2012年10月29日月曜日

高砂ウッドストック

”高砂音楽祭2012”に参加してきた。
Old Kentucky Bandとしては久しぶりのライブ。
しかし、昨日、休日出勤で丸一日イベントをこなしてきたあとの朝イチのバンド活動はつらい。布団から離れがたかった。

会場は、京成線の脇にある公園。アレ、一度見たことがある風景だぞ・・・と思ったら、義父が最後に入院していた病院のすぐそばだった。今年の1月だからまだ記憶が鮮明だ。

ステージに上がるとポツポツと雨が・・・。でもわれわれは良かった。ほとんど降ってなかったから。あとのバンドは大変であっただろう。






2012年9月17日月曜日

被災地に行ってきた

もう1週間が過ぎてしまったが、先週、被災地に行ってきた。
ただ行くのもどうかと思ったが、この目で見ておきたい、そう思ったからだ。

仙石線野蒜駅 架線がぐにゃりと垂れ下がっている。いったい復旧は何年後になるのやら。

ワイヤーは架線をつるす吊架線。目の前に垂れ下がっている。

架線を支える支柱はぐにゃり。

水銀灯は完全に寝ている。

東松島市野蒜出張所。相当な人数が犠牲になったのだろうか?
東松島市の犠牲者は1000名を越すという。

2階まで完全に水没した出張所。

ランドセルの持ち主は無事だったのだろうか。




出張所内部。

橋の欄干もぐにゃり。恐るべき力である。

石巻市内。がれきと同様、車、バイクはそこら中に積み上げられている。



がれきの山 石巻市内。

女川町。言葉を失った。

女川町。この建物も持ち上げられ、横倒しになった。

女川港。何もない。

女川町。

石巻市雄勝町。雄勝小学校。この小学校では犠牲者が出なかったそうだ。
教育というのは素晴らしい。


子供たちは助かっても学校の内部は完全な廃墟である。

雄勝中学校。こちらも完全に津波にのみ込まれた。




東松島市野蒜地区を見ると、あちこちに家はあるのだが、住むことはできずみんなもぬけの殻。
家のないところも、地面を見るとそこら中に家の基礎が。
あっという間に街が消えてしまったのであろう。

女川、雄勝でもそうだった。
女川は漁港で栄えた町だ。しかし、パッと見ただけでは町であったところとは全く思えない。家もないし、ほとんど人影もない。

雄勝では小学校、中学校を見た。学校の生徒は全員避難ができたらしい。
しかし、雄勝病院では入院患者の9割方が犠牲になったという。
ここもすっかり町が消えてしまった。

津波の力は本当に恐ろしい。


当日は南三陸町のホテル観洋に宿泊した。
女川町に入ったときにはすでに日が傾いていて、雄勝町ではもうちょっとで日没を迎えそうな感じだった。

国道398号線は、すれ違う車もほとんどなく、人影も見えない。このまま夜を迎えたらヤバイのではないか・・・そんな気分になる。

野蒜駅の前で津波で被災したという女性2人が写真を前に、被災状況を旅行者に伝えていた。語り部とでも言うべきか・・・。

彼女らは「今晩は松島に泊まるの?」と聞いたので、「いえ、南三陸まで行きます」というと、「私、まだ怖くて南三陸には行ってないの。やめた方がいいよ」と言われた。

そんなことを思い出しながら日暮れのみちをひた走る。ちょっと気が急く。


南三陸町のホテル観洋に到着したのは6時頃だった。
大勢の団体さんがいる大きなホテルで、そういったホテルに泊まるのは久しぶりである。

昔は農家のおじさん達の視察旅行に付き添ったり、研究機関同士の視察+会議なんて言う場合にはこんなホテルに良く泊まったものだが、世の中景気が悪くなり、そういう機会もめっきり減っていった。現在の職務ではそんな機会は全くない。ちょっと昔が懐かしい。


エサをくれるのを待っているウミネコorカモメ(どっち?)


凪いでいる海はものすごくキレイだ。

ひとたびパンくずをあげるとものすごい勢いで寄ってくる。

南三陸町ではemobileは全く無力。ずっと電波を拾えなかった。


翌日はホテルが用意する「語り部バス」に参加した。
バスに添乗するホテルの社員=被災者が語り部となり、客に震災被害を語ろうという取り組みである。参加費はわずか500円。燃料費と減価償却費で足が出るのではないか。ホテル観洋、頑張っている。

最後まで避難を呼びかけて犠牲になった、24歳の女性職員の
悲劇であまりにも有名になってしまった防災対策庁舎

朝方は見学者がたくさん訪れる。

この方が添乗された語り部さん。奥さんも子供も無事だったが、
住んでいた住宅の中身は娘さんの1枚の洋服を残して全て流れ去ったとのこと。



この鉄骨の曲がりようで、津波の激しさがわかろうというもの。
全てがぐんにゃりと曲がっていた。



残った建物も骨組みだけ。

気仙沼線の線路跡。全てが流されてしまった。

津波をかぶったところは色が変わっている。信じられない高さまで津波が来た。




2012年9月4日火曜日

森の音楽会

高校時代のクラスメート、みちが出演するコンサートを見に行った。

平井の小松川区民館ホールだという。
シブイ。

実は、平井は昔よく来た。
浪人時代、毎日、市ヶ谷左内坂の城北予備校の授業が終わると、基本的には小岩の図書館へ行き、図書館が終わる頃まで勉強した。予備校仲間で高校の同級生の川口、武井、それから武井の友達で東大理Ⅰを受けるという毛利、それから千葉大の医学部へ行った、えー・・・あー、もう忘れた。大学ではよく顔を合わせたのに。

まあ、そんな仲間と毎日勉強していたわけだ。
ただ、小岩の図書館には、もともと席がそう多くない上に、毎日朝から司法試験を受けるおじさん達が陣取っており、学校の定期試験シーズンなど席を確保できないときもあったりした。そんな混雑シーズンには小松川図書館へよく通ったものだ。

図書館の隣には、うちのカミさんの母校でもある小松川高校があり、そこの生徒がよく勉強に来ていた。千葉大に入学すると、小松川図書館で見かけた小松川高校の卒業生が何人もおり、ずいぶんと一杯来ているのだなあと思ったものだ。

平井駅前の通り。昔はここがメインストリートだった。
平井駅前に降り立ったのは何年ぶりだろう。図書館に通っていた頃以来だろうか。
駅前はすっかり変わり、往事の面影はない。
あの頃は、ヒゲの講談師、田辺一鶴が買い物カゴを下げて駅前商店街を歩いているのを何度も目撃した。まだご健在なのであろうか?

平井駅前の通りを南下すると、何百メートルも行かないうちに車の通れない道になる。昔のメインストリートは歩行者専用となり、自動車の通れる道路とは微妙な角度で交差する。

従来のメインストリートはここを直進(自動車は通れない)
昔のメインストリートをしばらくまっすぐ進み、現在のメインストリートととの交差点を渡り、さらに進むと区民館はあった。

光り輝く区民館。以前使っていたエクシリムケータイで撮った。輝度差の大きなところは苦手である。
カメラは息子に貸し出し中であり、htc Ariaの写真はあまりにも酷いので。


ここまで来て思い出した。30年と少し前、学部は一緒だが学科が違うのに何故か仲良くなった、環境緑地学科の石村君に呼ばれてここへ来たことがある。演劇部の公演をここで行っており、招待券をもらったのである。石村君は今何をしているのか?全くの音信不通である。

演劇部がやる「劇」というものを初めて見たのだが、結構おもしろかったことを覚えている。しかし、ナンの話であったかは全く覚えていない。


今日はここで「森の音楽会」というコンサートが開かれていた。
高校の同級生 みちが出演するので訪れた。
みちは高校生の頃はブラスバンドでフルートを吹いていた、確か。ギターも弾いていた。そして、ピアノもうまかった。
今日はピアノで出演だ。

プログラムの前半は子供たちの「発表会」である。
なごむ。
娘が小学生の時にやっていたバイオリンの発表会を思い出し、懐かしい感じがした。

みちはピアソラのタンゴを2曲弾いた。
ものすごく難しい曲だったが、よく弾ききったと思った。
なかなかよかった。
しかし本人は「崩壊」し、打ち上げで泣いたのだという。


ワタシはグッと来た。
ステージがうまくいったとかそういう次元ではなく、
なんというか、その、「挑戦している姿」にグッと来たのであった。

みちだけではない。
出演者みんなが挑戦している感じであった。
そこが、良かった。素晴らしかった。

翻って、自分はどうか・・・
ワシらはずっとバンドを続けていて、それはそれで「努力」はしている。
だが、「挑戦」はしていないと思う。

ワタシも頑張って挑戦してみたくなった。
誰か先生についてジャズベースでも習ってみようか・・・
そんな気になった。

2012年8月26日日曜日

旅行じゃない旅

ああ、ずいぶん久しく書いていなかった・・・1ヶ月ぶりだ。

旅行じゃない旅、ただ観光地を訪れるのを旅行とすれば、自分を発見し成長させるのが「旅」と言っていいんだろうか、そんな「旅」を思い出したい。

自分にとって「旅」と言えるのは中学2年から高校1年にかけてのSL撮影の旅だけだろう。
前に一度、中学2年の最初の旅に関しては書いたことがあった。

お金は全くなく、最低限の宿泊と、毎日食べるのがやっと。
切符は周遊券。旅行期間は周遊券の有効期間。ヒマだけは売るほどあった。
高校に入ってからは、新聞配達をし、ほとんど旅に注ぎ込んだ。
だから周囲の友人達のようにおしゃれに回す予算はなく、バイト代のほとんどはフィルム、運賃、宿泊料、食費に消えていった。
旅館に泊まるのは半分程度。それも最近はとんと見かけなくなったユースホステル。

移動方法、宿泊場所の選定、旅先でのトラブルの対処・・・。
学ぶことはいくらでもあった。
安く上げるために北海道へでも九州へでも、周遊券だけで乗れる「急行」にしか乗らなかった。
また、宿代を切り詰めるため、ただ寝るためだけに夜行の急行列車に乗ることもしばしば。
駅を開放しているところではずいぶん寝かせてもらった。

2年ちょっとの間に、まさに稚内から鹿児島まで行った。
自分たちの行動力にも今さらながら驚くが、そんな行動を許してくれた親たちにも感謝である。

とにかく、少年を少し大人にしてくれた旅であった。

1974年夏 山陰
写真は、高校1年の夏、九州・山陰へ行ったときのものだ。
九州までは急行「桜島」で行った。朝10時に東京駅を発ち、大阪駅を通過するのが午後6時頃、広島駅通過は0時頃、関門トンネルを抜けると朝、それぐらいの時間がかかった。

この写真は、たぶん帰路の山陰で撮ったものだと思う。毎日メチャクチャ暑く、旅館にあまり泊まらないものだから駅の水場で体を拭き、洗濯をした。持って行ったTシャツは全部真っ黄色になり、使えなくなった。





















これらの写真はみんな筑豊の石炭を輸送する9600型である。
大正期に製造された、動輪が4軸の輸送用機関車である。北海道から九州まで、炭鉱のあるところではとくに活躍した。

見事なボタ山が写っている。これが筑豊の風景だった。
おそらく現在は、ボタ山なぞ全く見ることはできないであろう。
これは認識違いであった。人為的に作った(できてしまった)山とはいえ、あんなに大きなものが消えてしまうわけはない。現在、ボタ山には木が生い茂り、見事に緑化されて、フツーの山のようになってしまったようだ。時の流れを感じざるを得ない。

場所は田川市の後藤寺駅近くだと思う。
現在は田川後藤寺駅といい、さらに、WikipediaによればMr.Maxがネーミングライツを取得して、MrMax田川後藤寺駅」 となっているという。ナンだかなあ・・・。ミスマではたまに買い物をするが。


宮崎駅? スポーク動輪が美しいC55。この当時、C55はほとんど現役を退いていた。
この機関車はおそらく 「C5557」(はっきり見えない)。翌年には全国からSLが消え、当然この機関車も廃車となった。

日南線のC11。しかし、どの写真もフレーミングがよくない。
日南線内海駅。左がワシ、右がハラ。ハラはいつも旅の相棒だった。

日南は当時、新婚旅行のメッカだった。「鬼の洗濯岩」にも行った。それ以来日南海岸に行ったことはない。ものすごくキレイな海だったが、裸足で歩いて足が傷だらけになったことをよく覚えている。

「カクイわた」というのがヤケに受けた。顔は真っ黒け。汚い。

「カクイわた」には後年出会った。2006年、学会で鹿児島を訪れた際、
大久保利通の生家のほど近くで見つけた。懐かしかった。


山陰本線。  いいアングルなんだけどなあ。ブレてる。
現代の手ブレ防止機能が付いたカメラならば止まっただろうに。


この旅をしたときからすでに38年も経っている。恐ろしいことに。

当時、ワタシが好意を寄せていたクラスメートの女子には孫がいるという。それも複数の。

それだけ歳をとったということである。

しかし記憶は結構ビビッドである。部分的にではあるが。。。。


家に着いたとき、家族がみんな「クサーい」と言った。

顔は日焼けで真っ黒、シャツは真っ黄色。臭いも相当のものだったらしい。


その直後に、中学の同級生アッコが訪ねてきた。

臭いが気になって、美人のアッコに接近することがためらわれた。

接近すれば何かあったのか・・・それは今となってはわからない。

結果的には何もなかった。残念ながら。