2011年5月25日水曜日

M澤先生への手紙

高校時代の数学を担当していただいたM澤先生に博士論文と手紙を送った。
中学から高校にかけて、数学が全くできなかったワシが、今まで、こうして数学を使いながら仕事をして来られたのもM澤先生のお陰なのだ。だから、いつかお礼をしようと思っていた。

そもそも数学がダメになったのは中学1年生にさかのぼる。

ワシの中学1年時代は真っ暗だった。
まず、入学してまもなく、同じクラスのHという男にトイレに呼び出され、ぶん殴られた。理由は、目つきが悪いとか、とってつけたようなもので、単に服従させたかったのであろう。ワシだけでなく、他に3人ほど同じ目に遭い、服従させられてしまった。トホホ・・・、情けないものである。その後Hはホンマモンのチンピラヤクザになった。それだけが救い?かな。

しばらくして、そのHにおたふく風邪をうつされた。おたふく風邪が治ったと思ったら、なんだか体がだるいことが続いたため医者に行くと、腎炎だと診断された。そのせいで夏休みまで1ヶ月ほど学校を休んだ。

そのとき数学を担当していたN先生は、見るからに気が弱そうで、ツッパリ連中からは完全にバカにされていた。数学の時間には、いつも教室の後ろで遊んでいるヤツが数人いた。
N先生は「おいおい、やめなさい。座りなさい」というが、言われている方は「なんだ、てめぇ、文句あんのかよぉ」という始末。まるで最近の学級崩壊のようだ。1971年のことだから、ずいぶんと時代を先取りしていたものだ。

そんな有様だから、前から3番目くらいまでに座っていないと授業は全然聞こえない。もともと数学嫌いなところに持ってきて、そんな授業、さらに長期の欠席で数学はさっぱりわからなくなってしまった。

中学ではその後、なんの努力もしなかったが、そんな私でも、まあ、普通に進学することはできた。
高校は、ほんわかとして平和な学校であった。毎日が楽しく、飲酒、喫煙などの悪事も覚え、勉強もせず1学期、そして夏休みを過ごした。
女の子の前で喫煙して粋がってる高1のワシ となりにいるのは先日亡くなったN君

高1の夏休み明け、最初の数学の授業はテストであった。
結果は生まれて初めての赤点であった。M澤先生は、「いいですか、これが現実ですよ。これが現実です」と私に繰り返しておっしゃったのを覚えている。

私は、反省した。
「地道に勉強しよう」、そう思った。
しかし、その反省も長くは続かず、やがて以前と同じように楽しい毎日を過ごしていったのだ。

「いいですか皆さん、だまされたと思って毎日の授業の復習だけやってみてください。必ずわかるようになります」。2年生の最初の授業でM澤先生はこうおっしゃった。その頃私は、農学部に進学したいと思っていたが、農学部はどの大学でも受験科目に数学があった。このままでは、受験を諦めざるを得ないのではないか、そう思っていた。

ここはひとつ、「だまされてみよう」と思い、毎日復習だけするようになった。昼間に一度やったことなので毎日30分程度だったのではないだろうか。しかし、その効果は抜群だった。全くわからなかった私が、ほとんど理解できるようになったのだ。それまでちんぷんかんぷんだった数Ⅰまでもが、とくに復習したわけではないのにだいたいわかるようになったのには本当に驚いた。

私は一浪した後、無事、農学部に進学することができた。

大学を卒業してから農業改良普及員として農業に関わっていたが、10年目を迎える頃までに、自分の専門知識、技術のなさに限界を感じており、キチンと勉強し直したいと思うようになっていた。そこで、大学院研修に応募し、修士課程に進学させてもらった。

修士課程では農業経済を専攻したが、その中でも計量分析を中心に行う研究室に身を置いた。ゼミでは行列のイロハから、重回帰分析、主成分分析などの多変量解析、線形計画法などの数理計画法と、数学を使った分析法をそれなりにみっちりと学んだ。おわかりの方もおられるかも知れないが、このブログのタイトル「LPなんて嫌いだぁ」の「LP」とは線形計画法のことである。

その後戻った職場では、農業経営分析を担当し、回帰分析をはじめとした計量分析、LP、DEA等の数理計画法を使いながら仕事をしてきた。数学をもっとも苦手としていたワシが、おそらく同級生の誰よりもいちばん長く数学を使ってきた。本当に不思議なものである。これも、高校時代のM澤先生の指導のお陰である。だから一度お礼を申し上げなければならないと思っていたのである。

論文を送ったM澤先生からメールが返ってきた。
当然私のことは覚えておられなかった。しかし、メールには「「現実から決して目を背けるな」と生徒に42年間、語り続けて来ました。××さん(註:ワシのこと)のような生徒を教えていたことを、改めて嬉しく思います」とあった。
どうやら喜んでいただけたようだ。

ドクターをとって1年、M澤先生へ御礼を申し上げ、肩の荷が下りた。これでやっと私の「学位取得活動?」が終わったような気がする。

明日から新たな気持ちで頑張ろう。

2011年5月17日火曜日

Kingmax 死す

アンドロイド版winamp ジャケット写真はFather of Bluegrass Bill Monroe 先生である。
htc Aria用にmicroSDhcを買った。
安さに負けてKingmaxの16GBにした。
今まで使ってきた東芝gigabeatのメモリが4GBで、いつも満杯だったので、これからはメモリをいっぱい積んだAriaで音楽を聴くようにし、メモリ節約で音楽出し入れの生活から解放されようと思ったのだ。

メモリを買うのはいいけど、その前にどのソフトで音楽を聴くのか、それも検討する必要があった。標準の音楽ソフトだと、アルバムの中身がABC順に演奏されてしまい具合が悪い。かといって、ファイル名のアタマに手動で番号を振るようなヒマもない。ネット上の情報から、winampがいいという情報を得た。何でも、PCもスマートフォンもwinampにすれば無線LANでファイルが転送できるのだという。

試みに、アンドロイド側にwinampをインストールし、適当なアルバムを数枚分スマートフォンにコピーしてみる。アルバムの中身はキチンとmp3のタグ通りの順番で演奏された。gigabeatでは「ジャンル→アルバム」で聞きたいものを探していたのだが、winampは「ジャンル→曲」でしか検索できないのはチト痛いが、まあいいだろう。

本格的な作業をするため、まずはPCにwinampをインストールする。
むか~し使ってたけど、本当に久しぶり。クセのある画面にちょっと懐かしくなる。しかし、使い方はよくワカラン。

次に、楽曲整理。といってもたいしてすることはない。音楽ファイルの場所を指定し、レコードからデジタル化したwavファイルをライブラリから外す程度のことである。
もっとも時間がかかったのが、偉大なるブルーグラスの父、ビル・モンローの楽曲整理であった。手元にあったmp3ファイルは、ほとんどタグが付けられていなかったため、それに時間を相当取られてしまった。

さあ、漸くスマートフォンに16GBのmicroSDhcをセットし楽曲の転送である。
スマートフォン側のwinampを起動して、wifi同期を許したり・・・う~、細かい作業の内容は忘れた。
とにかく、PCのwinampに登録された楽曲を全て無線LANで転送して寝た。明日の朝はきっと全部転送されているだろう。

転送はアーティストのABC順に行われたようだ。寝る前に見ていたら延々とビル・モンローの曲が続いていたのだが、朝起きてみるとやっとビル・モンローが終わりBからCに移ったところ・・・。こりゃやってられんワイ、ということで無線LANを止め、usb経由の転送に変更した。

usb経由は早い早い。ビュンビュンという感じで転送されていく。こんなに早くて大丈夫なのだろうか・・・。しばらく放って置いたら、止まってしまった。よく見ると、「SDカードが取り外されました」と書いてある。もちろん、カードは取り外していない。だいたい、スマートフォンの中にあるのに、転送中にどうやって取り外すのか。

結局カードはそこでお亡くなりになったようだ。何度出し入れしても認識されず、PCで初期化しようとしてもできず、どうにもならなかった。で、お店に持って行ったら、ちょっと見た後、すぐに交換してくれた。

デジモノの設定がうまくいかないとホントに疲れる。
そんなこんなを何日間か続け、目の下にクマを作り疲れ切ってしまった。
しかし、現在ではご機嫌に音楽を聴くことができている。しばらくはこのまま行こう。

2011年5月8日日曜日

スマホ、スマホ、スマホ

スマートホン、またはスマートフォンと呼ばれるものを買った。
実は先月上旬のことで、もう1ヶ月近く経ってしまった。
ブツはhtc Ariaで、一部で結構人気が出ているものだ。
現行のスマートフォンの中では安い部類に属するのだが、なかなか質感が高くてよい。
サイズも小さく持ちやすいが、めがねをかけていないと老眼には厳しい。
テザリングができるところが気に入って買ったのだが、テザリングの対象物であるEeePcを娘と一緒に旅立たせてしまったため、未だに試していない。

本体価格は最初に2万円ほどを支払い、あとは月々400円を支払う方式で、通信料(通話料除く)と合わせても5千円でおつりが来る。たぶん、今、国内で一番維持費のかからないスマートフォンである。本体代金の2万円はエコポイントで支払ったため、とりあえずの出費はナシ。

息子がiPhoneを持っていて、四六時中いじっているものだから「しょうがねえなぁ」と思っていたのだが、自分も全く同じだった。アンドロイドの方が設定するところが多いらしいので、こっちの方がいじる部分がいっぱいある。パソコンと同じでソフトの導入と設定にはまると、あっという間に時間が過ぎていく。

それにしても、gmailはもちろん、googleカレンダーとの同期 、各種情報をEvernoteによってPCと共有できるなど便利なことはいっぱい。もちろんgoogleマップは素晴らしい。道を歩いていて現在位置のストリートビューを出したりすると、目の前の景色がまるでカメラで写したように写っている。必要かどうかはともかくとして、スゲエ。

先週はPCと音楽を共有するため、winampを導入し、その設定にハマり、今日は、新たなメールソフト(K9mail)を導入し、その設定にはまった。

余裕ができたらもっと細かいことを書こうと思うが、余裕ができる頃にはなんにも覚えてないと思う。イヤだねえ、歳とると。

2011年5月5日木曜日

My walkin' shoes don't fit me any more !

タイトルはジミー・マーチンの当たり曲だが、私はどっちかというとHere Todayでのビンス・ギルの方をよく聞いたものである。

さて、タイトルとはチト違うんだが、長年履いてきた靴が壊れた。
一昨日、叔父の通夜に行った。
何でもいつも通りに起床して、ご飯もシッカリ食べて病院に薬をもらいに行くと自転車で出かけたという。病院の受付に診察券を出すところで倒れたらしい。脳梗塞だったようだ。86歳。PPKという、ある意味、うらやましい最後だった。PPKはいわずと知れた「ピンピン・コロリ」ですよ。

冠婚葬祭の時は、普通黒い靴を履く。誰でもそうだ。私は黒い靴は一足しか持っていない。その靴はREGALのウィングチップなんだが、私が就職した年に購入したものである。爾来29年、いくら年に数回しか履かなかったとはいえ、まあ、よく持ったものである。

通夜の席、何か足の裏に違和感が・・・と見ると、右足の底がパックリと割れているではないですか。
ヤバイ、明日の告別式はどうしよう・・・他に黒い靴はないし。

しかし、これは何回か経験した感覚だぞ・・・と思いだしてみると4年前、仕事で行った梨畑のそばで足に違和感が・・・ふと見ると靴底に亀裂が。最近流行のクッション性のよい合成底だったためか、その日一日でばらばらになり、裸足で車の運転をして帰ったっけ。

いやいや、さらに前にも経験した感じが・・・そう、あれは20年近く前、猪苗代方面のスキー場のこと。昼食をとろうと、スキーを脱いで階段を上がった瞬間、あれ、足裏に変な感覚・・・ふと見るとスキー靴がパッカリ。そのときも昼食の時間に両足ともパッカリ割れた。おそらくは長い時間をかけた加水分解。しかしほぼ同時刻に両足とも壊れたのには、見事、といいたくなったものだ。

それにしても困ったのは、告別式の靴。
父を実家に送り届け時計を見ると午後9時。
今から寄ってやっているところは・・・と、htc Ariaで検索・・・おっ、津田沼イオンが10時までやっているぞ・・・ということでイオンのアスビーへ行き、アスビーズ・ブランドのお安いプレーントウを買うことができた。

長年お世話になった靴、ねんごろに弔ってやろうと思っております。