと気持ちが悪い。しかし、取ったところで食えるわけではない、というものだ。本当にうまいたとえ話。うますぎる。

取ったところで食えるものではないのだけれど、やっぱりホッとした。自分の中では長年の懸案事項だったから。できれば私の学位を一番心配していただいた清水先生がご存命のうちに直接報告したかったなあ。

年末を迎え、ちょうど一年前を振り返ると、本審査用の論文提出直前、デッドラインぎりぎりの調整をしていた。そういえば御用納めの日には提出論文の仮製本をしてクタクタになったことを思い出す。プリンターで100ページの論文を7部印刷し、簡易製本する。そのほかに、既公表論文、参考論文もそろえ製本する。頭で考えるとたいしたことないが、全部一人でやると本当にクタクタになった。
思えば、昨年度は本当にきつかった。よく1年で修了できたものだと思う。ラッキーだった側面もあったが、よく頑張ったなあと自分を褒めてあげたい気持ちになる。


この写真は、予備審査の直前に審査会場の教室から矢切方面を撮ったもの。独特の格好をした栗山浄水場が見える。

予備審査の日、大学は教授会で、教授会が終わり次第、私の審査会を開始することになっていた。
しかし、待っても待っても先生方は現れない。

 午後3時に学校へ行ったのに、審査が始まったのは6時過ぎだった。


今年もあっという間に過ぎていった。1日1日が年々スピードアップしていく。でも、1年前のあの日々はなんだか遠い昔のような気がする。なぜなんだろう・・・。