人工透析をするようになってからもう10年以上になる。
透析の大変さは前にも書いたことがあった。あの雪の日は本当にハラハラした。
週に3日の透析は、だいたい4時間くらいかかる。うちの母は他にも膝痛で通院していたので、ほとんど毎日が病院通いで終わってしまう。
5月の後半から頭が痛いと言っており、脳神経外科に行くとかいっていたのだが、ある日、透析をしていると先生が首をみて「これ帯状疱疹じゃないか」と言ったという。
そして、系列の大学病院の皮膚科を紹介され、外来を訪れると、やはり帯状疱疹であり、透析もあるので「入院しましょう」ということになった。そして、頭痛の原因はどうも帯状疱疹らしかった。
6月のはじめに入院し、1週間ほどで軽快、退院した。
退院して3日ほど経って、透析に向かおうとすると膝が痛くて動けない。
どうにか病院まで行ったが、帰りには全く歩くことができず、透析クリニックの運転手が背負って家まで運び入れてくれたという。
しかし、父も母も子供にはヘルプコールをしないのだ。自分からは。
土曜日の昼、たまたま実家に電話した姉が状況を知り、我が家に電話してきた。
とりあえず実家に行き母がキチンと寝られる場所をどうにか整備した。
しかし、全く歩くことができず、トイレにも行けない。
1回、背負ってトイレまで運んだが、重い重い。
母は、介護保険では「要支援2」である。これはもっとも軽い階級だ。
まあ、今までは頑張れば自力で、あるいは父の力を借りて何でもしてきた。
そのため、認定はされているものの、介護サービスは全く受けてこなかった。
しかし、今はそんなことはいっていられない。
認定の時に世話になった事業所に電話し、とりあえずポータブルトイレだけでも何とかならないか聞いてみる。すると、すぐに福祉用具を販売する事業所に連絡をとってくれ、その日のうちにトイレは入手することができた。
本当にありがたかった。
日曜日、兄弟全員が集まり、鳩首協議。
「明日は透析だ。このままでは絶対に行くことはできない。どうしよう」
「1階に寝てれば、透析の運転手が何とかしてくれるよ」と父が楽観的なことを言う。というか、息子や娘たちに迷惑をかけまいと、楽観的に装っているようにしか見えなかった。
しかし、歩けない母を連れて行くのは運転手の仕事ではない。
もし、明日何とかなっても、その次はどうする?
結局何の案も浮かばず、救急を要請した。
救急隊には、透析の手術をしたのも前述の大学付属病院であったことから、その病院を希望した。しかし、整形外科の担当医がいないらしく受け入れは叶わなかった。
運ばれた先は「化研病院」という、今まで聞いたことのない病院であった。
あの式場病院(山下清とか欧陽菲菲とかで有名な)の隣である。こんなところにもうひとつ病院があるとは知らなかった。しかも歴史は明治からと古く、明治天皇から下賜された「恩賜館」なる建物もある由緒正しい病院であった。
病院の玄関からみた浄水場の特徴的な屋根。 わが大学の教室からよく見たものだ。 |
処置に当たった先生は、膝をみて、「ずいぶん腫れているな」といい、シリンジを使い中の「水」を抜いた。やや黄色がかった、白濁した「水」が数十cc取れた。
「これ、培養ね」と言った。
これまで、事態をどう打開するかばかり考えていて、どうして母の膝が使えなくなったのかは全く考えていなかった。先生が言うには「関節炎」だという。そして、培養で炎症の原因になった菌を特定するのだという。
10日以上経って、培養の結果を聞いた。
結核菌などのヤバイ菌は出なかったようだ。
入院したとき、軽い肺炎を起こしていたようだが、その菌が体に回り、膝と踵で繁殖してしまったようだという。(踵も痛かったのだ)そして、肺の水、膝の水、踵の傷の3カ所から採取したサンプルを培養した結果、全て同じ菌が出たという。
足の屈伸をする装具。角度を入力すると自動的に曲げ伸ばしをしてくれる。 1ヶ月も足を十分動かしていないと固着してしまう。それを防ぐのだ。 |
母は、リハビリの結果、立つところまではいった。しかし、歩くまでには相当の時間を要するであろう。本人のやる気が出なければ、もう歩くことができないかも知れない。
透析患者であることを考えると、もう、家に帰るのは現実的でないのかも知れない。
非常に悩み多き現在である。
しかし、化研病院は説明もしっかりしているし、原因もきっちり究明しようとするし、なかなかいい病院という印象を持っている。こういう病院にたまたま入院できたのは不幸中の幸いであった。