もう1週間が過ぎてしまったが、先週、被災地に行ってきた。
ただ行くのもどうかと思ったが、この目で見ておきたい、そう思ったからだ。
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仙石線野蒜駅 架線がぐにゃりと垂れ下がっている。いったい復旧は何年後になるのやら。 |
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ワイヤーは架線をつるす吊架線。目の前に垂れ下がっている。 |
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架線を支える支柱はぐにゃり。 |
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水銀灯は完全に寝ている。 |
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東松島市野蒜出張所。相当な人数が犠牲になったのだろうか?
東松島市の犠牲者は1000名を越すという。 |
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2階まで完全に水没した出張所。 |
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ランドセルの持ち主は無事だったのだろうか。 |
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出張所内部。 |
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橋の欄干もぐにゃり。恐るべき力である。 |
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石巻市内。がれきと同様、車、バイクはそこら中に積み上げられている。 |
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がれきの山 石巻市内。 |
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女川町。言葉を失った。 |
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女川町。この建物も持ち上げられ、横倒しになった。 |
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女川港。何もない。 |
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女川町。 |
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石巻市雄勝町。雄勝小学校。この小学校では犠牲者が出なかったそうだ。
教育というのは素晴らしい。 |
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子供たちは助かっても学校の内部は完全な廃墟である。 |
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雄勝中学校。こちらも完全に津波にのみ込まれた。 |
東松島市野蒜地区を見ると、あちこちに家はあるのだが、住むことはできずみんなもぬけの殻。
家のないところも、地面を見るとそこら中に家の基礎が。
あっという間に街が消えてしまったのであろう。
女川、雄勝でもそうだった。
女川は漁港で栄えた町だ。しかし、パッと見ただけでは町であったところとは全く思えない。家もないし、ほとんど人影もない。
雄勝では小学校、中学校を見た。学校の生徒は全員避難ができたらしい。
しかし、雄勝病院では入院患者の9割方が犠牲になったという。
ここもすっかり町が消えてしまった。
津波の力は本当に恐ろしい。
当日は南三陸町のホテル観洋に宿泊した。
女川町に入ったときにはすでに日が傾いていて、雄勝町ではもうちょっとで日没を迎えそうな感じだった。
国道398号線は、すれ違う車もほとんどなく、人影も見えない。このまま夜を迎えたらヤバイのではないか・・・そんな気分になる。
野蒜駅の前で津波で被災したという女性2人が写真を前に、被災状況を旅行者に伝えていた。語り部とでも言うべきか・・・。
彼女らは「今晩は松島に泊まるの?」と聞いたので、「いえ、南三陸まで行きます」というと、「私、まだ怖くて南三陸には行ってないの。やめた方がいいよ」と言われた。
そんなことを思い出しながら日暮れのみちをひた走る。ちょっと気が急く。
南三陸町のホテル観洋に到着したのは6時頃だった。
大勢の団体さんがいる大きなホテルで、そういったホテルに泊まるのは久しぶりである。
昔は農家のおじさん達の視察旅行に付き添ったり、研究機関同士の視察+会議なんて言う場合にはこんなホテルに良く泊まったものだが、世の中景気が悪くなり、そういう機会もめっきり減っていった。現在の職務ではそんな機会は全くない。ちょっと昔が懐かしい。
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エサをくれるのを待っているウミネコorカモメ(どっち?) |
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凪いでいる海はものすごくキレイだ。 |
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ひとたびパンくずをあげるとものすごい勢いで寄ってくる。 |
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南三陸町ではemobileは全く無力。ずっと電波を拾えなかった。 |
翌日はホテルが用意する「語り部バス」に参加した。
バスに添乗するホテルの社員=被災者が語り部となり、客に震災被害を語ろうという取り組みである。参加費はわずか500円。燃料費と減価償却費で足が出るのではないか。ホテル観洋、頑張っている。
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最後まで避難を呼びかけて犠牲になった、24歳の女性職員の
悲劇であまりにも有名になってしまった防災対策庁舎 |
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朝方は見学者がたくさん訪れる。 |
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この方が添乗された語り部さん。奥さんも子供も無事だったが、
住んでいた住宅の中身は娘さんの1枚の洋服を残して全て流れ去ったとのこと。 |
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この鉄骨の曲がりようで、津波の激しさがわかろうというもの。
全てがぐんにゃりと曲がっていた。 |
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残った建物も骨組みだけ。 |
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気仙沼線の線路跡。全てが流されてしまった。 |
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津波をかぶったところは色が変わっている。信じられない高さまで津波が来た。 |