2014年12月10日水曜日

紅葉

11月30日 六義園に行ってきた。
人、人、人。すげえ人。
紅葉や桜の時期でなければほとんど人なんかいないのに。




















いつの間にやら・・・

また放置してしまった。
昨年も8月のあと放置し、そのあとに書き込んだのは12月だった。
同じパターンだ。

ブログを書くのはちょっとしたヒマがないとできない。
9月は例年行っている大学の講義の準備やら、今となっては通常業務ではなくなった学会の準備に私的な時間を充てるのでブログどころではない。
しかし10月から全然時間がないかというとそんなことはない。惰性で書かないのだ。何となく。

昨日、娘が就職試験に受かった。らしい・・・。某楽器店。
内々定というのかな?正式の通知は一週間後の筈なのに最終面接の翌日に電話をもらった。
内定通知が届かないと何となく安心できない感じがするものの、「やったあ」というのが、本人、カミさん、ワシの偽らざる気持ちである。

娘はいつも頑張っていた。
小学校2年生からは水泳選手。毎日毎日、ほぼ一年中泳ぎ続け、JOにも2回出場した。
6年生からはクラブも転籍し、電車で通う毎日。送り迎えも結構おこなった。
しかし、タイムは伸びなくなり中学2年生でやめた。

小学校高学年からはラッパだ。
金管クラブでトランペットに出会った。
中学ではブラバンでトランペット。


クラブでホルンを吹く子が、少年少女オーケストラに入っていて、韓国に公演に行ったなどの話を聞き、自分も入りたくなり入団テストを受けた。

というわけで中2からはブラバンを続けながらオケである。
このオケには19歳までいたが、ヨーロッパ公演にも行けて、素晴らしい体験をした。


志望の高校はオケのある高校だった。
しかし、縁がなく、私立の高校に通った。

大学は、どうしても某音大に行きたかった。
しかし、そこにも振られた。
そして、新幹線で数時間離れたところへ行き、ひとり暮らしをはじめ、音大に通った。

まあ、そんなわけで、ずっと頑張っているのに、自分の思い通りに行かない青春を送ってきた。
悩み、苦しみ、頑張ったので人間的には成長したと思う。
しかし、でも、だから就職くらいは・・・と思うのが親心である。

よかった、本当によかった。

2014年8月24日日曜日

BAND WAGON!

カミさんと、鈴木茂のバンドワゴンDVD発売記念ライブに行ってきた。

鈴木茂を見るのは1月の高田漣ライブ以来だが、単独のライブは初めてだ。
渋谷に行ったのは何年ぶりだろう。近くを通ることはあっても降りたのは久しぶりだ。前に渋谷の駅前に立ったのは軽く10年以上前の話である。

ヒカリエに行ってぶらっとし、メシを食った。
カミさんはいい店が一杯入っていると喜んでおった。



ヒカリエは不思議な格好をしておる

マウント・レーニア・ホールはいつできたのか知らないが、小さいが、ゆったり座れるいいホールだった。ワシらの席は、一番後ろのミキサー卓のすぐ前であったが、ミュージシャンの顔もちゃんと見え、席を取ったときの心配は杞憂であった。

ライブの曲目は、ほぼ全曲知っていた。
というか、ほとんどの曲がバンド・ワゴンの曲目だった。
あのレコードは本当に名盤である。
全曲やったかどうかチェックはしていないが、たぶんやったのではないだろうか。
そのほかには、ラグーンから「レディ・ピンクパンサー」とか、はっぴいえんど時代の曲も何曲かやった。

サウンドは基本的に昔と変わっていない。
柔らかい物腰とちがい、鋭い音がする。
高田漣ライブの時に感じたが、高田漣の弾くギターとは「ものが違う」感じがした。
高田漣だって十分うまいのだが、鈴木茂のは「スゴイ」のだ。

曲の間のMCは、当然鈴木茂がやるのだが、しゃべり馴れていないのか、無言で無音の時間があった。ロックコンサートというものに行って、曲の間に外の音が聞こえてきたのは初めてである。
また、あんなに腰の低いロック・ミュージシャンも見たことがない。もの凄く腰が低かった。

鈴木茂のギター。左がスライド用のストラトだ。

周りのミュージシャンはベースの田中章弘しか知らなかった。
田中章弘は、「鈴木茂とハックルバック」でベースを弾いていた。当時、チョッパー・ベースの第一人者だった。ティンパンアレイのアルバムで「チョッパーズ・ブギ」を弾いていたのも、* 山下達郎のアルバムで「ソリッド・スライダー」や「ボンバー」を弾いていたのはこの人である。

最近はチョッパーとは言わず、スラップ・ベースというようだが、これだとウッドベースのスラップと区別が付かない。ちなみにワシは、ウッドベースのスラップは結構うまかったが、エレキベースのスラップはほとんどできない。

* 「チョッパーズ・ブギ」を弾いていたのは後藤次利の間違いでした。

ドラムを叩いていたのは「坂田学」という人だった。全く知らなかったが、坂田明の息子だそうである。小さい人だったがとてもパワフルなドラムだった。

これからはBand Wagonの曲だけでなく、今までやらなかった曲もやっていきたいと言っていた。次の機会があればまた出かけたいと思うが、その前にラグーンとコスモス51を探しておかないと。




2014年8月4日月曜日

ウナギを食いに行ってきた

一昨日の土曜日、鰻を食いに成田方面に出かけた。
印旛沼のほとりにある「い志ばし」という有名店だ。
http://tabelog.com/chiba/A1204/A120401/12000178/

通常はもの凄く混むらしい。
この日は決断するのが遅く、店が閉まる3時過ぎに行った。
扉を開けて「2人なんだけどまだ大丈夫ですか?」と聞くと、店のおばさんたちがジロリと見て、「う~ん」だと。
厨房のおじさんが、「2人なら大丈夫だよ」と言ってくれたので入る。
通常は番号札を取って相当待つそうだが、すぐに店に入れたので運が良かったのかも。
しかし、おばさんの感じは、どう見ても「いい感じ」ではないなあ。

オイラは鰻重、カミさんは鰻丼。違いは何かと聞くと鰻の大きさと肝吸いの有無。
待つことしばし。
待っている間に店を見回す。

雑然とした店内
 店内は、というか建物の外側も中側も、まあ、汚い。雑然としている。
ふとみると、あれ



これはキタナシュランの認定証ではありませんか。
しかも★三つ。
ペレサインもある。

鰻重はうまかった。
死ぬほどうまいかと言われると、それほどでもない。
蒸さないらしいので、ふんわり感はなくぱりっとしていた。

また食べに行きたい。
でも、次は佐原の山田に行ってみようかな。




2014年8月3日日曜日

New Sold out

先月のSmokey 16代目の練習の時、バンジョーのフクハラの持ってきたウォークマンに"New Sold out”のライブ音源が入っていた。早速ウォークマンごと貸してもらいコピーした。

"New Sold out”は、ワシが社会人になって初めてやったバンドである。

1983年のことである。このときのボーカルはフタムラさん。
女性ボーカルは初めてで、男性ボーカルとはキーが違い、フレーズの組み立てで、みんな結構苦しんでいた記憶がある。

ワシの記憶の中では、「キマらないバンド」という感じが濃く、ちょっと苦みのある思い出のバンドだった。

しかし、今回演奏を聴き直してみると、結構キチンとやっている。
みんな基本はできた人たちなんだから当たり前なのかも知れない。
記憶の中の「キマらない」は、実力に比べて難しいことをやり過ぎたせいなんだと思う。

コピーを脱し、自分たちの好きなロックの曲をブルーグラスアレンジでやっていた。
しかし、ブルーグラスと違うコード進行、あまり演奏したことのないキーなどに苦労した。
ちょっと実力が足りなかったのだろう。

しかし、練習はよくやった。
毎週日曜日、平河町のビルの一室に集まり昼から夕方まで練習していた。
メンバーのおじさんがやっていた会社を日曜日に借りていたのだ。
何をやっていた会社かは知らないが、「玉峰」という会社だった。
よく貸してくれたものだ。のどかな時代だった。

ライブは銀座ロッキートップのものらしい。
神保町のBluegrass innにも出たことを覚えている。
箱根フェスには、ワシがワンボックスのレンタカーを借りてみんなで行った。

しかし1枚の写真も残っていないのは残念である。


下に1曲だけ曲を載せておく。
フクハラのオリジナル曲「よたろう」である。
これならば著作権問題は生じないであろう。

けっこういいんじゃない?

ああ、なつかしい。

2014年7月13日日曜日

神田神保町

先週の日曜日、カミさんと息子と3人で神保町で食事をした。
めずらしいことだが、ま、ボーナスが出たので。

神保町というのは息子の提案だったが、お目当ての店は休みで、スペイン料理屋さんへ行った。

待ち合わせの時間の少し前に神保町の交差点に立ったので、ちょろちょろと散歩してみた。

あのブルーグラス・インが・・・他のお店になったものと思っていたが・・・
ブルーグラス・インは、大学4年生の時、Smokeyの16代目をやっていて、毎月出ていたお店だ。
ここと銀座ロッキー・トップに交互に出ていた。
もう、ずいぶん前に店をたたんだという話は聞いていたけれど、そのままこの名前にお目にかかれるとは思わなんだ。
ここと銀座では客層が全然違っていて、自分としてはこっちのお客さんの方がやりやすかった。









ビールのうまさでは東京で一番という噂もある「ランチョン」。
10年以上前に、神保町出身で三宅裕司の同級生だという職場の先輩と訪れたっきり。
ワシはすごくうまいと思ったが、その先輩曰く、「ちょっと落ちたな」。

今回は、ビールが好きでないカミさんと一緒のためこのお店は却下。グスン。

靖国通り沿いにはずっと七夕飾りが



 趣のある「矢口書店」。午後7時直前。夏の夕暮れ、通りの反対側からはヤケに魅力的な景色であった。



ふと見ると「芳賀書店」が・・・。
80年代の「ビニ本ブーム」の頃、ビル1棟まるまる芳賀書店だったのに。

芳賀書店のエレベータをのぼり、ドアが開くと、目に飛び込む「肌色」。
あれはすごかったなあ。

今はどんなものを売っているのでしょうか。


2014年6月28日土曜日

道雄叔父と写真機

道雄叔父さんが亡くなった。
子供の頃は「みちおじちゃん」と呼んでいた。

正月、青山の母の実家に集まると、必ず座の中心にいた。
ダジャレを連発しては座をなごませていた。
いつも笑いがあふれていた。

酒を愛し、ダジャレを愛し、そして、写真を愛する人だった。

写真については直接指導を賜ったことはない。
だいたい蘊蓄を聞かされて終わりであった。

ただ、ワシが写真を撮り始めたきっかけは、案外叔父さんのお陰なのかも知れない。
「撮り鉄」が写真のスタートだったワシは、中学2年の秋、小海線の野辺山に行きC56の写真を撮った。そこから写真をやるようになったのだった。

実は、以前から我が家には、叔父さんが撮った野辺山鉄橋を渡るC56のパネルが飾られていた。当時、野辺山を走るSLは、「高原列車はランランランランラン、行くよ~」という歌とともに有名であり、そのSLはワシの頭の中では叔父さんの写真のイメージとして定着していた。一度、高原の景色の中でSLを見てみたいと思っていた。

そうして始めた「撮り鉄」については以前触れたことがある。中学2年から高校1年までの3年ほどで、稚内から鹿児島まで旅をした。金もなく宿もなくという旅であったが、非常におもしろい時間であった。

その頃、撮り鉄のヒーローと言えば広田尚敬だ。その広田氏が実は叔父さんの後輩だという話もその頃聞いた。

さて、SL専門の撮り鉄だったワシは、SLが引退してしまった高校2年生以降、撮るものが無くなってしまい、写真熱は冷めてしまった。その後、再び写真に取り組み始めたのは子供が生まれてからだって話も以前書いたことがある

30歳の頃、再び写真を撮り始めたワシは、義父に借りたキヤノンⅣsbで写真を撮りまくった。現像も再びやるようになった。


下の写真は、 そのⅣsbをぶら下げて、息子を祖母のところに連れて行ったときのものである。
叔父さんは、「あーた、まー、ずいぶんめずらしいカメラ使ってるじゃないの。ほう、Ⅳsb(フォーエスビー)か、あたしも使ってたけどいいカメラだったなぁ。」

叔父さんが使っていた頃は新品だったであろう。このカメラは、大卒初任給が1万円ちょっとの頃、8万円もしたカメラなのだ。今で言ったら車並みの価格が付いていたことになる。よくそんなカメラ買ったなあ・・・と感心する。

祖母と息子 1989年 canon IVsb アベノン 28mm f3.5  ネオパン400プレスト
祖母はこのあと10年生き、満100歳で亡くなった
息子の写真を撮る道雄叔父 データ同上
昔の青山の家は風情があって大好きだった
カメラは何だろう? 右手でレンズを回しているところを見るとまだキヤノン New F-1か


中学に入ったばかりの頃、叔父さんの会社の山荘に連れて行ってもらったことがあった。
2人の従兄弟と叔父さん夫婦。それから同級生のナナサワさん?の御家族。
叔父さんの葬儀のあと、従兄弟2人とは、ビールを飲みながらこの旅行の話になった。
彼らと会うと必ずこの話になる。大変楽しい時間を過ごさせていただいた。
下の写真は、叔父さんが撮ってくれたものである。

山荘の朝(たぶん)


ハイキングのスナップ。ナナサワさんの長男が「疲れた、疲れた」とうるさかったのに、次男は辛抱強く、黙々と歩いていたのを思い出した。

ナナサワさんがぶら下げているカメラはライカだ。
セルフタイマーがないところを見るとⅢcあたりか。

帰りは電気機関車の引く客車だった。これは走行中である。


あれから40年以上が経ち、ワシも従兄弟の2人もすっかり大人になってしまった。イヤ、それどころかもう少し経つと老人と言われる年齢になってしまう。

叔父さん、懐かしい思い出を作ってくれてありがとう。
そっちでまた写真でも撮って楽しんで下さいね。



2014年6月17日火曜日

Casey Kasem と Bob Kingsley

今日仕事から帰ってきたら、姉からメールがあり叔父さんが亡くなったとのこと。
先々週も叔母が亡くなっており、ここのところ次々に親戚がこの世を去っている。

叔父、叔母ということは父や母よりも年下である。
ウチの父母は弟や弟の連れ合いを見送ることになり、複雑な心境であろう。
父は「なんだか、人生短いなあ」と言っていた。
しかし、あんた、90歳過ぎてるよ。世間からすれば十分長生きだよ、と突っ込みを入れたくなった。

実は、昨日、NHKニュースを見ていたら「有名ディスク・ジョッキーのケイシー・ケイサムさんが亡くなられました」と言っていた。
もう何十年も思い出していなかったけれど、名前とともに記憶がよみがえってきた。

私の世代ではケイシー・ケイサムで洋楽を覚えた人は結構いたのかも知れない。

就職をした頃、土曜日はまだ半ドンだった。
正確に言えば、4週5休で、4週間に1日だけ土曜日は休み、あとの3回は半ドンだった。

その頃、ワシは農業改良普及員をしており、土曜日の午前中に巡回をするのが、結構好きだった。

土曜日は公用車も空いていて、好きな車を押さえられたし、何となく気楽な巡回ができるような気がするのだった。

ひとりで出張するときは、カーラジオはいつもFENにしていて、土曜の午前中はボブ・キングスリーの「アメリカン・カントリー・カウントダウン」を聞きながら酪農家を廻ったものだった。



アメリカン・カントリー・カウントダウンでブルーグラスがかかることは滅多になかったけれど、運転しながらカントリーを流しているのは気持ちがよかった。

そして、昼食後、事務所でしばらくのんびりした後、自分の車に乗り込み「アメリカン・トップ40」を聞きながら帰宅する、そんな光景を昨日は久しぶりに、唐突に思い出した。



ワシはこの番組で「Wham!」とか「Phil Collins」などを覚えたものである。

なんだか懐かしく、とっても時間が経ってしまったのが寂しい。

とにかくご冥福を祈ります。

叔父さんについては、いずれ、また書きたい。

2014年6月7日土曜日

「風立ちぬ」といずみちゃん

先日、NHKの「songs」で松田聖子がヒット曲を一気に30分歌うというのをやっていた。
本人も「こんなに長いメドレーは初めてです」といっていたのだが、途中で衣装は替わるし、髪型は変わるし・・・なんだ、収録つなげただけじゃん・・・と突っ込みも入れたくなった。

ま、それはともかく、懐かしい曲が多かった。さすが松田聖子、うまい。
しかし、若い頃の、ストレートで圧倒的な声量の歌声ではない。
昔よりテクニックはあるのかも知れない。でも、タイミングを崩しすぎて「演歌臭く」なっているではないか。昔の歌声が聞きたくなった。

その晩、ビールを飲みながらamazonを見ていたら、「風立ちぬ」をバスケットに入れていた。



久しぶりに聞いた「風立ちぬ」は素晴らしかった。
フルアルバムで聞くのは、まさに数十年ぶりのことである。
大瀧詠一プロデュースのA面は、シンセの音が古くさいだけで、あとは全然古びていない。
B面は財津和夫作曲の「白いパラソル」以外は全部、鈴木茂が編曲。
作詞は全曲、松本隆であり、細野晴臣以外の「はっぴいえんど」が勢揃いである。豪華!
昔聞いていた頃は何とも思っていなかったが、B面のベースはどれも素晴らしい。ベーシストは美久月千晴という人らしい。ワシと同い年。当時は22、3のアンチャンだ。

とにかく素晴らしいアルバムである。

このアルバムは、ワシが初めて能動的に聞いたアイドル歌手のレコードであることは以前に触れたことがある。

70年代、少年だったワシは、商業主義的な「歌謡曲」は聞かなかった。
あの頃、歌謡曲とフォークやロックにはかなりの距離があった。

若い人には解らないだろう。解説が必要だ。

1960年代までは、歌手はレコード会社の専属契約であった。
歌手はレコード会社の決めた先生の歌を、レコード会社の決めたとおりに歌わなければならなかった。

この関係をぶちこわしたのは「フォーク」であった。
フォークシンガーは、自分で歌詞を書き、曲を付け、歌を歌った。

大手レコード会社が配給しない(できない)歌を発売したのはURCレコードだった。
URCは「アングラ・レコード・クラブ」の略であり、元々は岡林信康の「くそくらえ節」を世に出すために生まれた会社なのであった。

「くそくらえ節」には、単に社会批判が含まれるだけではなく、明らかに天皇を小馬鹿にした1節があった。そこが「レコ倫」に引っかかり発売できなかった。




そんな感じであるから、70年代までは、フォークやロックの歌手はテレビにもあまり露出しないし、われわれファンは歌謡曲をバカにしていた。

だから歌謡曲、アイドル歌手に熱狂することはなかった。

そのワシの態度を変えたのがこの「風立ちぬ」であったのだ。


いずみちゃんは教え子である。
というと偉そうだが、何のスキルもない私を家庭教師に雇ってくれた家の子供だった。

いずみちゃんのお母さんは、地元の駅のそばで皮膚科の開業医をしており、お父さんは音楽評論家であった。たまに「暮らしの手帖」の音楽評論で名前を目にすることがあった。

そのお父さんのお陰で、発売前にアルバムを入手することができたようだ。

そんなわけで、ワシも「風立ちぬ」を早めに貸してもらい、録音したのだった。

勉強中のいずみちゃん

まだ浦安にディズニーランドができる前、彼女は、
本場アメリカのディズニーランドへ行ってきたのだった。
写真は何の許可も取っていないが、30年以上前の肖像だ。許してつかあさい。

いずみちゃんとはいろんな話をした。
今風に言うと「恋バナ」もした。

勉強の面倒は見たけれど、ワシにものを教えるスキルはまるでなかった。
今であれば、恥ずかしくて「家庭教師できます」とは言えない。
あれで俸給を得ていたのは罪悪と考える。今では。
とっても申し訳ないような気がする。

あれから30年以上が経った。
大学を卒業した年の夏、彼女を科学技術館で行われる三峰のバーゲンに連れて行ったことがあった。そこで日本製靴(REGAL)の靴を売っていたマスブチに会ったのが、マスブチにあった最後の時でもあった。

オイラは彼女に何かあげられたことがあったのだろうか?
感想を聞いてみたいものである。
今、どうしているのであろうか。普通にお母さんになったのだろうか。
できれば一度お会いしてお話ししてみたいものだ。

2014年5月18日日曜日

アイ・リンクタウン

市川の駅前にアイ・リンクタウンというのがある。
南口に2棟建っている超高層ビルの西側の方だ。

このビルが建ったのももうずいぶん前のことになるのだが、無料で開放している展望施設にまだ行ったことがなかった。

先日、母の病院の帰りにちょっと立ち寄ってみたところ、45階、地上150mからの展望は素晴らしい。よく知っている地域だけに長く見ていても飽きないのである。

というわけで、昨日、バンドの練習の帰りに、ふらりと途中下車し、また登ってきた。
これが無料で見られるのは結構嬉しいぞ。

北の方角には筑波山が見える。iphoneは倍率を上げるとよくない。

西南西の方角。スカイツリーがよく見える。


まさに日が暮れようとしているところ。

アイ・リンクタウンのあるザ・タワーズ。こちらは東棟。

おお、そうじゃった、ここは県会議員プリティ長嶋先生の地元じゃった。

2014年4月30日水曜日

花盛り、そして新緑

1ヶ月ぶりだ。
いろいろあった。

今回の異動では仕事量がめちゃくちゃ増えた。
2人から引き継ぎを受け、さらに、自分の従来からの仕事もあり、単純に考えると2.5倍ぐらいになる。しかし、実際にそんなにできるわけはなく「手が回らない」状態である。

以前のように若い部下の面倒を見られなくなった。前のボスには「後継者を育てて下さい」と言われたが、こんな状態でいいのか・・・と感じることもしばしばである。
しかし、優秀な若者なので、放って置かれた方が自分で悩み、解決し、案外、伸びるものなのかも知れない。まあ、ワシも今の職場では師匠らしい師匠はいなかった。

桜の咲く頃、(4月第1週であるが)異動直後でものすごく疲れる中、母を病院から連れ出し、近所の公園の桜を見せてあげた。雨が降り出したため、たった20分ほどで引き上げたが、少しは親孝行になったかな。



高校の同窓会も開かれた。
4年前開かれた同窓会は、2次会だけに参加し、それをきっかけに1年のクラスの交流を再開することができた。今回も、懐かしい顔、全然覚えてない顔、いろんな顔を見ることができた。
4年前、同窓会の企画を聞いたときは、学年全部で集まってどうするんだ?と思ったが、結構おもしろいものである。4年後も元気で会ってみたい。

よそのクラスです。先生も元気でうらやましい。わが恩師はすでに他界。
そして、GW(直前かな)に入り、母を家に連れてきて1日過ごした。寿司やらお菓子やら、普段食べられないものだからよく食べた。以前はこんなに食べることはなかったんだが・・・。

そうこうしているうちに、うちのナガミヒナゲシは花盛りになり、そろそろ散り始めている。
こんな感じで今年も時が過ぎていくのだなあ・・・。


メイプルソープはポピーのつぼみをエロティックに撮ったもんだが、どうしてあんなにエロティックだったんだろう。

我が家の老犬。もう16歳半になる。


このシクラメンは、寄せ植えにして何年も放置したミニシクラメン。
ミニは寒さに強いと言うが・・・本当に強い。