先日、NHKの「songs」で松田聖子がヒット曲を一気に30分歌うというのをやっていた。
本人も「こんなに長いメドレーは初めてです」といっていたのだが、途中で衣装は替わるし、髪型は変わるし・・・なんだ、収録つなげただけじゃん・・・と突っ込みも入れたくなった。
ま、それはともかく、懐かしい曲が多かった。さすが松田聖子、うまい。
しかし、若い頃の、ストレートで圧倒的な声量の歌声ではない。
昔よりテクニックはあるのかも知れない。でも、タイミングを崩しすぎて「演歌臭く」なっているではないか。昔の歌声が聞きたくなった。
その晩、ビールを飲みながらamazonを見ていたら、「風立ちぬ」をバスケットに入れていた。
久しぶりに聞いた「風立ちぬ」は素晴らしかった。
フルアルバムで聞くのは、まさに数十年ぶりのことである。
大瀧詠一プロデュースのA面は、シンセの音が古くさいだけで、あとは全然古びていない。
B面は財津和夫作曲の「白いパラソル」以外は全部、鈴木茂が編曲。
作詞は全曲、松本隆であり、細野晴臣以外の「はっぴいえんど」が勢揃いである。豪華!
昔聞いていた頃は何とも思っていなかったが、B面のベースはどれも素晴らしい。ベーシストは美久月千晴という人らしい。ワシと同い年。当時は22、3のアンチャンだ。
とにかく素晴らしいアルバムである。
このアルバムは、ワシが初めて能動的に聞いたアイドル歌手のレコードであることは以前に触れたことがある。
70年代、少年だったワシは、商業主義的な「歌謡曲」は聞かなかった。
あの頃、歌謡曲とフォークやロックにはかなりの距離があった。
若い人には解らないだろう。解説が必要だ。
1960年代までは、歌手はレコード会社の専属契約であった。
歌手はレコード会社の決めた先生の歌を、レコード会社の決めたとおりに歌わなければならなかった。
この関係をぶちこわしたのは「フォーク」であった。
フォークシンガーは、自分で歌詞を書き、曲を付け、歌を歌った。
大手レコード会社が配給しない(できない)歌を発売したのはURCレコードだった。
URCは「アングラ・レコード・クラブ」の略であり、元々は岡林信康の「くそくらえ節」を世に出すために生まれた会社なのであった。
「くそくらえ節」には、単に社会批判が含まれるだけではなく、明らかに天皇を小馬鹿にした1節があった。そこが「レコ倫」に引っかかり発売できなかった。
そんな感じであるから、70年代までは、フォークやロックの歌手はテレビにもあまり露出しないし、われわれファンは歌謡曲をバカにしていた。
だから歌謡曲、アイドル歌手に熱狂することはなかった。
そのワシの態度を変えたのがこの「風立ちぬ」であったのだ。
いずみちゃんは教え子である。
というと偉そうだが、何のスキルもない私を家庭教師に雇ってくれた家の子供だった。
いずみちゃんのお母さんは、地元の駅のそばで皮膚科の開業医をしており、お父さんは音楽評論家であった。たまに「暮らしの手帖」の音楽評論で名前を目にすることがあった。
そのお父さんのお陰で、発売前にアルバムを入手することができたようだ。
そんなわけで、ワシも「風立ちぬ」を早めに貸してもらい、録音したのだった。
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勉強中のいずみちゃん |
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まだ浦安にディズニーランドができる前、彼女は、
本場アメリカのディズニーランドへ行ってきたのだった。 |
写真は何の許可も取っていないが、30年以上前の肖像だ。許してつかあさい。
いずみちゃんとはいろんな話をした。
今風に言うと「恋バナ」もした。
勉強の面倒は見たけれど、ワシにものを教えるスキルはまるでなかった。
今であれば、恥ずかしくて「家庭教師できます」とは言えない。
あれで俸給を得ていたのは罪悪と考える。今では。
とっても申し訳ないような気がする。
あれから30年以上が経った。
大学を卒業した年の夏、彼女を科学技術館で行われる三峰のバーゲンに連れて行ったことがあった。そこで日本製靴(REGAL)の靴を売っていた
マスブチに会ったのが、マスブチにあった最後の時でもあった。
オイラは彼女に何かあげられたことがあったのだろうか?
感想を聞いてみたいものである。
今、どうしているのであろうか。普通にお母さんになったのだろうか。
できれば一度お会いしてお話ししてみたいものだ。