2012年9月17日月曜日

被災地に行ってきた

もう1週間が過ぎてしまったが、先週、被災地に行ってきた。
ただ行くのもどうかと思ったが、この目で見ておきたい、そう思ったからだ。

仙石線野蒜駅 架線がぐにゃりと垂れ下がっている。いったい復旧は何年後になるのやら。

ワイヤーは架線をつるす吊架線。目の前に垂れ下がっている。

架線を支える支柱はぐにゃり。

水銀灯は完全に寝ている。

東松島市野蒜出張所。相当な人数が犠牲になったのだろうか?
東松島市の犠牲者は1000名を越すという。

2階まで完全に水没した出張所。

ランドセルの持ち主は無事だったのだろうか。




出張所内部。

橋の欄干もぐにゃり。恐るべき力である。

石巻市内。がれきと同様、車、バイクはそこら中に積み上げられている。



がれきの山 石巻市内。

女川町。言葉を失った。

女川町。この建物も持ち上げられ、横倒しになった。

女川港。何もない。

女川町。

石巻市雄勝町。雄勝小学校。この小学校では犠牲者が出なかったそうだ。
教育というのは素晴らしい。


子供たちは助かっても学校の内部は完全な廃墟である。

雄勝中学校。こちらも完全に津波にのみ込まれた。




東松島市野蒜地区を見ると、あちこちに家はあるのだが、住むことはできずみんなもぬけの殻。
家のないところも、地面を見るとそこら中に家の基礎が。
あっという間に街が消えてしまったのであろう。

女川、雄勝でもそうだった。
女川は漁港で栄えた町だ。しかし、パッと見ただけでは町であったところとは全く思えない。家もないし、ほとんど人影もない。

雄勝では小学校、中学校を見た。学校の生徒は全員避難ができたらしい。
しかし、雄勝病院では入院患者の9割方が犠牲になったという。
ここもすっかり町が消えてしまった。

津波の力は本当に恐ろしい。


当日は南三陸町のホテル観洋に宿泊した。
女川町に入ったときにはすでに日が傾いていて、雄勝町ではもうちょっとで日没を迎えそうな感じだった。

国道398号線は、すれ違う車もほとんどなく、人影も見えない。このまま夜を迎えたらヤバイのではないか・・・そんな気分になる。

野蒜駅の前で津波で被災したという女性2人が写真を前に、被災状況を旅行者に伝えていた。語り部とでも言うべきか・・・。

彼女らは「今晩は松島に泊まるの?」と聞いたので、「いえ、南三陸まで行きます」というと、「私、まだ怖くて南三陸には行ってないの。やめた方がいいよ」と言われた。

そんなことを思い出しながら日暮れのみちをひた走る。ちょっと気が急く。


南三陸町のホテル観洋に到着したのは6時頃だった。
大勢の団体さんがいる大きなホテルで、そういったホテルに泊まるのは久しぶりである。

昔は農家のおじさん達の視察旅行に付き添ったり、研究機関同士の視察+会議なんて言う場合にはこんなホテルに良く泊まったものだが、世の中景気が悪くなり、そういう機会もめっきり減っていった。現在の職務ではそんな機会は全くない。ちょっと昔が懐かしい。


エサをくれるのを待っているウミネコorカモメ(どっち?)


凪いでいる海はものすごくキレイだ。

ひとたびパンくずをあげるとものすごい勢いで寄ってくる。

南三陸町ではemobileは全く無力。ずっと電波を拾えなかった。


翌日はホテルが用意する「語り部バス」に参加した。
バスに添乗するホテルの社員=被災者が語り部となり、客に震災被害を語ろうという取り組みである。参加費はわずか500円。燃料費と減価償却費で足が出るのではないか。ホテル観洋、頑張っている。

最後まで避難を呼びかけて犠牲になった、24歳の女性職員の
悲劇であまりにも有名になってしまった防災対策庁舎

朝方は見学者がたくさん訪れる。

この方が添乗された語り部さん。奥さんも子供も無事だったが、
住んでいた住宅の中身は娘さんの1枚の洋服を残して全て流れ去ったとのこと。



この鉄骨の曲がりようで、津波の激しさがわかろうというもの。
全てがぐんにゃりと曲がっていた。



残った建物も骨組みだけ。

気仙沼線の線路跡。全てが流されてしまった。

津波をかぶったところは色が変わっている。信じられない高さまで津波が来た。




2012年9月4日火曜日

森の音楽会

高校時代のクラスメート、みちが出演するコンサートを見に行った。

平井の小松川区民館ホールだという。
シブイ。

実は、平井は昔よく来た。
浪人時代、毎日、市ヶ谷左内坂の城北予備校の授業が終わると、基本的には小岩の図書館へ行き、図書館が終わる頃まで勉強した。予備校仲間で高校の同級生の川口、武井、それから武井の友達で東大理Ⅰを受けるという毛利、それから千葉大の医学部へ行った、えー・・・あー、もう忘れた。大学ではよく顔を合わせたのに。

まあ、そんな仲間と毎日勉強していたわけだ。
ただ、小岩の図書館には、もともと席がそう多くない上に、毎日朝から司法試験を受けるおじさん達が陣取っており、学校の定期試験シーズンなど席を確保できないときもあったりした。そんな混雑シーズンには小松川図書館へよく通ったものだ。

図書館の隣には、うちのカミさんの母校でもある小松川高校があり、そこの生徒がよく勉強に来ていた。千葉大に入学すると、小松川図書館で見かけた小松川高校の卒業生が何人もおり、ずいぶんと一杯来ているのだなあと思ったものだ。

平井駅前の通り。昔はここがメインストリートだった。
平井駅前に降り立ったのは何年ぶりだろう。図書館に通っていた頃以来だろうか。
駅前はすっかり変わり、往事の面影はない。
あの頃は、ヒゲの講談師、田辺一鶴が買い物カゴを下げて駅前商店街を歩いているのを何度も目撃した。まだご健在なのであろうか?

平井駅前の通りを南下すると、何百メートルも行かないうちに車の通れない道になる。昔のメインストリートは歩行者専用となり、自動車の通れる道路とは微妙な角度で交差する。

従来のメインストリートはここを直進(自動車は通れない)
昔のメインストリートをしばらくまっすぐ進み、現在のメインストリートととの交差点を渡り、さらに進むと区民館はあった。

光り輝く区民館。以前使っていたエクシリムケータイで撮った。輝度差の大きなところは苦手である。
カメラは息子に貸し出し中であり、htc Ariaの写真はあまりにも酷いので。


ここまで来て思い出した。30年と少し前、学部は一緒だが学科が違うのに何故か仲良くなった、環境緑地学科の石村君に呼ばれてここへ来たことがある。演劇部の公演をここで行っており、招待券をもらったのである。石村君は今何をしているのか?全くの音信不通である。

演劇部がやる「劇」というものを初めて見たのだが、結構おもしろかったことを覚えている。しかし、ナンの話であったかは全く覚えていない。


今日はここで「森の音楽会」というコンサートが開かれていた。
高校の同級生 みちが出演するので訪れた。
みちは高校生の頃はブラスバンドでフルートを吹いていた、確か。ギターも弾いていた。そして、ピアノもうまかった。
今日はピアノで出演だ。

プログラムの前半は子供たちの「発表会」である。
なごむ。
娘が小学生の時にやっていたバイオリンの発表会を思い出し、懐かしい感じがした。

みちはピアソラのタンゴを2曲弾いた。
ものすごく難しい曲だったが、よく弾ききったと思った。
なかなかよかった。
しかし本人は「崩壊」し、打ち上げで泣いたのだという。


ワタシはグッと来た。
ステージがうまくいったとかそういう次元ではなく、
なんというか、その、「挑戦している姿」にグッと来たのであった。

みちだけではない。
出演者みんなが挑戦している感じであった。
そこが、良かった。素晴らしかった。

翻って、自分はどうか・・・
ワシらはずっとバンドを続けていて、それはそれで「努力」はしている。
だが、「挑戦」はしていないと思う。

ワタシも頑張って挑戦してみたくなった。
誰か先生についてジャズベースでも習ってみようか・・・
そんな気になった。