2012年1月24日火曜日

僕のコダクローム

「僕のコダクローム」という歌があった。ポール・サイモンだ。
"I got a Nikon camera"というところを「ナイコン・キャメラ」と発音するのを聞いて、「へぇ、ナイコンていうんだ」と思ったのはいつだっただろう。中学の頃か、高校の頃か。

その頃のコダックは、まさに「フィルムの王者」であった。
コダックと言えば、コダクローム、エクタクローム、そしてトライXにプラスX。フィルムの代名詞。
そのコダックが破産したという。

コダックのフィルムを初めて使ったのは、初めての自分のカメラ、アサヒペンタックスSPを持ってからしばらくしてだ。
トライXを東洋現像所(現在のimagica)で現像・プリントしてもらうとパキパキの硬調ネガになって返ってきた。なぜ硬調だったかというと、我々が使っていた安い国産の集散光式引き伸ばし機と違って、東洋現像所の引き伸ばし機は、より軟調になりやすい「散光式」だったからということを聞いたことがある。

とにかく、当時、新宿西口にしかなかった「ヨドバシカメラ」で、100フィート長尺フィルムから詰め替えた、富士フイルムのパトローネに入ったトライXを安く仕入れて旅に出たものである。

写真を始めた頃は、現像液も富士のミクロファインを使っていたが、知識が増えるとコダックD-76処方に代えた。30歳から再び写真にはまったワシは、職場に実験室があるのをいいことに、単剤の薬品を買い込んできては、フィルム用D-76現像液、印画紙用D-72現像液などを処方した。

とにかくフィルムの基準もコダック、現像液の処方もコダック、露出の基準はコダック標準グレイカードと、写真の基準は全てコダックだったのだ。

写真乾板に換わるフィルムを発明したのもコダック、35mmシネフィルムを作ったのもコダック。そのシネフィルムを使うスチルカメラを作ったのも・・・いや、これはライツであった。

現代に至る100年の間、イノベーションで写真の発展を支えたのはコダックであった。
それが、自ら作ったイノベーションであるデジタル写真につぶされてしまうとはなんたるアイロニーか。
おごれる平家は久しからず・・・。富士フイルムは非常にうまくフィルム事業からの転換を図った。小西六はフィルムから撤退した。しかし、コダックは最後までフィルム事業の収益力に寄りかかってしまった。経営とは難しいものだ。

最後に「僕の撮ったコダクローム」を。。。

世界初のカラーフィルムであったコダクロームは渋い発色で好きだったが、現像代が高く、時間がかかった。「外式」という独特の現像方式のためだ。だから、エクタクロームの方を使う機会が多かった。コダクロームはデジタル化のしわ寄せを最初に受け、切り捨てられた。残念である。

ディズニーランド 1990年頃
コダクローム64 Nikon F4 28-85mm

「消防車」にまたがり団地内を走り回る息子
コダクローム64 Nikon F4

2012年1月20日金曜日

義父のカメラ

この一年間ずいぶんとお別れが多かった。
昨年、2月、同級生のNが亡くなり、5月には叔父、11月の終わりには伯父、そして今日、義父とお別れした。

そういう年齢だと言われればそれまでだが、ずいぶんと続いたものだ。

義父は学者だった。三流研究者の私と違って、かなり高名であった。分野が全く違うのでよくはわからないのだが。

10年ほど前、進行ガンで胃を全摘した。
5年生存率から見て、大丈夫なのだろうかと思ったが、再発もせずに生き延びた。しかも、病院からもらった薬に手をつけずに、だ。ものすごい精神力と、強靱な肉体だと思った。

再びガンに冒されることはなかったが、認知症になってしまった。
意味性認知症と言われるもので、会話が成り立たないのだという。
私は、義父が認知症になってからは会っていなかったのだが、カミさんの話では相当ひどかった。

だんだんと記憶がなくなっていく・・・のかどうかはわからない。記憶があっても言葉にならなかったのかもしれない。言葉と物事との結びつきがなくなっていくのかも知れない。ともかく、自分の頭がおかしくなっていく・・・これは恐怖であったと思う。
特に、ずっと研究者として生きてきたのだから、人よりもその恐怖は大きかったのではないだろうか。
今日でその苦しみからも解放されたというわけだ。

義父は工学部画像工学科の教授だったためか、やたらといろいろなカメラを所有していた。普通の写真好きの人は、NikonならNikon、キヤノンならキヤノン、ライカならライカと系統的にボディやレンズを集める。システムカメラなのだからそれがまっとうな収集の仕方であろう。

だが、義父の所有しているカメラには系統はなかった。世界で初めてTTL露出計を組み込んだトプコンの一眼レフもあったし、ツァイス・イコンのコンテッサもあった。もちろんNikonの一眼レフなんかもあった。しかし、レンズはそれぞれに標準レンズが付いているだけで、望遠、広角なんかをそろえているわけではなかった。

そんなわけで、いろいろなコレクション(とは言い難いが・・・)の中からいくつかのカメラを貸してもらった。

もっとも思い出深いのがキヤノンⅣsbである。ぱっと見はバルナック・ライカそのものであるが、変倍ファインダーになっており、バルナック・ライカよりは使いやすいと思う。発売当時は大変な高級機で、大卒初任給の8倍以上だったらしい。
キヤノンIVsb アベノン28mm f3.5

1988年に子供が生まれ、子供の写真を撮っているうちに再び写真にはまり込んだ私は、このカメラを使って写真を撮りまくった。ライカと同様、「コトリ」という静かな音で切れるシャッターは非常に心地よかった。

しばらくの間、アサヒカメラのコンテスト(ファーストステップ)にも毎月応募していたのだが、1年あまりの間に入選したのは2回だけであった。残念ながら写真を撮る才能はあまりないらしいことがわかった私は、このしばらくあとにあった大学院の入学試験を境にコンテストはやめてしまった。

墓場-Tombstone Blues
キヤノンⅣsb トプコール5cm f1.8 ND4 ネオパン400プレスト
この写真は、1991年3月号に掲載された。タイトルは、ボブ・ディランの曲から拝借し、「墓場-Tombstone Blues」と付けた。コンテストに応募する作品の名は、はっきり言ってずさんなものが多いのだが、このタイトルは秀逸であったと、今でも思っている。

その次に掲載された写真は私の息子を被写体にしたものである。
夢現
Nikon F4 28~85mm f3.5 エクタクローム50HC
この写真は1991年6月号に掲載された。タイトルはちょっとずさんである。思いつかなかったのだろう。しかし、撮影はずいぶんと構想を重ねた記憶があり、オリジナリティはあると思う。

使用したカメラは、当時の最新鋭機であったNikon F4である。

このカメラは当時の私にはとうてい買うことができなかった。ボディだけで1ヶ月分の給料が吹っ飛ぶぐらいだ。安月給で官舎に住み、幼子を抱え、もうひとりの子供が生まれそうな身では、夢のまた夢という感じであったから、このカメラを貸してもらえたときは感激した。ものすごく重たいボディだったが、シャッターのショックが皆無というすごいカメラで、手ぶれの心配はほとんどしなかった。このカメラを使って感じたのは、オプションのストロボなどを使うとき、Nikonというのは本当によくできたシステムを作る会社だと思った。それは、今使っているフィルムスキャナなどを買ったときもそう感じた。トータルで非常によく考えられて居るなあと感心する。

義父と私は、いろいろなことを気軽に話し合うような間柄ではなく、いつも
「これ、貸してあげる。持って行きなさい」
「あ、はい、ありがとうございます」
こんな感じで、そこはかとない緊張が漂っていた。

本当はフレンドリーに写真談義なぞできればよかったのだが・・・。
しかし、貸していただいたカメラのお陰で、思い出は多数記録することができた。

だから、こう言おう。

今日までご苦労さまでした。そしてありがとうございました。
安らかに眠ってください。

2012年1月7日土曜日

A

正月休みに森達也の「A」を読んだ。

左が「A」。一番最初に森達也を知ったのは右側の「放送禁止歌」だった。
これについてもいつか書いてみようと思う。

「A」は森達也が製作したオウムに関するドキュメンタリー映画「A」の撮影に関する本である。元々は『「A」撮影日誌』という本であったらしい。

「A」は当初、テレビのドキュメンタリー番組として製作され始めた。
森は麻原逮捕後のオウム真理教内部に入り込み、当時教団の広報部長だった荒木浩に密着し、どのマスコミも行えなかったオウム真理教出家信者の暮らしの撮影に成功する。

しかし、オウムを「絶対悪」として描かない森の手法から、製作会社から製作の中止を告げられた末、契約を解除されてしまう。その後も森は単独で撮り続けるが、各テレビ局に持ちかけても鼻にもかけてもらえないどころか、話すら聞いてもらえない。

最終的に森は、映画として公開する。
国内では(従って興行的には)さっぱりであったが、ベルリン映画祭をはじめ、各国映画祭に招待され絶賛された。

これが「A」の概要であるが、私の話よりはネットで紹介された文章を読む方がよくわかるだろう。




昨年、全てのオウム関連の裁判が結審してしまったわけだが、われわれはその裁判から何を得たのであろうか?なぜあの真面目そうな若者達はオウム真理教に入り、あのような事件を起こしてしまったのだろうか?

警察も、マスコミも、われわれも、オウムを絶対悪として敵視し、社会からはじき出すことに熱中した。そして、何故彼らがあのような事件を起こそうとしたのか、本当のところは一切明らかにしてこなかった。

オウムに限ったことではないのだが、われわれ日本人(ということなのかな?)は、当初、「いったい何でだろう。何でこんなことを・・・」と不思議に思ったことでも、一度記号化されてしまうと一切考えなくなる。この場合「オウム=絶対悪」という記号化が行われてしまうと、オウムのやったことを聞いても「なぜこのようなことを・・・」という疑問をパスしてしまう。疑問をパスすることで思考の節約をする人間本来の性質なのかとも考えられるが・・・どうなんでしょう?
政治でも、小泉の「郵政民営化」とか、民主党の「政権交代」とか標語化、記号化が行われると、思考をやめ標語に熱狂してしまう。三国同盟、八紘一宇、鬼畜米英みんなそうかも知れない。おっと、これは昨日「天声人語」に書いてあったものかな?

とにかく、オウムに関しては、なぜあのようなことになったのか本当に明らかにする必要があると思う。

私自身、「A」も、その後作られた「A2」も見ていない。しかし、近所のビデオ屋さんにはおいてない。ちょっと離れたところにあるTSUTAYAにもおいてなかった。しかし、いつか見てみたいと思う。また、森が渾身の力を込めて書いたという「A3」も読んでみようと思う。